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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話「記録は嘘をつかない」

 王宮の廊下は、靴音がよく響く。


 白い大理石の床に、わたくしの踵が規則正しく音を刻む。左右に立つ近衛兵が微動だにしない。天井のアーチから朝の光が斜めに降り、廊下の半分を白く、半分を影に分けていた。


 査問会の間は、王宮の東翼にある。普段は国務会議に使われる広間で、半円形の壇が設けられ、中央に宰相の席がある。わたくしが中に入ると、すでに幾人もの人影があった。


 壇の中央に、宰相クラウス・フォン・エーレンベルク閣下。白髪を後ろに撫でつけた痩身の男性で、目が冷たい。冷たいというより、温度のない目だ。感情を通さず、事実だけを映す硝子のような瞳。


 壇の左手に、記録官が二名。羽根ペンを構えている。


 傍聴席に、数名の高位貴族。おそらく王家の命で出席を求められた者たちだろう。


 そして、広間の右手前に。


 ヴィクトール様が立っていた。


 久しぶりに見るその顔は、記憶と違っていた。目の下に隈がある。髪が乱れている。上着の襟元が微かに歪んでいる。あの方が身なりを乱すのを、わたくしは十年間で一度も見たことがなかった。


 隣に、アネリーゼ嬢。顔が白い。唇の色が消えている。手が、スカートの布を掴んでいる。


 その後方に、ギルベルト。正装の執事服。白い手袋。背筋が真っ直ぐだった。


 そしてギルベルトの隣に、車椅子に座った白髪の男性。先代公爵。ヴィクトール様の父君。体調を崩して隠居されたと聞いていたが、こうして出席されているということは、自ら望んで来られたのだろう。


 村長のハンスもいた。一番端の椅子に、膝に帽子を載せて座っている。場違いな場所に連れてこられた農夫の顔をしていたが、目だけは据わっていた。


 わたくしは証人席に進んだ。レオンハルト様が、騎士団の正装で壇の右手に立っている。目が合った。灰色の瞳が、ほんの一瞬だけわたくしを見て、すぐに正面に戻った。


 それだけでよかった。



「エルヴェスト公爵家の統治能力に関する査問を開始する」


 宰相の声は、広間の隅まで届いた。大きな声ではない。ただ、遮るものがない声だった。


「本件は、公爵領の防衛結界が完全に崩壊し、領民に甚大な被害が発生した事案について、統治者の判断と対応を検証するものである。証人には事実のみを述べることを求める」


 宰相が手元の書類に目を落とした。


「まず、物的証拠から確認する」


 記録官が、壇の前に一冊の文書を置いた。革紐で綴じられた、見覚えのある紙の束。


 わたくしの引継ぎ文書だった。


「本文書は、リーゼロッテ・フォン・クラーレンス嬢が公爵領退去時に作成した、防衛結界の維持管理手順書である。全百二十六頁。結界の維持手順、魔力注入量、季節調整、非常時の避難手順を網羅している」


 宰相が文書を手に取り、頁を捲った。紙の擦れる音が広間に響く。


「ギルベルト・ヘッセ執事」


「はい」


 ギルベルトが一歩前に出た。


「本文書は、エルヴェスト公爵家に正式に引き渡されたか」


「はい。リーゼロッテ様よりわたくしが受け取り、まずヴィクトール様にお目通しをお願いいたしました」


「ヴィクトール卿は目を通したか」


「いいえ。『そんなものは後でいい。アネリーゼに渡しておけ』とおっしゃいました」


 広間に、かすかなざわめきが起きた。傍聴席の貴族が一人、隣に向かって何か囁いた。


「その後、文書はアネリーゼ・シュトラウス嬢に届けられたか」


「はい。お部屋にお届けいたしました」


「シュトラウス嬢は目を通したか」


 ギルベルトの声が、ほんのわずかに低くなった。


「一度も開かれませんでした。お届けした日の状態のまま、化粧台の横に置かれておりました」


 静寂。記録官のペンが紙を走る音だけが聞こえる。


 宰相が文書を壇の上に戻した。百二十六頁の重みが、木の台を叩く小さな音を立てた。



「次の証拠。騎士団総帥レオンハルト・フォン・ヴァイスリッター卿」


 レオンハルトが一歩前に出た。手に一冊の綴じ帳を持っている。三年前の巡視報告書。わたくしが騎士団本部で見せてもらったあの帳面だ。


「三年前、国境巡視の一環でエルヴェスト公爵領を視察した。その際の報告書を提出する」


 綴じ帳が宰相の手に渡った。宰相が該当箇所を開く。赤い線が引かれた頁。


「読み上げる。『当該領地の防衛結界は、巡視した十二領のうち最も精緻。層構造が三重で、季節変動への対応が組み込まれている。これほどの結界を維持する術者がいるなら、国防上の資産として記録すべきと判断する。維持者は一名』」


