第2話「私にもできます」
紅茶に映ったわたくしの顔が、揺れた。
ヴィクトール様が客間の扉を開け、一人の女性を伴って入ってきたからだ。午後の日差しが窓から斜めに差し込み、その人の亜麻色の髪を柔らかく照らしている。
「リーゼロッテ、紹介したい人がいる」
ヴィクトール様の声が、いつもより半音高い。社交の場で有力者を見つけたときの声だ。十年も隣にいれば、声の色で機嫌が分かるようになる。わたくしは紅茶のカップを静かに受け皿へ戻した。
「アネリーゼ・シュトラウスだ。男爵家の出で、結界術を嗜んでいる」
アネリーゼと名乗ったその人は、深く腰を折った。絹のように滑らかな仕草で、礼の角度も完璧だった。社交の訓練を受けている。ただし、ドレスの袖口の刺繍が微かに解れていた。仕立て直した衣装だろう。
「お初にお目にかかります、リーゼロッテ様。結界術を少し嗜んでおりまして……こうして学ばせていただける機会をいただけて、光栄です」
瞳を伏せ、睫毛を震わせる。声は控えめで、手は胸の前で小さく組まれていた。可憐で、慎ましやかで、庇護欲を誘う所作。
ヴィクトール様がこの方を連れてきた理由が、二秒で分かった。
「結界術を。まあ、それはご立派ですこと」
「いえ、まだまだ未熟で……でも、わたし、とても結界に興味がありまして」
アネリーゼ嬢はわたくしの方をちらりと見て、すぐに目を逸らした。視線の先に一瞬だけ映ったものを、わたくしは見逃さなかった。
品定め。
それも、勝てるかどうかの。
翌日、ヴィクトール様は執務室にわたくしを呼んだ。
呼び出されること自体が珍しい。結界の維持記録を提出するのはいつも廊下ですれ違ったときで、執務室の椅子に座るよう促されたのは、この十年で三度目だった。
「アネリーゼにも結界を学ばせたい」
前置きなく、ヴィクトール様は言った。書類から顔を上げもしない。
「結界を……学ぶ、ですか」
「ああ。お前が体調を崩したときに代わりがいないのは困る。彼女にも結界を張れるようになってもらう」
代わり。
十年間、一度も「体調を崩したらどうする」と心配されたことはなかった。今になって代わりを用意するのは、わたくしのためではない。
「つきましては、核石を使わせてやってくれ」
指先が、冷えた。
「……核石を、ですか」
「ああ。結界に使う石だろう。学ぶなら本物で練習した方がいい」
ヴィクトール様は羽根ペンの先でインク壺を叩きながら言った。まるで備品の貸し出しでも許可するかのように。
「恐れながら、あの石はわたくしの母の相続品でございます。クラーレンス伯爵家から持参したもので、エルヴェスト家の資産ではありません」
「たかが石だろう」
ペン先がインク壺の縁を弾いた。小さな黒い雫が、書類の端に飛ぶ。ヴィクトール様は気づかない。
「お前が死蔵していても仕方がない。アネリーゼに使わせてやれ」
たかが石。
母が命を削って同調させた石を、たかが、と。
「……ご検討いたします」
それだけ言って、わたくしは執務室を辞した。廊下に出た瞬間、核石が胸元で微かに熱を持った。まるで母が怒っているかのように。
三日後、中庭でアネリーゼ嬢が結界術を披露することになった。
ヴィクトール様が「見てやれ」と言うので、わたくしは石のベンチに腰を下ろし、マルタを傍らに立たせた。
アネリーゼ嬢が目を閉じ、両手を掲げる。唇が呪文を紡ぐ。指先から淡い光が散り、空中に薄い膜が広がった。
結界だ。確かに結界の形をしている。
三秒。膜が震えた。
五秒。端から綻び始める。
八秒。音もなく消えた。蝋燭の炎を息で消したように、何も残らなかった。
「もう少し練習すれば、きっとできますわ」
アネリーゼ嬢は微笑んだ。額に汗一つない。消耗していないのではない。消耗するほどの魔力を注いですらいない。
ヴィクトール様が拍手した。
「大したものだ。初めてにしては上出来じゃないか」
わたくしは何も言わなかった。八秒で消える結界では、一匹の野兎すら防げない。この領地を包む結界は、嵐の夜も、魔獣が群れる冬も、一晩中途切れず保たなければならない。
