第7話「三日目の朝」
設計図の上を、羽根ペンが滑る。
王都の別邸の、二階の小さな書斎。窓から入る午前の光が、机に広げた羊皮紙を白く照らしている。結界の層構造を図に起こす作業は、公爵領でも何度かやったことがあるが、こうして静かな部屋で、誰にも急かされず、こめかみの痛みもなく描くのは初めてだった。
三層構造の外殻の厚みを少しだけ変えれば、魔力効率が上がるかもしれない。公爵領では試す余裕がなかった。毎晩の維持で手一杯で、改良を考える時間など残っていなかったから。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
マルタが盆を運んできた。わたくしの好みの、苦みの強い紅茶。公爵家では出されたことのない銘柄だ。
「ありがとう」
「顔色がよくなりましたね。王都に来てから、目の下の隈がすっかり消えました」
「毎晩眠れるというのは、こんなにも違うものなのね」
「当たり前のことですよ。十年間が異常だったのです」
マルタの声に棘はない。ただ事実を述べている。わたくしは紅茶を一口含んだ。苦い。温かい。自分で選んだ味だった。
午後、玄関の呼び鈴が鳴った。
マルタが応対に出て、戻ってきたときの顔がどこか緊張していた。
「お嬢様、騎士団総帥様がお見えです」
「レオンハルト様が?」
「結界の設計について相談がある、と」
書斎に通した。レオンハルトが入ってくると、小さな部屋の空気が変わる。この方は無駄な動きがない代わりに、存在そのものが場所を取る。軍服の肩幅と、真っ直ぐな姿勢と、静かな目。
「突然で申し訳ない。王都の北区画の結界設計について、意見を聞きたい」
前置きなく本題に入るのは、いつもの通りだった。レオンハルトが持参した図面を机に広げる。わたくしの設計図の横に並べると、二枚の羊皮紙が机を覆い尽くした。
「北区画は地形の起伏が大きいため、結界の膜が均一に張れない。現在の設計では、谷間の部分で厚みが不足する」
「拝見します」
図面を覗き込んだ。確かに、谷間の魔力密度が低い。結界の膜は平面に張るのが最も安定するから、地形が複雑になると厚みにむらが出る。公爵領でも、川沿いの低地で同じ問題を抱えていた。
「ここの谷間に、中継点を置いてはいかがでしょう。核石の補助ではなく、地中の魔力脈を利用して膜の厚みを補強する方法です。公爵領の川沿いで試したことがあります」
「地中の魔力脈を」
「はい。地表の結界に頼りきるのではなく、地脈を骨組みにする設計です。魔力消費が三割ほど減ります」
レオンハルトの目が図面からわたくしに移った。灰色の瞳が、光を受けて少しだけ明るくなっている。
「三割。――それは報告書に書いていなかった」
「公爵領では、改良案を提出する相手がおりませんでしたので」
言ってから、少しだけ口が過ぎたかと思った。けれどレオンハルトは眉一つ動かさなかった。ただ、ペンを取り、わたくしが指した箇所に印をつけた。
「続けてくれ」
そこからの一時間は、わたくしがこの十年で最も密度の濃い時間だった。
魔力脈の走り方、中継点の間隔、季節による変動、雨天時の影響。わたくしが話すたびにレオンハルトが書き留め、時折質問を挟む。質問は的確で、無駄がなく、わたくしの説明を正確に理解した上で次の段階に進んでいた。
結界のことを、こんなふうに話したのは初めてだった。
母とは話した。けれど母は術者であって、軍事の視点は持っていなかった。ヴィクトール様には話したこともない。話す前に「立ってるだけだろう」と遮られるのだから。
「あなたと話していると、結界が武器ではなく盾であることを思い出す」
レオンハルトが、図面にペンを走らせながら言った。
「盾、ですか」
「騎士団の結界は攻防一体で設計する。だがあなたの結界は、守ることだけに特化している。殺すためではなく、眠らせるための結界だ。領民が安心して眠れるように設計されている」
ペン先が紙の上で止まった。レオンハルトがわたくしを見た。
「それは技術だけでは作れない。守りたいものがなければ、この設計にはならない」
返す言葉が、見つからなかった。
この方は結界を見ている。図面の線と数字の向こうに、わたくしが何を守ろうとしていたかまで読み取っている。十年間、誰にも気づかれなかったものを。
「……わたくしの仕事を、そう呼んでくださるのですね」
声が小さくなった。自分でも気づかないうちに。
レオンハルトは答えなかった。代わりに、机の端に置いてあったわたくしの紅茶のカップを、さりげなく自分の手元から遠い位置にずらした。図面を広げたときに、カップが肘に当たりそうだったのだろう。わたくしが気づかないうちに。
この方は、そういう人だ。言葉では言わず、手で守る。
*
同じ日の朝。エルヴェスト公爵領。
わたしの手が、震えている。
結界台の石の台座に両手を置き、目を閉じた。魔力を注ぐ。注いでいるつもりだ。指先から光が散り、空中に膜が……膜が……。
広がらない。
