第3話「夜会の置物」
夜会用のドレスは、いつも同じ色だ。
淡い灰青。目立たず、品があり、誰の隣に立っても邪魔にならない色。マルタがコルセットの紐を締めながら、鏡越しにわたくしの顔を見た。
「お嬢様。今夜は公爵家主催の夜会ですが、あの方も同席されるのですか」
「アネリーゼ嬢のこと? ええ、そうでしょうね」
マルタの指が紐を引く手を一瞬止め、それからいつもより少しだけきつく締めた。怒っているのだ。わたくしの代わりに。
「背筋を伸ばしていられる程度にしてちょうだい、マルタ」
「……失礼いたしました」
鏡の中のわたくしは、隈を白粉で隠し、唇に薄く紅を引いた、いつも通りの公爵家の婚約者だった。十年間、この鏡の前で何百回と繰り返した支度。変わったことは何もない。
ただ今夜は、胸元の核石がいつもより重く感じた。
エルヴェスト家の大広間は、蜜蝋の燭台が幾つも吊るされ、金色の光で満ちていた。招待された貴族たちが談笑し、楽団の弦の音が低く流れている。
ヴィクトール様は広間の中央に立ち、杯を掲げた。
「本日はお集まりいただき感謝する。エルヴェスト公爵家の発展に、乾杯」
拍手。杯が鳴る。ヴィクトール様は上機嫌だった。社交の場では、この方はいつも輝く。声が大きくなり、背が高くなり、笑顔が増える。人に見られることで満たされる人なのだと、わたくしは早い段階で気づいていた。
見られることで満たされる人は、見えないものの価値を知らない。
「紹介しよう」
ヴィクトール様がわたくしの方を見た。いや、わたくしの方向を見た。目は合わなかった。
「こちらがうちの婚約者、リーゼロッテだ。――まあ、置物みたいなものだがな」
笑い声が上がった。
広間の半分ほどの人が笑った。残りの半分は、笑わなかった。笑わなかった人々のうち何人かが、わたくしの方をちらりと見て、すぐに目を逸らした。気まずそうに杯を傾ける者、扇で口元を隠す者。
わたくしは微笑んだ。いつもの微笑みだ。
「そしてこちらが、アネリーゼ・シュトラウス嬢。結界術の才能を持つ方だ。近々、我が領地の結界管理を引き継いでもらう予定でいる」
アネリーゼ嬢が優雅に一礼した。薄桃色のドレスが燭台の光を受けて柔らかく光る。新しい仕立てだった。先日の解れた袖口はもうない。
「皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
拍手は先ほどより少し控えめだった。何人かの貴族が顔を見合わせているのが視界の端に映る。結界管理の引き継ぎが何を意味するか、領地経営に関わる者なら分かるはずだ。分からないのは、ヴィクトール様だけだ。
夜会の間、わたくしは壁際に立っていた。置物のように、と言いたければ言えばいい。
杯のぬるくなった白葡萄酒を一口含む。甘い。甘すぎる。ヴィクトール様が好む銘柄で、わたくしの好みを聞かれたことは一度もない。十年分の夜会で、同じ甘い酒を飲み続けた。
広間の中央で、ヴィクトール様がアネリーゼ嬢と並んで談笑している。彼女に杯を渡し、何か耳元で囁き、二人で笑う。アネリーゼ嬢の笑い声は鈴のように軽く、ヴィクトール様の手が彼女の肩にそっと添えられた。
周囲の貴族たちが見ている。わたくしではなく、あの二人を。そしてその視線の端で、わたくしを。
哀れみ。あるいは好奇心。あるいは、面倒事に巻き込まれたくないという計算。
壁際の置物には、よく見える。
ふと、広間の奥に見慣れない人影があった。
軍服。騎士団の正装だ。銀の肩章が燭台の光を硬く弾いている。背の高い男性が、壁に寄りかかることもなく直立していた。社交の場に慣れていない立ち方だった。
目が合った。
一瞬だけ。男性はすぐに視線を外し、杯に口をつけた。表情は読めなかった。ただ、ヴィクトール様が「置物」と言ったとき、その人が笑わなかったことだけは覚えている。
笑わなかった人の顔は、不思議と記憶に残る。
夜会が終わり、馬車に揺られて私室棟へ戻る途中、マルタが泣いた。
声を殺していたが、肩が震えていた。馬車の窓から差し込む月光で、頬を伝う涙が光った。
