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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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2/12

第2話「私にもできます」

 紅茶に映ったわたくしの顔が、揺れた。


 ヴィクトール様が客間の扉を開け、一人の女性を伴って入ってきたからだ。午後の日差しが窓から斜めに差し込み、その人の亜麻色の髪を柔らかく照らしている。


「リーゼロッテ、紹介したい人がいる」


 ヴィクトール様の声が、いつもより半音高い。社交の場で有力者を見つけたときの声だ。十年も隣にいれば、声の色で機嫌が分かるようになる。わたくしは紅茶のカップを静かに受け皿へ戻した。


「アネリーゼ・シュトラウスだ。男爵家の出で、結界術を嗜んでいる」


 アネリーゼと名乗ったその人は、深く腰を折った。絹のように滑らかな仕草で、礼の角度も完璧だった。社交の訓練を受けている。ただし、ドレスの袖口の刺繍が微かに解れていた。仕立て直した衣装だろう。


「お初にお目にかかります、リーゼロッテ様。結界術を少し嗜んでおりまして……こうして学ばせていただける機会をいただけて、光栄です」


 瞳を伏せ、睫毛を震わせる。声は控えめで、手は胸の前で小さく組まれていた。可憐で、慎ましやかで、庇護欲を誘う所作。


 ヴィクトール様がこの方を連れてきた理由が、二秒で分かった。


「結界術を。まあ、それはご立派ですこと」


「いえ、まだまだ未熟で……でも、わたし、とても結界に興味がありまして」


 アネリーゼ嬢はわたくしの方をちらりと見て、すぐに目を逸らした。視線の先に一瞬だけ映ったものを、わたくしは見逃さなかった。


 品定め。


 それも、勝てるかどうかの。



 翌日、ヴィクトール様は執務室にわたくしを呼んだ。


 呼び出されること自体が珍しい。結界の維持記録を提出するのはいつも廊下ですれ違ったときで、執務室の椅子に座るよう促されたのは、この十年で三度目だった。


「アネリーゼにも結界を学ばせたい」


 前置きなく、ヴィクトール様は言った。書類から顔を上げもしない。


「結界を……学ぶ、ですか」


「ああ。お前が体調を崩したときに代わりがいないのは困る。彼女にも結界を張れるようになってもらう」


 代わり。


 十年間、一度も「体調を崩したらどうする」と心配されたことはなかった。今になって代わりを用意するのは、わたくしのためではない。


「つきましては、核石を使わせてやってくれ」


 指先が、冷えた。


「……核石を、ですか」


「ああ。結界に使う石だろう。学ぶなら本物で練習した方がいい」


 ヴィクトール様は羽根ペンの先でインク壺を叩きながら言った。まるで備品の貸し出しでも許可するかのように。


「恐れながら、あの石はわたくしの母の相続品でございます。クラーレンス伯爵家から持参したもので、エルヴェスト家の資産ではありません」


「たかが石だろう」


 ペン先がインク壺の縁を弾いた。小さな黒い雫が、書類の端に飛ぶ。ヴィクトール様は気づかない。


「お前が死蔵していても仕方がない。アネリーゼに使わせてやれ」


 たかが石。


 母が命を削って同調させた石を、たかが、と。


「……ご検討いたします」


 それだけ言って、わたくしは執務室を辞した。廊下に出た瞬間、核石が胸元で微かに熱を持った。まるで母が怒っているかのように。



 三日後、中庭でアネリーゼ嬢が結界術を披露することになった。


 ヴィクトール様が「見てやれ」と言うので、わたくしは石のベンチに腰を下ろし、マルタを傍らに立たせた。


 アネリーゼ嬢が目を閉じ、両手を掲げる。唇が呪文を紡ぐ。指先から淡い光が散り、空中に薄い膜が広がった。


 結界だ。確かに結界の形をしている。


 三秒。膜が震えた。


 五秒。端から綻び始める。


 八秒。音もなく消えた。蝋燭の炎を息で消したように、何も残らなかった。


「もう少し練習すれば、きっとできますわ」


 アネリーゼ嬢は微笑んだ。額に汗一つない。消耗していないのではない。消耗するほどの魔力を注いですらいない。


 ヴィクトール様が拍手した。


「大したものだ。初めてにしては上出来じゃないか」


 わたくしは何も言わなかった。八秒で消える結界では、一匹の野兎すら防げない。この領地を包む結界は、嵐の夜も、魔獣が群れる冬も、一晩中途切れず保たなければならない。


 八秒と一晩の間にあるもの。それがどれほど深い溝か、目の前の二人には見えていない。



 部屋に戻ると、マルタが扉を閉めるなり言った。


「お嬢様。あの方に結界の才能はございません」


 断言だった。


「マルタ」


「わたくしはお母様の傍で三十年お仕えしました。結界術は分かりませんが、本物の結界師がどんな顔で術を使うかは存じております。あの方の顔は、演じている顔です。苦しんでいる顔ではありません」


