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守る人を間違えた  作者: 九葉(くずは)


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第11話「立っていただけなのに」

 宰相が、書類を閉じた。


 紙の束が揃えられ、机の上に置かれる音が、広間に落ちた。小さな音だった。けれどその音で、空気が変わった。傍聴席の貴族たちが背筋を伸ばし、記録官がペンを構え直す。


 査問会の二日目。昨日の証拠提示と証言を経て、宰相クラウス・フォン・エーレンベルク閣下が最終判断を下す場だった。


 わたくしは証人席に座っている。隣にマルタはいない。ここは王宮の査問の間であって、侍女が入れる場所ではない。けれど胸元の核石が温かいから、一人ではなかった。


 レオンハルト様が壇の右手に立っている。今日も騎士団の正装。銀の肩章が窓からの光を受けて、硬く光っていた。


 ヴィクトール様は、昨日と同じ場所に立っていた。ただし隣にアネリーゼ嬢の姿はない。昨夜のうちに屋敷から姿を消した、と聞いた。行き先は不明。ヴィクトール様の顔は昨日よりさらに削れていて、目の下の隈が紫に近い。


 先代公爵は今日も車椅子で出席していた。ただし昨日と違い、ヴィクトール様から最も遠い場所に座っている。


「査問の結果を述べる」


 宰相の声が、広間を満たした。


「エルヴェスト公爵家は、領地の防衛結界を維持する結界師を不当に軽視し、結界管理の引継ぎを怠り、結果として領地全域の結界崩壊と領民への甚大な被害を招いた。引継ぎ文書は作成されていたにもかかわらず、領主は一頁も目を通さず、後任とされた人物にも読まれなかった。これは統治者としての重大な判断の過誤である」


 一語ずつ、宰相の声が石を積むように重なっていく。


「よって、王命により、エルヴェスト公爵家の統治権を停止する。領地は王家直轄に移行し、領民の安全と生活の再建は王家が担う」


 統治権の停止。


 広間がざわめいた。傍聴席の貴族たちが顔を見合わせ、記録官のペンが一瞬止まり、すぐに走り出す。統治権の停止は爵位の剥奪ではない。けれど実権を失うということは、公爵の名前だけが残り、中身が空になるということだ。


「待ってくれ!」


 ヴィクトール様の声が、広間に弾けた。


 椅子から立ち上がり、壇に向かって一歩踏み出した。近衛兵が身じろぎしたが、宰相が手で制した。


「待ってくれ、宰相閣下。結界師を戻せば元に戻る。結界さえ張り直せば、領地は元通りになる」


 声が裏返っている。社交の場で聞かせていた自信に満ちた声ではなかった。縋りつくような、薄い声だった。


「彼女は俺の婚約者だ。戻ってくれば――」


「ヴィクトール卿」


 宰相が遮った。感情のない声で。


「婚約者であるとのご主張ですが、あなたは公の夜会で婚約の解消を事実上宣言し、別の女性を結界の後任として紹介されました。リーゼロッテ嬢は正当な手続きで退去されています」


「あれは……あれは、そういう意味では……」


 ヴィクトール様の目が、広間を泳いだ。助けを求めるように。先代公爵を見た。先代は目を合わせなかった。傍聴席の貴族たちを見た。誰も目を逸らした。


 そして、わたくしを見た。


「リーゼロッテ」


 十年間聞いた名前だった。けれど今日の呼び方は違った。命令でも、無関心でもなく、溺れかけた人間が岸に手を伸ばすときの声。


「頼む。戻ってきてくれ。お前がいないと、領地が……俺は……」


 わたくしは立ち上がった。


 広間の視線がすべてこちらに集まるのが分かった。宰相の目。傍聴席の目。記録官の目。レオンハルト様の目。そしてヴィクトール様の、縋るような目。


「ヴィクトール様」


 声は静かだった。十年間、結界台で夜風に向かって立ち続けた声だ。震えない。揺れない。


「婚約を破棄なさったのは、あなたです」


 それだけだった。それ以上は必要なかった。


 ヴィクトール様の顔から、最後の色が抜けた。唇が動いたが、声にならなかった。


 わたくしは席に戻った。



 広間の沈黙を破ったのは、レオンハルトの靴音だった。


 壇の右手から一歩前に出た。騎士団総帥の正装が、窓からの光を受けて銀と白に輝いている。


「発言を求める」


「許可する」


 レオンハルトの声が、広間に通った。低く、簡潔で、揺るぎのない声だった。


「リーゼロッテ・フォン・クラーレンスは、現在、王都防衛結界の管理者として王家に仕えております」


 一語ずつ、正確に。


「先日の試験展開において、北区画の防衛結界を単独で展開することに成功しました。その技術は、三年前の巡視報告にも記録した通り、国内で最も精緻なものです」


 レオンハルトの灰色の目が、ヴィクトール様を見た。


「あなたの元婚約者ではありません。この国を守る、国家結界師です」


 元婚約者ではなく、国家結界師。


 その一語が、ヴィクトール様の手から最後の綱を切り落とした。もう「婚約者だから戻せ」という主張が通る余地はない。わたくしは一貴族家の付属品ではなく、王家が認めた国の技術者なのだと、この場の全員に宣言された。


 傍聴席の貴族たちの間で、小さなざわめきが起きた。頷く者。扇で口元を隠す者。隣に何か囁く者。空気が変わっていた。同情ではなく、認知。この広間にいる全員が、わたくしの肩書きを記憶に刻んだ。