八秒と一晩の間にあるもの。それがどれほど深い溝か、目の前の二人には見えていない。
部屋に戻ると、マルタが扉を閉めるなり言った。
「お嬢様。あの方に結界の才能はございません」
断言だった。
「マルタ」
「わたくしはお母様の傍で三十年お仕えしました。結界術は分かりませんが、本物の結界師がどんな顔で術を使うかは存じております。あの方の顔は、演じている顔です。苦しんでいる顔ではありません」
マルタの目が真っ直ぐにわたくしを見ている。
「あの方は嘘をついています」
「……分かっているわ」
声が、自分で思ったより静かだった。
「分かっていて、なぜお嬢様は黙っていらっしゃるのです」
「言って、聞く方なら。十年もかからなかったでしょうね」
マルタの目が赤くなった。わたくしは窓際に歩み寄り、夕暮れの領地を見下ろした。結界の膜が西日を受けて、かすかに金色に滲んでいる。あの光の下で、今日も領民が畑を耕し、子供が駆け回り、老人が木陰で居眠りをしている。
この光を維持しているのが誰かを、ヴィクトール様は十年間、一度も聞かなかった。聞く必要がないと思っていた。立っているだけのものに、名前はいらないのだろう。
夜、核石を握った。
乳白色の石が掌の中で金色に灯る。温かい。
この石は、守りたいものがある人にしか応えない。母はそう言っていた。アネリーゼ嬢が核石を手にしても、おそらく光らない。同調には膨大な時間と魔力と、何より覚悟がいる。母はわたくしに石を託すとき、三日三晩かけて同調の儀式を行った。わたくしの手を握り、石を握り、震える声で呪文を唱え続けた。
あのとき母の指がどれほど冷たかったか、わたくしは覚えている。
たかが石、とヴィクトール様は言った。
母のことを一度も聞かなかった。石の名を聞かなかった。同調の意味を聞かなかった。わたくしが毎晩結界台で何をしているのかも。
十年。
十年かけて、分かったことがある。この方は知ろうとしなかったのではない。知る必要がないと思っていたのだ。わたくしのことも、母のことも、結界のことも。目に映らないものは、この方の世界には存在しない。
存在しないものの価値を、どれだけ言葉で伝えても届かない。
翌朝、ヴィクトール様がまた言った。朝食の席で、卵料理にナイフを入れながら。
「核石の件、どうなった。アネリーゼに渡してやれ。婚約者なら、俺の命に従え」
銀のナイフが卵の殻を割る音が、やけに乾いていた。
「あの石はわたくしの個人資産です。エルヴェスト家の命で処分できるものではございません」
「面倒なことを言うな。たかが石一つだろう」
二度目の、たかが。
わたくしはナイフを置いた。フォークも。両手を膝の上に揃えた。
「ヴィクトール様」
「何だ」
「あの石は、母がわたくしに遺した唯一のものです」
声は震えなかった。自分でも不思議なほど、平らかだった。
ヴィクトール様はわたくしの顔を見た。十年間の朝食の中で、おそらく最も長い時間、わたくしの目を見た。
そして、眉を顰めた。
「……お前、最近どうしたんだ。妙に頑固だな」
妙に頑固。
十年間黙って従ってきたのに、一度だけ断ったら、妙に頑固。
何かが切れた、と思った。音はしなかった。怒りでもなかった。糸が擦り切れるときの、あの静かな感覚。ずっと張り詰めていたものが、限界を超えたのではなく、ただ摩耗して、自然にほどけた。
「失礼いたします。結界の調整がございますので」
わたくしは席を立った。ヴィクトール様は何か言いかけたが、すぐに招待状の束に手を伸ばした。わたくしが席を立つことに、もう興味がないらしい。
廊下を歩きながら、胸元の核石に指先で触れた。
温かい。
母の手の温度。
その夜、結界台で光を灯しながら、わたくしは初めて問うた。
守ると誓ったのは、この場所だろうか。
それとも、この石に宿る母の想いだろうか。
核石が掌の中で、静かに脈打っている。答えはまだ出ない。けれど、問いを持ったこと自体が、何かの始まりだった。
結界の光が凪いだ夜空の下、わたくしは少しだけ手を緩めた。
握りしめるのを、やめてみた。