「お嬢様」
「ええ」
「もう十分です」
マルタの声が、喉の奥で千切れた。
「十年です。十年、お嬢様はあの方のために結界を張り、体を壊し、眠れない夜を過ごし、それでも一度も文句をおっしゃらなかった。それを、置物と。あの方々の前で。――もう十分です、お嬢様」
馬車の車輪が石畳の継ぎ目を越え、小さく跳ねた。
「マルタ」
「はい」
「ええ。十分ですわ」
マルタが息を呑んだ。
わたくしの声は静かだった。怒りではなかった。悔しさでもなかった。十年間、この方は変わらなかった。変わる気もなかった。そしてわたくしは、変わらないこの方の隣で、変わらないまま朽ちていく未来を、今夜はっきりと見た。
置物と呼ばれたことが、きっかけではない。置物と呼んで、それが冗談として通じると信じているヴィクトール様の目が、きっかけだった。悪意がないのだ。本当に、心の底から、わたくしを置物だと思っている。
悪意のない軽視は、悪意より深い。訂正する余地がないから。
私室に戻り、マルタを下がらせた後、わたくしは書斎の抽斗を開けた。
一番奥に、革の表紙の書類入れがある。母が遺したもの。この屋敷に嫁ぐとき――正確には婚約者として迎えられたとき、マルタが「これだけは手元に置いておきなさい」と持たせてくれた。
中には三通の書類が入っている。
一通目は、核石の相続証明書。クラーレンス伯爵家から正式に相続された個人資産であること、エルヴェスト家の婚約財産には含まれないことが、伯爵家の紋章入りで記されている。
二通目は、結界の同調記録。母とわたくしが三日三晩かけて行った同調の儀式の日付、立会人、手順。
三通目は、母の手紙だった。
手紙は開かなかった。今は読めない。読んだら、たぶん足が止まる。
一通目の相続証明書を手に取り、燭台の光に翳した。文字は滲んでいない。紋章の封蝋も割れていない。十年間、一度も必要にならなかった書類。必要になる日が来ないことを、祈っていた書類。
必要になった。
わたくしは証明書を元に戻し、抽斗を閉じた。
翌朝。
いつもより早く起きた。結界台での夜勤の後、二時間だけ眠って、身支度を整えた。マルタが驚いた顔をしたが、何も言わなかった。昨夜の馬車の中で、わたくしが何を決めたか、この人には分かっている。
ギルベルト老を探した。老執事は朝の廊下で銀器の点検をしていた。
「ギルベルト」
「リーゼロッテ様。こんな朝早くに、いかがされましたか」
「お願いがございます」
わたくしは真っ直ぐにギルベルトの目を見た。この方の目は、先代公爵に仕えた頃から変わらない。誠実で、少しだけ悲しい。
「結界の引継ぎ文書を作成したいのです。維持手順、魔力の注入方法、季節ごとの調整、核石の扱い方、非常時の対処。すべてを文書に残します。手伝っていただけますか」
ギルベルトの手から、磨いていた銀のフォークがかすかに傾いた。
「引継ぎ文書、でございますか」
「はい」
「それは……」
長い沈黙だった。廊下の窓から朝日が差し込み、ギルベルトの白髪を淡く照らしている。
「……お嬢様。お覚悟を、お決めになったのですね」
わたくしは答えなかった。答えなくても、この方には伝わっている。
「かしこまりました。先代様に仕えた者として、お力添えいたします」
ギルベルトは深く頭を下げた。その白い頭のてっぺんが、少しだけ震えていた。
引継ぎ文書。
それは、わたくしがこの場所を去るための、最後の責任の形だった。
去ると決めたのではない。去れるように、備えるのだ。十年間守ってきた結界を、無責任に投げ出すことだけはしたくない。わたくしの結界が消えたとき、領民が困らないように。手順さえあれば、誰かが引き継げるように。
わたくしは置物かもしれない。けれど置物にも、最後の仕事がある。
書斎の机に白紙の束を置き、羽根ペンを取った。インクの匂いが鼻を掠める。最初の一行を書く。
『エルヴェスト公爵領 防衛結界 維持管理手順書 第一章 核石と術者の同調について』
核石が、胸元でかすかに光った。




