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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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第4話「最後の引継ぎ」

 インクが乾くのを待つ時間が、こんなにも静かだったとは知らなかった。


 書斎の机に広げた紙の束が、日を追うごとに厚くなっていく。結界の維持手順、魔力の注入量、季節ごとの調整法、北の森から魔獣が増える冬至前後の対処、核石の温度管理、非常時の縮小運転。十年分の経験を文字に落とす作業は、自分の体の中身を一つずつ取り出して並べるような感覚だった。


「第四章、冬季の魔力消費量の変動について……」


 声に出しながら書く癖がついた。誰に読まれても手順が分かるように、前提知識を持たない人でも追えるように。マルタが隣に座り、わたくしが口にした数字をもう一枚の紙に写している。


「お嬢様、この冬至の数値、昨年と一昨年で随分違いますね」


「ええ。一昨年は北の森で魔獣の繁殖期が早まって、結界の負荷が通常の一・五倍になったの。そのことも注記しておいて」


 マルタが頷き、ペンを走らせる。時折、ペン先が紙の上で止まる。文字が滲んでいるのではなく、指が震えているのだ。


「マルタ」


「はい」


「泣きながら書くと、インクが滲むわ」


「……泣いておりません」


 嘘だった。けれどわたくしは追及しなかった。追及すれば、自分も泣きそうだったから。



 七日で、百二十六頁になった。


 表紙に『エルヴェスト公爵領 防衛結界 維持管理手順書』と記し、革の紐で綴じた。持ち上げると、腕にずしりと重さが伝わる。十年分の夜と、十年分の汗と、十年分の「誰にも気づかれなかった仕事」が、この厚さに凝縮されている。


 ギルベルトが書斎の扉を叩いた。


「リーゼロッテ様。完成されましたか」


「ええ。ギルベルト、お願いがあります。これをヴィクトール様にお渡しいただけますか。一度お目通しいただいた上で、アネリーゼ嬢にお渡しくださるよう」


 ギルベルトは両手で文書を受け取り、その重さに一瞬だけ目を見開いた。


「……百頁を超えておいでですか」


「百二十六頁。索引と、非常時の連絡先一覧を含めて」


 ギルベルトは何かを堪えるように唇を引き結んだ。そして深く頭を下げた。


「確かに、お届けいたします」



 その日の午後、ギルベルトはヴィクトール様の執務室を訪れた。


 わたくしは廊下にいたわけではない。けれどギルベルトが戻ってきたとき、その足音だけで結果は分かった。行きよりも重い足取りだった。


「若様は何と」


「『そんなものは後でいい。アネリーゼに渡しておけ』と」


 ギルベルトの声は平坦だった。感情を消そうとしている声だ。長年の奉公で身につけた技術。けれど、銀の盆を持つ指が白くなっていた。


「……承知いたしました」


 わたくしも平坦に答えた。期待はしていなかった。期待していないことを確認できただけだ。


「お目通しも?」


「一頁も」


 そうだろうとは思っていた。けれど、一頁も。声に出して聞くと、少しだけ胸の奥が軋んだ。


 その日のうちに、引継ぎ文書はアネリーゼ嬢のもとへ届けられた。



 翌朝、ギルベルトに確認した。


「アネリーゼ嬢は、文書をご覧になりましたか」


「お部屋の化粧台の横に置かれたまま、でございます。開かれた形跡はありません」


 百二十六頁。七日かけて書いた手順書。読まれる前に化粧台の飾りになった。


 核石が胸元で脈打つ。怒っているのか、悲しんでいるのか、それともわたくしの心臓の拍動を拾っているだけなのか。


「ギルベルト」


「はい」


「わたくしは、できることをすべていたしました」


 老執事は黙って頷いた。それ以上の言葉は、互いに必要なかった。



 荷造りは、驚くほど少なかった。


 十年間この屋敷で暮らしたのに、自分のものと呼べるものがほとんどない。衣装はエルヴェスト家の予算で誂えたものだから置いていく。宝飾品も同様。持っていくのは、母の書類入れと、数冊の結界術の参考書と、マルタが繕ってくれた普段着が数着。


 それと、核石。


 荷物は革鞄一つに収まった。


「十年で鞄一つですか」


 マルタが呟いた。声が震えていたが、今度は泣いていなかった。泣く段階はもう過ぎたのだろう。


「身軽でいいわ」


「お嬢様は昔から、そうやって笑うのですね。辛いときほど」


 返す言葉がなかった。マルタにだけは、嘘が通じない。



 出立は早朝にした。誰にも告げず、とはいかなかった。正式な手続きが必要だった。


 クラーレンス伯爵家への帰還届。核石の持ち出し記録。婚約の解消は、ヴィクトール様が夜会で事実上宣言したようなものだ。「結界の管理をアネリーゼに引き継ぐ」と公の場で言った時点で、わたくしがこの家にいる理由は消えている。


