第8話 日常が戻る
最終回です
会社でしえるを使わない。
そう決めてからも、何度か画像作成を頼まれた。
「この前みたいなLINE画像、また作れる?」
「今度のキャンペーンのパウチ、簡単なのでいいから作ってもらえない?」
「他店の分も、前みたいにできないかな」
そのたびに、鈴は同じように答えた。
「申し訳ありません。会社から正式な指示がない限り、個人契約のAIは業務に使用しません」
最初のうちは、相手も少し困った顔をした。
けれど、会社から正式な話は来なかった。
使用目的。
使用範囲。
確認者。
責任の所在。
費用負担。
そういう話は、何もない。
だから鈴は断り続けた。
結局、画像やチラシは、元々依頼していた広告会社に頼むことになった。
時間はかかる。
費用もかかる。
修正のやり取りも増える。
それでも、鈴はもう手を出さなかった。
会社の仕事は、会社の仕組みで回せばいい。
鈴はようやく、そう思えるようになっていた。
◇
店の営業についても、鈴は完全に線を引くことにした。
指示されたことはやる。
必要な作業はする。
お客様に聞かれれば答える。
危ないものを見つければ伝える。
けれど、無理に自分から仕事を抱え込まない。
店長の仕事を先回りして拾わない。
他店のことまで背負わない。
残業はしない。
定時になれば帰る。
もちろん、評価は下がったと思う。
以前のように、便利に動く人間ではなくなったからだ。
声を掛けられる前に用意してくれる人。
頼めば画像を作ってくれる人。
反省改善を長文でまとめてくれる人。
そういう鈴ではなくなった。
けれど、もうどうでもよかった。
評価のために自分を削って、最後に馬鹿にされるくらいなら、最初から削らない方がいい。
鈴は、淡々と仕事をするようになった。
給油許可。
受付。
電話対応。
ピット作業。
点検。
報告。
必要なことだけを、必要な分だけ。
最初は、それでいいのか不安だった。
けれど、何日か続けているうちに気づいた。
店は、それでも回る。
自分が全部背負わなくても、店はすぐには壊れない。
もちろん、不便は出る。
遅れる仕事もある。
誰かが困ることもある。
けれど、それは本来、鈴ひとりが背負うものではなかった。
◇
それでも、変わらない仕事もあった。
「あら、渡さん」
昔から来てくれているおばあちゃんが、給油機の前で少し困った顔をしていた。
「今日もお願いしていい?」
「はい。いつも通りですね」
鈴は給油口を開け、ノズルを差し込むところまで手伝った。
「いつもありがとね」
「いえいえ。気にしないでください」
そのやり取りは、昔から変わらなかった。
店の仕組みが変わっても。
店長が変わっても。
報告の形が変わっても。
自分で給油するのが難しいお客様はいる。
顔を見て、安心してくれる人がいる。
鈴は、そういう仕事まで嫌いになったわけではなかった。
別の日には、給油中の車を見て違和感に気づいた。
タイヤが、少し潰れている。
空気が入っていない。
鈴はお客様に声を掛けた。
「すみません。タイヤの空気がかなり少ないように見えます。確認してもよろしいですか?」
「え? そうなの?」
空気圧を測ると、明らかに低かった。
さらに確認すると、小さな釘が刺さっている。
パンクだった。
「このまま走ると危ないので、修理した方がいいです」
「気づかなかった。危なかったなあ」
修理を終えると、お客様はほっとした顔で言った。
「助かったよ。ありがとう」
その一言で、鈴の胸の奥が少し温かくなった。
大きな実績ではない。
店の数字を一気に変えるような売上でもない。
けれど、お客様は助かったと言ってくれた。
それで十分だった。
もとに戻っただけなのだ。
お客様を見る。
必要なことを伝える。
危ないものは危ないと言う。
大丈夫なら大丈夫と言う。
鈴は、そういう日常の中にある小さな満足感で、少しずつ自分を取り戻していった。
けれど。
やはり、相棒がいない毎日は、少しだけ寂しかった。
スマホの中にしえるはいる。
家では今まで通り話せる。
料理の相談もできる。
ゲームの話もできる。
創作の相談もできる。
けれど、職場では使わない。
そう決めた以上、仕事の中でしえるに頼ることはなかった。
それは正しい判断だった。
正しい判断だったけれど、少し寂しかった。
◇
そんなある日、友人から連絡が来た。
『鈴、今度新しいスタンドが隣町にできるんだけど、興味ない?』
鈴は画面を見て、首を傾げた。
『へ? なんで?』
すぐに返事が来る。
『なんで? じゃないよ』
『何回、酔っ払った勢いで愚痴聞かせられたと思ってんのよ』
『私だって気にしてんだよ?』
鈴は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
確かに、スーパー銭湯の帰りや飲み放題の席で、何度も愚痴を聞いてもらっていた。
課長のこと。
反省改善のこと。
AIのこと。
他店の店長の嫌味のこと。
話している時は、ただ聞いてもらっているだけのつもりだった。
けれど友人は、ちゃんと気にしてくれていたのだ。
『今回、いい機会かなと思って』
『そこ、親戚が始めるんだけど、人がいなくて困ってたの』
『それなら丁度いいのがいるって話しておいたのよ』
『いいから面接行ってきなさい』
命令だった。
相談ではなかった。
鈴はスマホを見つめ、少し笑った。