 宰相が、ヴィクトール様に目を向けた。


「ヴィクトール卿。最後に一つ問う」


 ヴィクトール様は答えなかった。立ち尽くしたまま、壇を見上げている。


「あなたが夜会で"置物"と呼んだ結界師が、現在この国の防衛を担っている」


 宰相の声は平坦だった。感情がないからこそ、言葉の刃が鋭い。


「あなたが"立ってるだけ"と笑った仕事が、五十年間この国の一つの領地を守り、今は王都を守っている」


 間を置いた。記録官のペンが止まっている。広間の空気が張り詰めて、呼吸の音すら聞こえそうだった。


「あなたが軽んじたものの重さを、今、理解されましたか」


 ヴィクトール様は口を開いた。閉じた。また開いた。


 声は出なかった。


 宰相は答えを待たなかった。待つ必要がないことを、この広間の全員が知っていた。



 査問会の閉廷が告げられた。


 人々が立ち上がり、椅子が引かれる音が重なる。傍聴席の貴族たちが壇から降りる宰相に一礼し、三々五々と出口に向かう。記録官が書類をまとめ、近衛兵が扉を開ける。


 その喧騒の中で。


 レオンハルトがわたくしの前に来た。壇を降り、証人席の前で立ち止まった。周囲の人々がまだ動いている。誰もこちらを注視していない。けれどこの広間にいる全員の耳に届く声で、レオンハルトは言った。


「立っていてくれるだけで、この国は守られている」


 立ってるだけ。


 同じ言葉だった。ヴィクトール様が夜会で笑いながら言った、あの言葉と同じ構造。


 けれど意味が、完全に裏返っていた。


 侮辱だった言葉が、この国で最も重い敬意に変わっている。あの夜会で笑い声とともに投げつけられた言葉が、査問会の広間で、騎士団総帥の声で、まったく違う温度を持って返ってきた。


 わたくしは何も言えなかった。


 ただ小さく頭を下げた。目の奥が熱かったが、泣かなかった。ここは王宮だ。そしてわたくしは、国家結界師だ。


 レオンハルトが踵を返し、出口へ向かった。その背中を見送りながら、わたくしは初めて思った。


 ここが、わたくしの場所だ。



 *



 屋敷には、誰もいなかった。


 馬車を降りたとき、門番がいないことに気づいた。玄関の扉は開いていた。閉める者がいないからだ。


 ギルベルトは王都に残った。「わたくしは領民に仕えます」と言って。領民の避難先で、王家の直轄移行の手続きを手伝うと。六十年間仕えた主の屋敷を離れて。


 アネリーゼは消えた。昨夜のうちに荷物をまとめて出て行ったらしい。化粧台の上にあった引継ぎ文書だけが、埃を被ったまま残されていた。


 使用人たちも、大半が暇を告げた。統治権が停止された家に仕え続ける理由がない。


 広い廊下を歩いた。靴音が反響する。以前は使用人の足音や、食器の触れ合う音や、マルタの――いや、あの侍女はリーゼロッテのものだ。俺の屋敷にいたのは別の使用人たちで、その足音はもう聞こえない。


 執務室の扉を開けた。机の上に、書類が散らばっている。招待状。社交の書状。もう返事を出す相手がいない手紙。


 椅子に座った。


 窓の外は暗い。夜だ。


 カーテンは開いていた。いつもは閉めてから眠るのに、今日は閉める気力がない。開いた窓の向こうに、夜空が広がっている。


 光が、ない。


 あの金色の膜がない。十年間、毎晩灯っていた光がない。あの光の下で俺は眠り、酒を飲み、社交を楽しみ、アネリーゼと笑い合っていた。あの光が何であるかを一度も考えず、誰が灯しているかを一度も問わず。


 立ってるだけだと思っていた。


 置物だと思っていた。


 たかが石だと。引継ぎ文書なんか読む必要はないと。結界がなくても困らないと。あいつがいなくても何も変わらないと。


 全部、俺が言った言葉だ。


 窓の外、遥か遠く、王都の方角にかすかな光が見えた。目を凝らす。淡い金色。あの光だ。見間違えるはずがない。十年間、毎晩見ていた――いや、見ていなかった光。見ようとしなかった光。


 あの光は今、王都を守っている。リーゼロッテが張った結界が、あの街を包んでいる。俺の領地ではなく、俺を必要としなかった場所で。


「守る人を……俺は……」


 声が掠れた。誰にも聞こえない。聞く者がいない。


 守る人を、間違えた。


 結界師を守るべきだった。結界を守るべきだった。あの光を守るべきだった。母の形見を「たかが石」と呼ぶべきではなかった。百二十六頁の手順書を読むべきだった。夜会で「置物」と呼ぶべきではなかった。


 分かっている。今なら全部分かる。


 全部、手遅れだ。


 机の上に額をつけた。冷たい木の感触。書類の端が頬に触れる。涙が出るかと思ったが、出なかった。泣く資格すらない気がした。


 暗い部屋で、暗い空の下で、かつて光を持っていた男が一人、崩れ落ちた。



 ◇



 王宮の廊下を歩きながら、わたくしは空を見上げた。


 午後の陽が傾き、窓から差し込む光が廊下の大理石を金色に染めている。核石が胸元で脈打つ。温かい。母の手の温度。そしてもう一つ、今日新しく知った温かさ。


 守る人を、間違えた。


 その言葉を最後に口にしたのは、わたくしではなく、彼だった。

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