 宰相が顔を上げた。


「国防上の資産、と評価された結界を維持していた術者が、一貴族家の判断で排除された。この認識で間違いないか」


 レオンハルトが答えた。


「排除ではなく、軽視です。維持者は婚約者として十年間結界を張り続けましたが、その仕事は"立ってるだけ"と評されていました」


 ヴィクトール様の顔が、視界の端で強張ったのが見えた。けれどわたくしはそちらを見なかった。見る必要がなかった。



「証人、リーゼロッテ・フォン・クラーレンス嬢」


 名を呼ばれた。立ち上がり、壇の前に進んだ。


「退去の経緯を述べよ」


「はい。わたくしはエルヴェスト家主催の夜会において、ヴィクトール様から"置物みたいな婚約者"と紹介され、結界の管理をアネリーゼ嬢に引き継ぐと公に宣言されました。それ以前にも、核石の引き渡しを求められておりましたが、核石はわたくしの母の個人相続品であるため、お断りいたしました」


「退去にあたり、どのような手続きを行ったか」


「引継ぎ文書を七日間かけて作成し、ギルベルト執事を通じてヴィクトール様に提出いたしました。核石の持ち出しについては、クラーレンス伯爵家からの相続証明書を法的根拠としております。また、退去の際に一通の手紙を残し、文書をお読みくださるよう重ねてお願いいたしました」


「その手紙は読まれたか」


「存じません。お返事はいただいておりません」


 淡々と答えた。感情は込めなかった。事実だけを述べた。声が震えなかったのは、十年間の訓練のおかげだ。


 宰相が頷いた。わたくしは証人席に戻った。


 戻る途中、レオンハルト様の前を通った。灰色の目がわたくしを見て、小さく頷いた。唇は動かなかった。声もなかった。ただ、一度だけ顎が下がって、戻った。


 それだけで、背筋が伸びた。



「証人、ハンス村長」


 ハンスが立ち上がった。帽子を椅子に置き、慣れない足取りで壇の前に進む。


「あなたはエルヴェスト公爵領の中心集落で村長を務めているか」


「へえ、四十年になります」


「結界について、証言を求める」


 ハンスは宰相を見上げた。農夫の日焼けした顔に、宰相の冷たい目は似合わない。けれどハンスは怯まなかった。


「わしらは、結界師様の光の下で五十年間暮らしてまいりました。先代の結界師様、つまりリーゼロッテ様のお母上の時代から。あの光がある間は、夜に怯えたことがない。子供たちは安心して外で遊び、老人は縁側で居眠りをし、畑は獣に荒らされませんでした」


 ハンスの声は震えていなかった。ただ、一語一語が重かった。


「あの光が消えた夜のことは、一生忘れません。孫が『じいちゃん、お空が暗いね』と言いました。それから獣の声が聞こえました。五十年間、聞いたことのない声です」


 広間が静まり返っている。傍聴席の貴族たちが、身じろぎもせずにハンスを見ていた。


「結界師様がいなくなってからこうなることは、わしらには分かっておりました。あの光の下で暮らしてきた者には分かるのです。あの光が何であったかが」


 ハンスがわたくしの方を見た。


「あの光が消えた夜の恐怖を、ここにおいでの方々はご存じない。けれどわしらは知っております。あの光がどれほどありがたかったかを」


 目の奥が、熱くなった。


 こらえた。ここで泣くわけにはいかない。証人として、事実を述べる場だ。感情を見せれば、それは証言の信頼性を損なう。


 けれど、ハンスの言葉が胸の深い場所に落ちた。五十年。わたくしの母の代から、あの光は灯り続けていた。わたくしが継いで十年。合わせて五十年。その光の下で育った子供たちが大人になり、老人になり、孫を持った。