 書類は前日のうちに整えた。ギルベルトが証人として署名してくれた。ペンを持つ老執事の手が震えていたのを、わたくしは見ないふりをした。


 そしてヴィクトール様には、一通の手紙を残した。


『結界の引継ぎ文書を、どうかお読みください。手順に従えば、核石がなくても最低限の結界維持は可能です。ただし、術者の適性と訓練が必要です。くれぐれも、文書をお読みになってからお進めくださいますよう。――リーゼロッテ』


 これ以上の言葉は書かなかった。恨みも、未練も、忠告も。書けば長くなる。長くなれば、この方は読まない。



 早朝の玄関ホール。


 空はまだ薄暗く、東の空がかすかに白み始めている。石畳が朝露で光っていた。馬車が一台、門の前に止まっている。


 ギルベルトが立っていた。


 起こしたつもりはなかったのに、正装だった。皺一つない執事服。白い手袋。先代公爵の時代から変わらない、この方の矜持。


「リーゼロッテ様」


「ギルベルト。起こしてしまったかしら」


「いいえ。ただ、お見送りだけはさせていただきたく」


 わたくしは革鞄を下ろし、ギルベルトの前に立った。


「長い間、お世話になりました」


 頭を下げた。深く。十年分の感謝を込めて。


 顔を上げたとき、ギルベルトの目が赤かった。けれど涙は流れていなかった。老執事もまた、泣く段階を過ぎた人だった。


「リーゼロッテ様。どうか、ご自愛くださいませ」


「ええ」


「……先代様がまだお元気で、領地をお治めであれば、このようなことには」


「ギルベルト」


 わたくしは首を横に振った。仮定の話をしても仕方がない。


「引継ぎ文書を、どうか若様にお読みいただけるよう、重ねてお願いいたします」


「命に代えても」


 大袈裟だと笑うところだろう。けれどギルベルトの声は、笑えるような温度ではなかった。


 わたくしは振り返らずに馬車へ歩いた。マルタがすでに中で待っている。御者が扉を開け、わたくしは一段目に足をかけた。


 ふと、振り返りそうになった。


 領館の塔。結界台のある最上階。あそこで十年間、毎夜立ち続けた。核石を握り、光を灯し、誰にも気づかれないまま領地を守った。


 振り返らなかった。


 振り返れば、未練が足を掴む。


 馬車の扉が閉まった。車輪が石畳を踏んで動き出す。窓の外を、朝焼けの公爵領が流れていく。畑、街道、集落、教会の尖塔。十年間守ってきた景色が、少しずつ小さくなる。


「お嬢様。行き先は」


「王都のクラーレンス家別邸へ」


 マルタが頷いた。それ以上は聞かなかった。


 胸元の核石が温かい。母の手の温度。この石だけが、わたくしについてきてくれる。


 痛みはあった。けれど後悔はなかった。百二十六頁の手順書を残した。手紙も残した。十年分の維持記録も、すべて書斎に置いてきた。やれることは、すべてやった。


 あとは、あの方たちの問題だ。



 *


 馬車が門を出て、街道の角を曲がり、見えなくなった。


 ギルベルトは玄関ホールの柱に手をつき、長い息を吐いた。六十年以上の奉公の中で、これほど重い朝は記憶にない。


 ヴィクトール様はまだ眠っている。当然だ。夜更かしをして、朝は遅い。結界師が去ったことに気づくのは、早くて昼過ぎだろう。


 いや、気づくだろうか。


 置物がなくなっても、部屋が広くなった程度にしか思わないのではないか。


 ギルベルトは自分の不忠な思考を振り払い、玄関の扉を閉めた。鍵を回す音が、やけに大きく響いた。


 夕刻。


 いつもの時刻に、いつもの場所から空を見上げた。屋敷の裏庭から見える西の空。日が沈む頃、結界の膜がいちばん美しく光る時間帯だ。先代公爵に仕えていた頃から、この光を見るのが日課だった。


 光は、あった。


 だが薄い。


 昨日までの、領地を包むように広がる柔らかな金色ではなかった。水で薄めた絵の具のような、頼りない光。ところどころ、膜に穴が空いているようにも見える。


「……少し、薄くなったように見えるのは、気のせいでしょうか」


 誰に問うでもなく呟いた。答える人は、もういない。


 裏庭の端で、洗濯物を取り込んでいた下女が、ギルベルトと同じ空を見上げた。何かを感じたのだろう。首を傾げ、不安そうな顔をして、けれどすぐに洗濯籠を抱えて屋内へ消えた。


 その夜。


 領地の外れの集落で、村長のハンスが縁台に座り、孫を膝に乗せていた。


「じいちゃん、今日のお空、暗いね」


「……そうだのう」


 ハンスは目を細めた。五十年間、毎晩見上げてきた空だ。あの光がどれほど明るいか、どれほど温かいか、体が覚えている。


 今夜の光は、いつもより頼りない。


 遠くの森から、聞き慣れない獣の声が微かに届いた。孫が身を硬くした。ハンスは孫の肩を抱き寄せ、空を見上げたまま動かなかった。


 結界師の光を当たり前だと思っていた。毎晩灯るものだと信じていた。灯す人がいることを、考えたことがなかった。


 その夜、エルヴェスト公爵領の空は、十年ぶりに暗かった。

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