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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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第6話「まだ困っていない」

 アネリーゼの髪は、朝の光の中だと蜂蜜のように見える。


 朝食の席で向かいに座る彼女を眺めながら、俺はパンにバターを塗った。あの暗い色の髪の女が消えて、この食卓はずいぶん明るくなった。彼女が笑えば花が開くようだし、紅茶を注ぐ所作も品がある。何より、俺の話を聞くときに、あの女のように無表情でいない。ちゃんと頷き、ちゃんと微笑み、ちゃんと答える。


「ヴィクトール様、今日のご予定は」


「午前は領軍の報告を受ける。午後は社交の書状を片付ける」


「お忙しいのですね。わたしにも何かお手伝いできることがあれば……」


 健気だ。俺はパンを千切りながら頷いた。こういう女が隣にいるべきなのだ。支えたいと言ってくれる女が。あの女は何も言わなかった。何を考えているか分からない目で、黙って紅茶を飲んでいるだけだった。


「そうだな。――結界の方はどうだ」


 アネリーゼの指が、カップの取っ手の上で止まった。ほんの一拍だけ。


「……今日は、少し体調が優れなくて」


「そうか。無理しなくていい。体が大事だ」


「申し訳ございません……もう少し練習すれば、きっと……」


 目を伏せる。睫毛が震える。壊れ物のように繊細で、守ってやりたくなる。あの女とは違う。あの女は結界台に立っているだけで、俺が守る必要すらなかった。


「焦るな。お前のペースでいい」


 アネリーゼが微笑んだ。感謝の籠った、小さな微笑み。


 それでいい。



 午前、執務室で領軍の副官から報告を受けた。


「閣下、北の外縁で家畜の被害が出ております」


「家畜?」


「はい。農場の羊が三頭、夜間に襲われました。爪痕から見て、中型の魔獣かと」


 俺は書類を捲りながら聞いた。羊が三頭。その程度のことだ。


「領軍で対処しろ。巡回を増やせば済む話だろう」


「はい。ただ、以前はこの種の被害はほぼ発生しておりませんでした。結界が――」


「結界の話はいい」


 副官が口を閉じた。言いたいことは分かっている。結界が弱まっているから魔獣が入り込んでいる、と言いたいのだろう。だが結界師は去った。いや、出て行った。勝手に核石を持って出て行った。それは俺の責任ではない。


「領軍がいるだろう。結界がなくても、兵で十分に対処できる。先代の頃は結界なしでやっていた時代もあったはずだ」


「……かしこまりました」


 副官は一礼して去った。足音が少しだけ速い。急いでいるのか、何か言い足りないのか。どちらでもいい。報告を受け、判断を下した。それが領主の仕事だ。



 午後、ギルベルトが執務室に来た。


 この老人はリーゼロッテが出て行ってから、妙に口うるさくなった。先代の頃からいる古参だから無碍にはできないが、忠告の角度が変わった。以前は控えめだったのに、最近は目を見て物を言う。


「若様。結界の状態について、ご報告いたします」


「また結界か」


「はい。領地の防衛結界は、現在ほぼ機能しておりません。北の外縁はすでに膜が消失し、東と南も大幅に弱まっております」


「アネリーゼが練習している。そのうち張れるようになる」


「恐れながら……」


 ギルベルトは一呼吸置いた。白い手袋をした手が、脇に抱えた書類の束を少しだけ握り直している。


「リーゼロッテ様がお残しになった引継ぎ文書に、結界維持の手順が詳細に記されております。一度、お目通しいただけませんでしょうか」


 引継ぎ文書。あの分厚い紙の束か。百何十頁だったか。あんなものを読む暇があるなら、領軍の巡回計画を見直す方が先だ。


「あの女が置いていった文書など、読む必要はない。アネリーゼに渡してあるだろう」


「アネリーゼ様は……お開きになっておられません」


「そのうち読むだろう。急かすな」


 ギルベルトの目が、ほんの一瞬だけ、俺の知らない感情を映した。怒りか、失望か、それとも呆れか。すぐに消えた。老執事は深く頭を下げ、退室した。


 足音が遠ざかる。今日のギルベルトは、いつもより背中が硬かった。



 夕食後、屋敷の廊下を歩いていると、使用人たちが窓際に集まっているのが見えた。給仕の少女と、料理番の老人と、下働きの青年。三人が窓の外を見上げて、何か話している。


「……光が、ほとんど見えないですね」


「ああ。以前はこの廊下からでもはっきり見えたんだが」


「結界師様がいらした頃は、夕暮れ時にきれいな金色に光っていましたよね」


 俺が近づくと、三人は慌てて散った。「お疲れ様でございます」と頭を下げて、それぞれの持ち場へ消えていく。


 窓の外を見た。


 いや、見ようとして、やめた。見る必要がない。結界の光など、あってもなくても俺の日常は変わらない。朝は起きて、執務をして、アネリーゼと食事をして、夜は眠る。光がどうした。立っているだけの女がいなくなっただけだ。


