第5話「この結界を張ったのは」
王都の朝は、鐘で始まる。
大聖堂の鐘が六つ鳴ると、石畳の通りに馬車と荷車と人の声が溢れ出す。クラーレンス伯爵家の別邸は王都の東区画にある小さな二階建てで、庭もなく、使用人部屋も二つしかない。父が若い頃に社交のために構えたものだが、もう何年も使われていなかった。
埃を払い、窓を開け、マルタと二人で暮らし始めて三日目の朝だった。
「お嬢様、顔色がよくなりましたよ」
マルタが朝食のパンを切りながら言った。バターの匂いが台所に漂う。公爵家の厨房とは比べものにならない狭さだが、マルタの焼くパンの匂いは同じだった。
「そうかしら」
「そうです。目の下の隈が薄くなっております。三日も結界を張らなかっただけで、こんなに違うのですね」
言われてみれば、こめかみの奥の鈍い痛みが消えていた。十年間、毎晩のように感じていた魔力の消耗が、三日で嘘のように引いている。体というものは正直だ。
窓の外から、大聖堂の鐘の残響が風に乗って届く。公爵領では聞こえなかった音。あの領地にあるのは、結界の膜が風に揺れるかすかな響きだけだった。
――あの光は今、どうなっているだろう。
考えかけて、やめた。引継ぎ文書は残した。手紙も残した。それ以上は、わたくしの責任ではない。
四日目の午後、一通の手紙が届いた。
封蝋は銀で、騎士団の紋章が押されていた。差出人の名を見て、指が止まった。
レオンハルト・フォン・ヴァイスリッター。王国騎士団総帥。
「マルタ、騎士団の総帥様からお手紙が」
「まあ。何のご用でしょう」
封を開いた。文面は簡潔だった。
『結界術師としての能力査定をお願いしたい。都合のよい日時を知らせてほしい。――レオンハルト・フォン・ヴァイスリッター』
一文。署名を除けばたった一文だった。挨拶も、経緯の説明も、社交辞令もない。必要な情報だけが、硬い筆跡で記されている。
ギルベルトが言っていた。騎士団総帥が結界を褒めていた、と。そして夜会の広間で、軍服の男性が一人、笑わずに立っていた。
あれがこの方だったのだろうか。
「お嬢様、お受けになりますか」
「……ええ」
断る理由がなかった。返事を書いた。手紙と同じく、一文で。
騎士団本部は王都の北端にある石造りの要塞だった。
門をくぐると、訓練場で剣を振る騎士たちの声と、馬の嘶きと、金属の擦れる音が一斉に耳に流れ込んできた。公爵家の静かな廊下とはまるで違う空気だ。砂埃と汗と鉄の匂い。ここは何かを守るために体を動かす人たちの場所だった。
案内された執務室は、予想に反して簡素だった。
机、椅子、書架、窓。装飾がない。壁に飾られているのは地図だけで、花もなければ絨毯もない。必要なものしか置かない人の部屋だと、一目で分かった。
椅子から立ち上がった人物を見て、わたくしは目を瞬いた。
あの夜会の、軍服の人だった。
銀の肩章。背が高い。肩幅が広い。顔つきは彫りが深く、目は灰色。夜会では壁際にいたから分からなかったが、正面から見ると、その目がひどく静かだった。怒っているのでも笑っているのでもない。ただ、見ている。
「レオンハルト・フォン・ヴァイスリッターだ。座ってくれ」
声も簡潔だった。手紙の通りの人だ。
「リーゼロッテ・フォン・クラーレンスです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「礼は不要だ。こちらが頼んでいる」
椅子を引く所作がぎこちなかった。社交に慣れていないのではなく、不要な儀礼に興味がないのだろう。わたくしが腰を下ろすのを確認してから、自分も座った。それだけは律儀だった。
「単刀直入に聞く」
レオンハルト様は机の引き出しから一冊の綴じ帳を取り出した。革の表紙に「国境巡視報告」と刻まれている。
「三年前、エルヴェスト公爵領の巡視を行った。そのときの報告書だ」
頁を開き、わたくしの方へ向けた。几帳面な筆跡で書かれた報告文の中に、赤い線が引かれた箇所がある。
『当該領地の防衛結界は、巡視した十二領のうち最も精緻。層構造が三重で、季節変動への対応が組み込まれている。これほどの結界を維持する術者がいるなら、国防上の資産として記録すべきと判断する。維持者は一名とのこと。』
「これを書いたのは私だ。三年前からずっと気になっていた」