 恐怖を知らなかった、とハンスは言った。その言葉こそが、わたくしの十年間への最も正確な評価だった。



「アネリーゼ・シュトラウス嬢」


 宰相の声が、広間の温度を下げた。


 アネリーゼ嬢が立ち上がった。足元がふらついている。壇の前に進む歩みが遅い。


「あなたは結界術の能力を持つとして、エルヴェスト公爵家に迎え入れられたか」


「……はい」


「結界の管理を引き継ぐと、ヴィクトール卿が公に宣言した。その事実に相違ないか」


「はい」


「では問う。なぜ三日で結界が消えたのか」


 アネリーゼ嬢の指が、スカートの布を握り潰していた。皺が深く刻まれている。


「核石が……なかったからです」


「核石がなければ結界は張れないのか」


「わたし……核石さえあれば、できたはずです。核石があれば……」


「引継ぎ文書には、核石がない場合の代替手順も記されている。第七章、補助結界の展開方法。読んだか」


 沈黙。


 長い、長い沈黙だった。アネリーゼ嬢の目が泳いでいる。壇の上の宰相を見て、ヴィクトール様を見て、床を見て、また宰相を見た。


「……読んで、おりません」


「なぜ読まなかったのか」


「わたし……その……」


「質問を変える。あなたに、核石なしで結界を張る能力はあるか」


 アネリーゼ嬢の唇が震えた。白い顔がさらに白くなる。


「……ありません」


 声が、消え入りそうだった。


「核石があっても、張れるか」


「……分かりません」


「では、"結界術を嗜んでいる"と述べた根拠は何か」


 答えはなかった。アネリーゼ嬢の目から涙がこぼれた。壇の前で、声もなく泣いていた。


 宰相は涙を待たなかった。


「核石の所有権について確認する。本件の核石は、クラーレンス伯爵家から正式に相続された個人資産であり、エルヴェスト家の婚約財産には含まれない。相続証明書により確認済みである。リーゼロッテ嬢に引き渡し義務はない」


 法的に。一語ずつ、逃げ道を塞いでいく。宰相の声には感情がない。事実を並べているだけだ。だからこそ、逃げ場がない。



 最後に立ったのは、先代公爵だった。


 車椅子から、ゆっくりと立ち上がった。付き添いの者が手を貸そうとしたが、首を横に振って退けた。杖をつき、背筋を伸ばし、壇の前に進んだ。


 老いた体に、かつての威厳が宿っている。この方は、母をエルヴェスト家の結界師として招いた人だ。母の結界がこの領地を守っていたことを、最もよく知っている方。


「発言を許されたい」


「許可する」


 先代公爵がヴィクトール様の方を向いた。


 父が息子を見る目だった。けれどその目に、慈しみはなかった。あるのは、認めたくなかった事実をようやく認めた人間の、深い疲労だった。


「ヴィクトール」


 ヴィクトール様の体が微かに揺れた。父に名を呼ばれただけで、膝が折れそうになっている。


「お前は結界師ではなく、結界師を繋ぎ止める器量すらなかったのだ」


 声は静かだった。怒鳴ってはいなかった。けれどその静かさが、広間の全員の喉を塞いだ。


「リーゼロッテ嬢の母君と、わしは契約を交わした。あの方の結界術をこの領地のために使っていただく代わりに、エルヴェスト家はクラーレンス家の娘を正当に遇すると。それが婚約の条件だった」


 知らなかった。そんな契約があったとは。母は何も言わなかった。


「お前はその契約を、"置物"の一言で破った。わしの顔に泥を塗り、あの方の母君との約束を踏みにじり、五十年間この領地を守ってきた結界を消した」


 先代公爵の杖が、床を一度だけ突いた。硬い音が広間に響いた。


「父上……」


 ヴィクトール様の声が掠れていた。


「父上、俺は……」


「もう遅い」


 先代公爵は背を向けた。車椅子に戻り、付き添いの者に押されて広間の隅へ下がっていった。ヴィクトール様に向けた背中は、見放す、という言葉そのものだった。


 広間が沈黙に沈んだ。記録官のペンすら止まっていた。


 父にすら見放された彼の顔を、わたくしは見なかった。


 見る必要が、もうなかったから。

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