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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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第1話「置物の婚約者」

 核石が熱い。


 掌の中で、母の形見が脈打つように明滅している。夜気に晒された指先は冷たいのに、石だけがじんわりと血の通った温度を保っていた。


 丑三つ時のエルヴェスト公爵領。わたくしは領館の最上階に設けられた結界台に立ち、目を閉じていた。魔力を注ぐたびに、こめかみの奥が鈍く軋む。今夜は北の森から獣の気配がいつもより濃い。結界の膜を少しだけ厚くする。消耗が、倍になる。


 額に浮いた汗が顎を伝い、石の台座に落ちた。


 音はしない。この仕事はいつだって無音だ。


 結界が安定すると、領地を包む光の膜がかすかに揺れ、そして凪ぐ。あの光を見て安心して眠る領民がいることを、わたくしは知っている。結界台から見下ろす夜の街並みは静かで、窓という窓が暗い。


 みな、眠っている。わたくしが起きていることを、誰も知らない。


 ――知らなくていい。それが結界師の仕事だから。


 母はそう言っていた。わたくしが十二の歳にこの石を託し、翌年の冬に逝った。



 朝食の席で、ヴィクトール様はパンを千切りながら言った。


「昨夜も結界の管理か。立ってるだけなのに、ずいぶん疲れた顔をするな」


 銀のナイフが皿に触れる音がやけに大きかった。


「少し魔力の調整がございまして」


「ああ、そう」


 それだけだった。ヴィクトール様の視線はすでにテーブルの向こう、今夜の社交の招待状に移っている。封蝋を爪で弾く仕草が軽い。わたくしの言葉は、パンの千切りほどの関心も引かなかったらしい。


 十年。


 この方の隣で結界を張り続けて、十年になる。その間にヴィクトール様が結界台を訪れた回数を、わたくしは数えられる。覚える必要もないほど少ないからだ。


「今夜のアルトハイム伯爵家の晩餐会には出るぞ。支度をしておけ」


「承知いたしました」


 わたくしは紅茶を一口含んだ。冷めていた。いつからか分からない。



 午後、執務室で結界の維持記録をつけていると、マルタが茶を運んできた。


「お嬢様、今朝も顔色が悪うございますよ」


「そう? 鏡を見ていなかったわ」


「見てくださいまし。目の下の隈、もうお化粧では隠しきれませんよ」


 マルタは小さな皿にクッキーを載せて、記録帳の横にそっと置いた。わたくしが記録をつけている間は食事を忘れることを、乳母であるこの人だけが知っている。


「……ありがとう、マルタ」


「ヴィクトール様は、この記録をご覧になったことがございますか」


 マルタの声が、少しだけ硬い。わたくしは羽根ペンを置いた。


「いいえ」


「十年分の記録を?」


「一度も」


 マルタは何か言いかけて、唇を引き結んだ。代わりにクッキーの皿を数ミリだけ押した。食べろ、という圧力だった。



 夕刻、廊下でギルベルト老に声をかけられた。


 先代公爵の代から仕える老執事は、わたくしの前でだけ少し背筋を緩める。


「リーゼロッテ様。以前、騎士団総帥が領地の視察にいらした折、結界の状態を大変お褒めでした」


「騎士団の方が?」


「ええ。『これほど精緻な結界を維持している術者がいるとは』と。先代様もよくおっしゃっておいででした。お母様の結界術は、この領地の宝だと」


 胸の奥で、何かが小さく震えた。


「……母のことを覚えていてくださる方が、まだいらっしゃるのですね」


「お忘れになる方がどうかしておいでなのです」


 ギルベルトは深く頭を下げ、廊下の奥へ去っていった。その背中がどこか寂しそうに見えたのは、燭台の影のせいだろうか。



 夜。


 結界台に立つ前に、核石を両手で包んだ。母が遺してくれた、手のひらに収まるほどの乳白色の石。わたくしの魔力に応えるとき、淡く金色に光る。


「お母様。わたくしはまだ、この場所を守れています」


 答えはない。いつも、ない。


 けれど核石は温かかった。母がわたくしの手を握ってくれていた頃と同じ温度で、静かに光っている。


 この石は、守りたいものがある人にしか応えない。


 母がそう言っていた。



 晩餐会から戻ったのは深夜だった。ヴィクトール様は上機嫌で、社交の成果を使用人たちに語っていた。


 わたくしが廊下を通りかかったとき、客間から笑い声が漏れてきた。


「うちの婚約者は置物みたいなものだ。晩餐会でも一言も気の利いたことを言わない」


 ヴィクトール様の声だった。取り巻きの貴族たちの低い笑い声が続く。


「結界の管理? あんなもの、立ってるだけだろう。置物と変わらん」


 廊下の向こうで、給仕の少女がわたくしと目を合わせた。少女はすぐに目を逸らし、銀の盆を胸に抱えて足早に去った。


 わたくしは微笑んだ。


 笑い方だけは、十年で上手くなった。


 部屋に戻ると、マルタが待っていた。何も言わなかったが、目が赤い。聞こえていたのだろう。わたくしは首を横に振った。


「大丈夫よ」


「……大丈夫ではありませんよ、お嬢様」


 マルタの声が震えている。わたくしは夜着に着替え、結界台へ向かった。



 夜風が冷たい。


 核石を握る。魔力を注ぐ。光の膜が領地を包む。


 北の森から、今夜も獣の気配。結界を少し厚くする。こめかみが軋む。額に汗が浮く。


 領館の窓は、すべて暗い。


 ヴィクトール様も、取り巻きの貴族たちも、給仕の少女も。全員が、この光の下で眠っている。


 置物。


 そう呼ばれた置物が、今夜も領地を守る光を灯している。



 わたくしはその夜も、誰にも気づかれないまま、立ち続けた。

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