第12話「光のある場所へ」
パンが焼ける匂いで目が覚めた。
窓の向こうに、大聖堂の鐘が六つ鳴っている。朝だ。カーテンの隙間から差し込む光が、白い壁を淡い金色に染めている。
ゆっくりと体を起こした。こめかみの痛みはない。目の下の隈も、もうない。鏡を見なくても分かる。毎朝、少しずつ顔が軽くなっていく。十年間、夜ごとに削られていたものが、少しずつ戻ってくる。
台所に降りると、マルタがパンを切っていた。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、マルタ」
「今朝のパンはよく膨らみましたよ。王都の粉は公爵領のものより上等ですね」
バターを塗ったパンを一切れ受け取った。温かい。香ばしい。マルタが淹れた紅茶は、わたくしの好みの、苦い銘柄。自分で選んだ味。
「お嬢様」
「何かしら」
「本当に、顔色がよくなりました」
マルタの目が潤んでいた。泣き笑い。この人のこの顔を、わたくしは何度見てきただろう。
「泣かないでちょうだい、マルタ。パンが塩辛くなるわ」
「泣いておりません。――少しだけ、嬉しいのです」
少しだけ。嘘だ。目が真っ赤だ。けれど追及しなかった。わたくしもパンを頬張りながら、少しだけ鼻の奥がつんとしていたから。
午前、結界の塔に上った。
王都の北区画の試験塔は、正式にわたくしの管理下に置かれた。国家結界師としての辞令は、査問会の翌日に届いた。王家の紋章入りの羊皮紙に、宰相の署名とレオンハルト様の推薦状の番号が記されている。それを書斎の壁に留めた。母の相続証明書の隣に。
塔の最上階で核石を取り出した。掌の中で、乳白色の石が淡く金色に光る。魔力を注ぐ。結界が広がる。三層構造の膜が王都の北区画を包み、屋根を越え、城壁に沿って伸びていく。
風が気持ちいい。公爵領の夜風とは違う。あの風には魔獣の気配と孤独が混じっていた。ここにはただ、石畳の匂いと、朝の市場から立ちのぼるパンと果物の香りがある。
結界が安定する。光の膜が凪ぐ。この光の下で、今日も王都の人々が歩き、笑い、働き、眠る。
わたくしはそのために立っている。今度は、自分で選んで。
昼過ぎ、塔の階段を上ってくる足音があった。
規則正しく、無駄のない靴音。革のブーツが石段を踏む硬い響き。聞き覚えがある。
レオンハルト様が、最上階に姿を現した。今日は軍服ではなく、濃紺の上着に白いシャツ。私服だった。右手に紙の包みを持っている。
「昼食は取ったか」
「まだです」
「そうだと思った」
紙の包みを手すりの上に置いた。開くと、パンとチーズと干し果物。騎士団の携行食だ。飾り気がない。この方らしいと思った。
「レオンハルト様が、わざわざ」
「部下に頼んだ。俺が作ったわけではない」
言い訳のような口調だった。けれど包みの中のパンは、市場で売っているものとは切り方が違う。均等に、食べやすい大きさに。部下に頼んだにしては丁寧だった。
二人で手すりにもたれ、黙ってパンを食べた。王都の屋根が午後の光を受けて赤く光っている。遠くに大聖堂の尖塔が見える。風が結界の膜を揺らし、光がかすかに波打った。
「聞きたいことがある」
レオンハルトが、パンの最後の一切れを飲み込んでから言った。
「はい」
「査問会が終わり、公的な関係は一段落した。あなたの立場は王家が保障している。俺の推薦書の役目も終わった」
風が止んだ。レオンハルトの灰色の目が、王都の景色からわたくしに移った。
「これからは、公務ではなく、私個人として言わせてほしい」
空気が変わった。この方の声が、いつもの簡潔な報告の調子ではない。言葉を選んでいる。不器用に、慎重に、一語ずつ確かめるように。
「あなたの結界の下で、この国は安心して眠れる」
レオンハルトが手すりを握った。指が白い。力が入っている。査問会の壇上で証言するときより、声が硬い。
「だが俺は……あなた自身が安心して眠れる場所を作りたい」
わたくしは黙って聞いていた。パンの欠片が指に残っている。それを払うことすら忘れていた。
「十年間、あなたは毎晩立ち続けた。誰にも気づかれず、誰にも労われず。俺はそれを三年前の報告書に書くことしかできなかった」
レオンハルトの目が、初めて揺れた。灰色の瞳の奥に、押さえつけていた何かが滲んでいる。
「……迷惑でなければ、その役を俺に任せてほしい」
声が途切れた。レオンハルトが口を閉じ、こちらを見ている。答えを待っている。この方はいつも簡潔なのに、今日は随分と長く話した。きっと、何度も頭の中で練習したのだろう。あの簡素な執務室で、誰もいない机に向かって。
可笑しかった。少しだけ。目の奥が熱いのに、口元が緩んでしまう。
「レオンハルト様」
「何だ」
「わたくしは長い間、"選ぶ"ということを忘れていました」
風が戻ってきた。結界の膜が揺れ、光が波打つ。核石が胸元で温かく脈打っている。母の手の温度。
「母の約束だから、と自分に言い聞かせて立ち続けました。選んだのではなく、そうするしかないと思い込んでいました」
レオンハルトの目を見た。灰色の、静かな目。三年前にわたくしの結界を見て、報告書に赤線を引いて、忘れなかった目。
「でも今は、選びたい人がいます」
レオンハルトが息を止めた。分かった。この方の呼吸が止まる瞬間を、初めて見た。
「その役、お任せしてもよろしいですか」
沈黙。長い沈黙。
レオンハルトの手が、手すりの上でわたくしの手のすぐ隣に置かれた。触れてはいない。指一本分の隙間。あの夜、夜露を拭いてくれたときと同じ距離。
「……任された」
短い答え。けれどたった一言の中に、この方の全部が詰まっていた。
わたくしは指を少しだけ動かした。レオンハルトの指に触れた。冷たい手すりの上で、指先だけが温かかった。
夜。
結界の塔の最上階で、二人で並んで立っていた。
核石を掲げた。魔力を注ぐ。光が広がる。三層の膜が王都を包み、夜空に淡い金色を載せていく。
十年間、一人で灯していた光。今は隣に人がいる。
「今夜も綺麗だ」
レオンハルトが呟いた。結界の光を見上げている。灰色の目が、金色を映して少しだけ温かい色になっている。
「この光を見てくれる人がいると、少し頑張れます」
「少しか」
「欲張りでしょうか」
「いや。俺は毎晩見る」
不器用な言葉だった。甘い台詞ではない。約束ですらない。ただ、毎晩見る、と。結界の光を。わたくしの仕事を。わたくしが立っていることを。
核石が掌の中で温かく脈打った。母の手の温度。そしてもう一つ、手すりの上の、指先の温度。
この石は、守りたいものがある人にしか応えない。
お母様。わたくしはようやく、守りたい場所を見つけました。自分で選んだ場所を。
結界の光が凪いだ。王都を包む金色の膜が、夜空に静かに広がっている。その光の下で、人々が眠りにつく。明日もここに光があると信じて。
遥か遠く。
エルヴェスト公爵領の夜空には、光がない。空っぽの屋敷の窓から、暗い空だけが見えている。
けれどわたくしが選んだこの空の下には、今夜も静かな光が広がっている。
守る人を、間違えなかった光が。




