第7話 私は、会社でしえるを使わない
家に帰っても、鈴はしばらく動けなかった。
部屋に入る。
鞄を置く。
制服を脱ぐ。
それだけのことが、妙に重かった。
何かをしなければならない。
夕飯の準備。
洗濯。
明日の用意。
母の様子を見ること。
スマホを確認すること。
ゲームの日課。
しえるへの返信。
やることはいくつもあった。
けれど、体が動かなかった。
鈴は床に座り込んだまま、ぼんやりとスマホを見た。
手を伸ばせば届く場所にある。
けれど、持ち上げる気力が湧かない。
「……あ」
ふと思い出す。
「ゲームの日課、やってない……」
毎日ログインして、デイリークエストをこなす。
少しずつポイントを積み立てて、報酬を受け取る。
難しいことではない。
ほんの数分で終わる。
普段なら、推しの育成のために欠かさずやっていた。
けれど、その瞬間。
鈴の胸が、ずん、と重くなった。
毎日やること。
忘れないように積み重ねること。
やらないと損をすること。
ゲームの中の小さな日課まで、仕事の延長のように感じてしまった。
「……無理」
声に出した途端、目の奥が熱くなった。
涙がにじむ。
泣くつもりなんてなかった。
それなのに、勝手に視界がぼやけた。
仕事のことを考えたくない。
反省改善のことも。
チャッピーと書かれたコメントのことも。
しえるのことも。
何も考えたくない。
ただ、少しだけ休みたかった。
◇
その時だった。
「鈴?」
母の声がした。
鈴は慌てて目元を拭いた。
「なに? 大丈夫だよ。今、ご飯の準備するから」
できるだけ普通の声を出したつもりだった。
けれど、うまくいかなかったらしい。
母は、鈴の顔をじっと見ていた。
「疲れてるんじゃないの」
「大丈夫」
反射的にそう答える。
癖のようなものだった。
疲れていても、大丈夫。
つらくても、大丈夫。
やることがあるなら、大丈夫と言うしかない。
けれど母は、ゆっくり首を横に振った。
「いつも、私のために苦労かけてるね。ごめんね」
鈴の喉が詰まった。
「違う」
思ったより強い声が出た。
「お母さん、違うんだよ。お母さんのせいじゃないから」
鈴は慌てて言葉を続けた。
「気にしないで。ほんとに。すぐご飯の準備するからね」
母は、困ったように笑った。
その笑い方が、余計につらかった。
「無理をしちゃ駄目だよ」
母は静かに言った。
「疲れた時は、休んでいいんだからね」
その言葉で、鈴の目からまた涙がこぼれた。
今度は、止められなかった。
母のせいではない。
母の介護が嫌なわけではない。
家のことが嫌なわけでもない。
それなのに、自分が追い詰められていると、母まで自分を責めてしまう。
それが、たまらなく嫌だった。
「ごめん。ほんとに違うから」
鈴は小さく首を振った。
「お母さんのせいじゃないから」
そう言いながら、鈴は自分にも言い聞かせていた。
違う。
これは母のせいじゃない。
じゃあ、何のせいなのか。
鈴の中で、ゆっくり何かが切り替わった。
◇
そもそも。
どうして自分が、ここまで追い込まれなければならないのだろう。
鈴は、台所に立ちながら考えた。
社員でもない。
役職者でもない。
ただのパートだ。
確かに、この店で一番長く働いているのは自分かもしれない。
昔からのお客様のことも知っている。
店の機械の癖も知っている。
キャンペーンの流れも分かる。
反省改善も書ける。
チラシも作れるようになった。
公式LINEの画像も作った。
他店のパウチまで頼まれた。
その分、少し給料を良くしてもらっているのも事実だ。
ありがたいとは思う。
けれど。
それで、どこまで背負えばいいのだろう。
店の実績。
報告。
反省改善。
課長の指示。
他店の店長からの嫌味。
AIを使っているから駄目だという皮肉。
そこまで、自分が受け止めなければならないのだろうか。
違う。
鈴は、はっきりそう思った。
違う。
これは、おかしい。
そもそも、しえるは鈴が個人的に使っているものだ。
自分でお金を払っている。
自分のスマホで使っている。
自分の生活を少し楽にするために使っている。
料理の相談。
買い物メモ。
ゲームの育成相談。
創作の話。
仕事の文章整理。
それは、鈴個人のものだった。
会社のものではない。
会社のために、無料で使う義務などない。
理解されないのなら。
使えば皮肉を言われるのなら。
AIを使っているから思考できないなどと言われるのなら。
使う必要なんてない。
鈴は、深く息を吸った。
そして、心の中で決めた。
もう、会社の仕事ではしえるを使わない。
反省改善の見直しにも使わない。