昨日まではかろうじて形になっていた。薄くて、風が吹けば破れそうな膜だったけれど、形だけは結界に見えた。それで十分だと思っていた。ヴィクトール様に「できるようになったか」と聞かれたら、「もう少しです」と答えればよかった。もう少し、もう少し。その言葉で時間を稼いできた。
三日目の朝。光が指先から離れた瞬間に消えた。一秒も保たない。
核石がないからだ。あの乳白色の石がなければ、結界を安定させる術がない。最初から分かっていた。あのリーゼロッテという女が結界台に立っているのを一度だけ遠くから見たとき、あの石がどれほどの魔力を増幅しているか、肌で感じた。わたしの魔力とは桁が違う。
分かっていた。
分かっていて「私にもできます」と言った。
だってそう言わなければ、ヴィクトール様の隣に立てなかったから。男爵家の庶子に、公爵の婚約者の座を得る手段など他になかった。結界術を「少し嗜んでおります」と言えば、あの女の代わりになれると思った。代わりになれば、屋敷に入れてもらえると。
甘かった。
台座の上に崩れ落ちた。石が冷たい。膝が痛い。
「無理……わたし、最初から、できなかった……」
声が漏れた。誰もいない結界台の上で、わたしの声だけが朝の空気に溶ける。
引継ぎ文書。あの分厚い紙の束。化粧台の横に置いたまま、一度も開いていない。開いても意味がない。手順を読んだところで、核石がなければ結界は張れない。そしてわたしには、核石なしで結界を維持する魔力もない。
読まなかったのは、読んでも無駄だと分かっていたから。
読まなかったのは、読めば自分の嘘が確定するから。
階下で、扉が開く音がした。ギルベルトの足音だ。重く、規則正しい。あの老執事はすべて見抜いている。わたしが何もできないことを。
逃げるように結界台を下りた。
廊下の角で立ち止まった。息を整える前に、声が聞こえた。執務室の扉が半開きになっている。
「結界が完全に消えました」
ギルベルトの声だった。抑揚のない、報告の声。
「――何だと」
「今朝、最後に残っていた東の膜も消失いたしました。領地全域が、無防備な状態です」
長い沈黙の後、ヴィクトール様の声が弾けた。
「あの女が核石を持ち逃げしたからだ! 盗んだんだ、あれは公爵家のものだろう!」
「核石はリーゼロッテ様の個人相続品です。クラーレンス伯爵家からの正式な相続証明書がございます。引継ぎ文書にも明記されておりました」
ギルベルトの声は静かだった。静かだからこそ、ヴィクトール様の叫びの空虚さが際立つ。
「引継ぎ文書を、若様はお読みになりましたか」
「……読む必要はないと言っただろう」
「はい。おっしゃいました」
それだけだった。ギルベルトはそれ以上何も言わなかった。足音が近づいてくる。わたしは壁に背をつけて息を殺した。老執事が廊下を通り過ぎる。白い手袋の手が、微かに震えていた。
遠くから、獣の声がした。低く、長く、近い。昨日よりも近い。
使用人たちが窓辺に集まっている。顔が青い。空を見上げている。光のない空を。
わたしは自分の部屋に戻り、扉を閉めた。化粧台の横に、あの分厚い紙の束がある。埃を被ったまま。
今さら開いても、遅い。
*
王都に、噂が届いたのは夕暮れ時だった。
マルタが市場から戻ってきて、買い物籠を台所に置く前に言った。
「お嬢様。エルヴェスト公爵領の結界が、完全に消えたそうです」
羽根ペンが止まった。設計図の線が、途中で途切れる。
「……そう」
「商人たちの間で噂になっております。北の交易路を通る隊商が、魔獣の気配が増えたと言って迂回し始めたと」
窓の外を見た。王都の空は穏やかだった。夕焼けが建物の屋根を赤く染め、大聖堂の鐘が六つ鳴っている。ここにいると、公爵領で何が起きているかなど想像もつかない。
けれどわたくしには分かる。結界が消えれば何が起きるか。北の森の魔獣が外縁を越え、家畜を襲い、やがて集落に近づく。交易路が遮断され、物資が滞り、領民が不安に駆られる。
十年間、そうならないように毎晩立っていたのだから。
「お嬢様」
「引継ぎ文書は残しました。手順に従えば、核石がなくても最低限の結界維持は可能です。術者の適性と訓練は必要ですが」
マルタが黙った。「読まれていないのでしょう」と言いたい顔をしていたが、口にはしなかった。
「あとは、あの方たちが決めることです」
声は揺れなかった。
設計図に向き直り、途切れた線の続きを引いた。ペン先がかすかに震えたのは、インクが乾きかけていたからだ。それだけだ。
夜。別邸の窓から、王都の夜空を見上げた。
ここには結界の光がない。王都の防衛は城壁と騎士団が担っていて、結界師の光で夜空が染まることはない。星がよく見えた。
公爵領の夜空には、いつもわたくしの結界が淡い金色を載せていた。あの光はもう、消えている。あの光の下で眠っていた領民たちは、今夜どんな顔で空を見上げているだろう。
核石が胸元で脈打つ。温かい。けれど今夜は、温かさの中に微かな痛みがある。
三日。
たった三日で消えた結界を、わたくしは十年間、毎夜灯し続けていた。
その重さを、あの人が知ることは、もうないだろう。