灰色の目がわたくしを見た。
「あの結界を一人で維持していたのは、あなたか」
「……はい」
「十年間」
「はい」
レオンハルト様は一度だけ瞬きをした。それ以外に表情は動かなかった。けれど、その瞬きに重さがあった。
「見せてほしい。あなたの結界を」
中庭に出た。
騎士団本部の中庭は広く、石畳の上に訓練用の木柵がいくつも立っている。数人の騎士がレオンハルト様の後ろに控えていた。
わたくしは核石を取り出した。掌の中で、乳白色の石が淡く金色に光り始める。
「場所をお借りいたします」
目を閉じた。魔力を注ぐ。いつもの手順。結界台がなくても、核石との同調さえあれば結界は張れる。範囲は狭くなるが、構造は同じだ。
光が広がった。
掌から薄い膜が伸び、わたくしを中心に半径十歩ほどの結界が広がる。三層構造。外層は衝撃を受け止め、中層は魔力を検知し、内層は治癒効果を持つ。公爵領の結界と同じ設計を、縮小して展開した。
目を開けた。
騎士たちが黙っていた。誰も動かない。一人が口を半分開けたまま固まっている。別の一人は、膜の表面に手を伸ばしかけて止まっていた。
レオンハルト様は腕を組んだまま、結界の膜を見上げていた。灰色の目が、光を映して銀に近い色になっている。
「三層構造。外殻、検知層、治癒層。これをあの領地全域に展開していた、ということか」
「はい。核石の増幅がありますので、領地規模では魔力効率が変わりますが、基本設計は同じです」
「一人で」
「はい」
「毎晩」
「はい」
レオンハルト様の口元が、ほんの一瞬だけ引き結ばれた。怒りに近い表情だった。わたくしに向けたものではない。
「……先日の夜会に出席していた」
唐突に、レオンハルト様が言った。
「あの公爵の言葉を聞いた。"立ってるだけ"だと」
わたくしは答えなかった。答える必要がなかった。
レオンハルト様は結界の膜に手を触れた。指先が光に触れた瞬間、膜がかすかに震え、そして安定した。結界が、外部の接触を受け止めた証だ。
「これが、"立ってるだけ"だと」
二度目は、独り言のようだった。声が低くなっていた。
レオンハルト様は手を下ろし、わたくしに向き直った。
「本題に入る。王都の防衛結界の管理者が不足している。国境沿いの防衛線は騎士団が担っているが、王都内部の結界は術者の質が足りていない。あなたの技術を、正式に王家へ推薦したい」
「王家に」
「国家結界師として。あなたの技術は、一貴族家の婚約条件に縛られるべきものではない」
言葉が真っ直ぐだった。社交の修辞もなく、慰めも同情もなく、ただ事実として述べている。この方は嘘をつかない種類の人だ、と直感した。嘘をつかないのではなく、嘘をつく技術を持っていないのだ。
「……少し、考えるお時間をいただけますか」
「構わない。急かすつもりはない」
レオンハルト様が頷いた。それだけの動作なのに、この方が「待つ」と決めたのだと分かった。社交的な猶予ではなく、本当に待つのだろう。
結界を解いた。光が収束し、核石の中に戻る。中庭に静寂が降りた。
「リーゼロッテ嬢」
帰り際、レオンハルト様が背後から声をかけた。振り返ると、灰色の目がまだわたくしを見ていた。
「報告書に書いた通りだ。三年前から、あの結界の維持者に会いたいと思っていた」
会いたい、ではなく、会いたいと思っていた。過去形。つまりこの方は三年間、ずっと覚えていたということだ。
わたくしの結界を。
「……ありがとうございます」
声が揺れた。自分でも驚くほどに。
わたくしの結界を、見てくださった方がいた。
立ってるだけだと笑われた仕事を、三年前に一度見て、報告書に書き、赤線を引いて、覚えていた人がいた。
騎士団本部の門を出て、石畳の通りを歩いた。マルタが門の外で待っていた。わたくしの顔を見て、何か言いかけ、口を閉じた。
「マルタ」
「はい」
「……何でもないわ」
何でもなくはなかった。目の奥が熱かった。泣きそうだった。けれど泣かなかった。結界師は、立っているものだから。
ただ、帰り道の石畳が、行きよりも少しだけ明るく見えた。午後の陽が傾いて、建物の影が長くなっていたのに。
核石が胸元で温かい。母の手の温度。
見てもらえた、というただそれだけのことが、こんなにも温かいのだと、わたくしは初めて知った。