 足を進めた。アネリーゼの部屋に向かう。今夜は一緒に茶でも飲もう。



 アネリーゼの部屋の扉を叩くと、少し間があって開いた。


「ヴィクトール様。どうなさいましたか」


「茶でも飲もうと思ってな」


「まあ、嬉しい。今お淹れしますね」


 部屋に入った。花の香りがする。テーブルの上に小さな花瓶があり、薔薇が一輪飾られている。こういう細やかさが、あの女にはなかった。


 椅子に腰を下ろして、何気なく部屋を見回した。化粧台の横に、革紐で綴じられた分厚い紙の束が置いてある。


 引継ぎ文書だ。


 埃が薄く載っていた。届いてから一度も動かされていないのだろう。紐の結び目に触れた形跡もない。


「アネリーゼ」


「はい?」


「あれ、読んだか。結界の引継ぎ文書」


 茶葉をポットに入れる手が、一瞬止まった。背中しか見えない。


「……少し、目を通しました」


 嘘だな、と思った。


 思ったが、追及しなかった。追及すれば彼女が傷つく。繊細な女だ。あの分厚い文書を読めと言うのは酷だろう。あの女が書いた文書は、きっと必要以上に細かくて、読みにくくて、実用的でないに違いない。帳簿と数字が好きな女の書く文章など、どうせ味気ない。


「まあ、無理に読まなくてもいい。分からなければ俺に聞け」


 俺に聞いてどうする。俺が結界のことを知っているわけがない。だがそれは言わなかった。言う必要がなかった。


「ありがとうございます、ヴィクトール様。……わたし、もう少し練習すれば、きっとできるようになります」


 アネリーゼが振り返り、微笑んだ。目が少しだけ潤んでいるように見えた。不安なのだろう。だから優しくしてやるのが正しい。


「ああ。信じている」


 茶が注がれた。甘い香り。アネリーゼは俺の好みの茶葉を覚えている。あの女は十年かけても覚えなかった。いや、覚えていたのかもしれないが、それを態度で見せることはなかった。


 温かい茶を飲みながら、俺は思った。


 何も困っていない。


 結界が弱まった? 領軍で対処できる。引継ぎ文書を読んでいない? いずれ読めばいい。家畜が襲われた? 巡回を増やせば済む。使用人が光を気にしている? 慣れる。


 あいつがいなくても、何も変わらない。何も困っていない。


 カップの底に残った茶葉の模様を眺めながら、もう一度呟いた。声には出さず。


 何も、困っていない。



 部屋に戻り、寝支度を整えた。蝋燭を消す前に、窓際を通った。


 カーテンは閉まっている。いつも閉めてから眠る。外を見る習慣はない。夜空を見上げるのはあの女の仕事だった。俺の仕事ではない。


 カーテンの隙間から、かすかに暗い空が覗いている。


 以前は、あの隙間から金色の光が漏れていた。薄い、けれど確かな光。あれが結界だったのだと、今なら分かる。今なら。


 手を伸ばしかけて、止めた。カーテンを開ける必要はない。見たところで何が変わる。結界師は去った。核石は持ち出された。光はない。だから見ない。見なければ、困っていないままでいられる。


 蝋燭を吹き消した。闇が落ちる。


 遠くで、聞き慣れない獣の声がした。低く、長く、北の森の方角から。


 背筋が一瞬だけ冷えた。すぐに寝台の毛布を引き上げた。気のせいだ。狼だろう。この季節にはよくある。領軍が対処する。俺が気にすることではない。


 目を閉じた。



 彼はその夜も、暗くなった空を見上げなかった。


 見上げていれば、結界の膜が最後の一片まで消えかけていることに気づいただろう。北の森の端に、いくつもの光る目が並んでいることにも。


 だが彼はカーテンを閉じたまま眠った。


 困っていないのだから、見る必要はない。

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