 マルタの目が真っ直ぐにわたくしを見ている。


「あの方は嘘をついています」


「……分かっているわ」


 声が、自分で思ったより静かだった。


「分かっていて、なぜお嬢様は黙っていらっしゃるのです」


「言って、聞く方なら。十年もかからなかったでしょうね」


 マルタの目が赤くなった。わたくしは窓際に歩み寄り、夕暮れの領地を見下ろした。結界の膜が西日を受けて、かすかに金色に滲んでいる。あの光の下で、今日も領民が畑を耕し、子供が駆け回り、老人が木陰で居眠りをしている。


 この光を維持しているのが誰かを、ヴィクトール様は十年間、一度も聞かなかった。聞く必要がないと思っていた。立っているだけのものに、名前はいらないのだろう。



 夜、核石を握った。


 乳白色の石が掌の中で金色に灯る。温かい。


 この石は、守りたいものがある人にしか応えない。母はそう言っていた。アネリーゼ嬢が核石を手にしても、おそらく光らない。同調には膨大な時間と魔力と、何より覚悟がいる。母はわたくしに石を託すとき、三日三晩かけて同調の儀式を行った。わたくしの手を握り、石を握り、震える声で呪文を唱え続けた。


 あのとき母の指がどれほど冷たかったか、わたくしは覚えている。


 たかが石、とヴィクトール様は言った。


 母のことを一度も聞かなかった。石の名を聞かなかった。同調の意味を聞かなかった。わたくしが毎晩結界台で何をしているのかも。


 十年。


 十年かけて、分かったことがある。この方は知ろうとしなかったのではない。知る必要がないと思っていたのだ。わたくしのことも、母のことも、結界のことも。目に映らないものは、この方の世界には存在しない。


 存在しないものの価値を、どれだけ言葉で伝えても届かない。



 翌朝、ヴィクトール様がまた言った。朝食の席で、卵料理にナイフを入れながら。


「核石の件、どうなった。アネリーゼに渡してやれ。婚約者なら、俺の命に従え」


 銀のナイフが卵の殻を割る音が、やけに乾いていた。


「あの石はわたくしの個人資産です。エルヴェスト家の命で処分できるものではございません」


「面倒なことを言うな。たかが石一つだろう」


 二度目の、たかが。


 わたくしはナイフを置いた。フォークも。両手を膝の上に揃えた。


「ヴィクトール様」


「何だ」


「あの石は、母がわたくしに遺した唯一のものです」


 声は震えなかった。自分でも不思議なほど、平らかだった。


 ヴィクトール様はわたくしの顔を見た。十年間の朝食の中で、おそらく最も長い時間、わたくしの目を見た。


 そして、眉を顰めた。


「……お前、最近どうしたんだ。妙に頑固だな」


 妙に頑固。


 十年間黙って従ってきたのに、一度だけ断ったら、妙に頑固。


 何かが切れた、と思った。音はしなかった。怒りでもなかった。糸が擦り切れるときの、あの静かな感覚。ずっと張り詰めていたものが、限界を超えたのではなく、ただ摩耗して、自然にほどけた。


「失礼いたします。結界の調整がございますので」


 わたくしは席を立った。ヴィクトール様は何か言いかけたが、すぐに招待状の束に手を伸ばした。わたくしが席を立つことに、もう興味がないらしい。


 廊下を歩きながら、胸元の核石に指先で触れた。


 温かい。


 母の手の温度。



 その夜、結界台で光を灯しながら、わたくしは初めて問うた。


 守ると誓ったのは、この場所だろうか。


 それとも、この石に宿る母の想いだろうか。


 核石が掌の中で、静かに脈打っている。答えはまだ出ない。けれど、問いを持ったこと自体が、何かの始まりだった。


 結界の光が凪いだ夜空の下、わたくしは少しだけ手を緩めた。


 握りしめるのを、やめてみた。

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