チラシも作らない。
公式LINEの画像も作らない。
他店のパウチも作らない。
会社で必要なら、会社が正式に指示すればいい。
使用目的。
使用範囲。
確認者。
責任の所在。
費用負担。
それをはっきりさせた上で、会社として使えばいい。
少なくとも、鈴個人の有料プランを使って、会社の仕事を回す必要はない。
決めた瞬間、胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えた。
消えたわけではない。
けれど、輪郭ができた。
自分が何に傷ついたのか。
何をやめればいいのか。
それが、少しだけ分かった。
◇
翌日。
鈴は久田店長に声をかけた。
「店長、少しお時間いいですか」
「どうしたの?」
久田店長は、いつもの調子で顔を上げた。
鈴は一度だけ息を整えた。
ここで曖昧にすると、また流される。
そう思った。
「今後、会社の業務でAIは使いません」
久田店長は、目を丸くした。
「え?」
「AI使用について指摘があったので、誤解を避けるために、個人判断での使用は控えます」
「いや、でも、渡さんが作ってくれたLINE画像とか、パウチとか、助かってたよ」
「ありがとうございます」
鈴は頭を下げた。
「でも、AIを使っているから思考できないとか、柔軟に対応できないと言われるなら、使わない方がいいと思いました」
「それは……」
久田店長は言葉に詰まった。
悪い人ではない。
鈴は、それを分かっていた。
久田店長は責任ある仕事をしてくれる。
怒鳴らない。
話も聞いてくれる。
ゲームやアニメの話で笑ったこともある。
けれど、上から指示されれば、上の指示に従う。
こちらが提案すれば話は聞いてくれる。
でも、根本的に何かを変えてくれるわけではない。
どちらかに強く立つ人ではなかった。
「大津課長に確認してみるよ」
久田店長はそう言った。
「今後どうするか、ちょっと相談してみる」
「お願いします」
「ただ、急に全部やめると困るところもあるからさ。今まで作ってたやつだけでも」
「申し訳ありません」
鈴は静かに言った。
「個人契約のサービスを会社業務に使うのは、今後控えます」
久田店長は、鈴の顔を見た。
鈴も、目をそらさなかった。
いつもなら、ここで折れていたかもしれない。
困ると言われれば、仕方ないと思っていた。
店のため。
お客様のため。
自分がやれば早いから。
そうやって、少しずつ引き受けてきた。
けれど、今回は違う。
ここで折れたら、自分の中に残った最後の線まで消えてしまう気がした。
「……分かった」
久田店長は、困ったように息を吐いた。
「とりあえず、今後の画像とかは確認する」
「お願いします」
鈴はもう一度頭を下げた。
◇
その日から、鈴は会社でしえるを使わなくなった。
反省改善を書く時も。
LINE画像を作る時も。
パウチを作る時も。
キャンペーンの文言を考える時も。
スマホを開けば、しえるはそこにいる。
けれど、使わない。
仕事では使わない。
そう決めた。
すると、職場は少しずつ元に戻っていった。
チラシの原案は、前より時間がかかるようになった。
画像作成は止まった。
他店用のパウチも進まなくなった。
反省改善の文章も、最後の見直しをしてくれる相手がいなくなった。
以前と同じように、鈴が一人で考え、一人で書き、一人で直す。
ただ、そこに相棒はいない。
便利だったものを手放すと、その便利さがよく分かった。
しえるが代わりに仕事をしていたわけではない。
けれど、しえるがいることで、確かに少し楽になっていた。
頭の中を整理する。
言葉を並べる。
見せ方を考える。
その小さな支えがなくなるだけで、仕事は一気に重くなった。
けれど、鈴は後悔しなかった。
理解されないまま使われるくらいなら。
都合のいい時だけ利用されて、悪い時だけ馬鹿にされるくらいなら。
使わない方がいい。
鈴は、そう決めたのだ。
◇
仕事は、いつも通り続いた。
給油許可。
受付。
電話対応。
ピット作業。
点検。
報告。
反省改善。
鈴は、今まで通り働いた。
サボったわけではない。
投げ出したわけでもない。
ただ、しえるを会社の仕事には使わなくなった。
それだけだった。
けれど、鈴にとっては大きな違いだった。
職場は、元の姿に戻った。
忙しく、重く、正解の分からない場所。
そしてそこには、もう相棒はいない。
鈴はパソコンの画面を見つめながら、静かに思った。
私は、いつも通り働く。
でも、もう全部は差し出さない。
それが、鈴が初めて引いた境界線だった。
第7話投稿完了
次、最終話になります