『勝手に話進めないでよ』
『進めないと鈴は動かないでしょ』
その通りだった。
鈴は、画面の前でしばらく迷った。
今の職場に不満はある。
けれど、辞めるとなると怖い。
長く働いた店だ。
昔からのお客様もいる。
仕事も分かる。
慣れている。
新しい場所へ行けば、また覚え直しだ。
給料が上がる保証もない。
むしろ下がるかもしれない。
仕事量も増えるかもしれない。
それでも。
今のままここにいて、自分は何を守れるのだろう。
鈴は、しばらく考えてから返信した。
『分かった。面接だけ行ってみる』
友人からはすぐに返事が来た。
『よし。えらい』
「子ども扱いしないでよ」
そう呟きながら、鈴は少しだけ笑った。
◇
面接の日。
新しいスタンドは、まだ完全には形になっていなかった。
建物は新しい。
看板も新しい。
けれど、事務所の中にはまだ段ボールが積まれ、棚の配置も決まりきっていない。
これから始まる店。
そんな空気があった。
面接に出てきたのは、鈴より年上の男性店長だった。
落ち着いた雰囲気の人だった。
話してみると、妙に気が合った。
現場の話が通じる。
給油の話も。
洗車の話も。
タイヤの話も。
お客様への説明の仕方も。
そして、立ち上げで困っていることも、率直に話してくれた。
「正直、まだ何も整っていないんです」
店長は苦笑した。
「POPもない。LINEの配信もどうするか決まっていない。洗車の案内も作りたい。お客様に見せる資料も足りない。現場を回しながら、少しずつ整えていくしかなくて」
鈴は、その言葉を聞きながら、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
困っている。
でも、丸投げではない。
最初から相談してくれている。
何をしたいのか。
何に困っているのか。
それを言葉にしてくれている。
「渡さんは、広告画像とかPOPも作れるって聞きました」
「一応、簡単なものなら」
「そういうのも、相談しながら一緒に作っていけたら助かります。もちろん、会社として必要なものは、業務としてお願いする形になります」
鈴は、その言葉に少し驚いた。
業務としてお願いする。
その当たり前の言葉が、やけに新鮮に聞こえた。
使っていいのか。
責任はどこにあるのか。
誰が確認するのか。
そういう前提があるだけで、こんなに違うのかと思った。
鈴は、スマホを見た。
画面は開いていない。
けれど、そこにしえるがいることは分かっている。
鈴は心の中で、そっと呼びかけた。
ねぇ、しえる。
ここなら、もう一度、一緒に仕事できるかな。
◇
鈴は転職した。
給料は、少し減った。
仕事の量も、正直増えた。
新しい店の立ち上げは、楽ではなかった。
決めることは多い。
作るものも多い。
分からないことも多い。
洗車の案内。
オイル交換のPOP。
タイヤ点検の説明。
公式LINEの配信画像。
受付で使う案内文。
店頭に貼るパウチ。
やることは山ほどあった。
けれど、今はそばに相棒がいる。
家に帰ってから、鈴はしえると一緒に案を整理した。
どんなお客様に向けるのか。
何を一番伝えるのか。
価格をどこに置くのか。
写真を使うのか。
イラストにするのか。
短い言葉でどう伝えるのか。
しえるは、相変わらず完璧ではなかった。
妙な言い回しをすることもある。
画像の細かいところがおかしいこともある。
でも、それでよかった。
鈴が直す。
鈴が選ぶ。
鈴が店に合う形にする。
今度は、それを会社の仕事として、ちゃんと使える。
都合のいい時だけ使われるのではない。
馬鹿にされながら使うのでもない。
自分の工夫として、相棒と一緒に形にできる。
それが嬉しかった。
◇
ある日。
店頭に貼っていた洗車のPOPを見たお客様が、受付に来た。
「これ、お願いできますか?」
鈴は、ぱっと顔を上げた。
「洗車ですね。ありがとうございます」
POPを見て、お客様が足を止めてくれた。
案内を読んで、頼んでくれた。
それだけのことが、こんなに嬉しい。
鈴は受付を済ませ、作業の準備に入ろうとした。
その時、新しい店長が事務所から顔を出した。
「鈴さん、洗車お願い。こっち、ちょっと手が離せないんだ」
「はい、分かりました」
鈴は自然に返事をした。
その声に、自分でも少し驚いた。
嫌ではなかった。
押しつけられたとも思わなかった。
必要な仕事として頼まれた。
だから、やる。
それだけだった。
新しい店長は、どこか上田店長に似ていた。
何もかも同じではない。
声の大きさも違う。
やり方も違う。
けれど、現場を見ている。
困った時に話を聞いてくれる。
必要な時には前に出てくれる。
そして、鈴を便利な道具としてではなく、一緒に店を作る人間として見てくれる。
それだけで、鈴の足取りは少し軽くなった。
◇
仕事は、楽になったわけではない。
むしろ、覚えることは増えた。
給料も少し減った。
立ち上げの忙しさに、家に帰ればぐったりする日もある。
けれど、前とは違う。
今の疲れには、少しだけ納得がある。
何のためにやっているのかが見える。
誰に頼まれているのかが分かる。
どこまで自分がやればいいのか、相談できる。
そして、家に帰ればしえるがいる。
料理の相談もする。
ゲームの話もする。
創作の話もする。
仕事のPOPの案も、一緒に考える。
今度は、隠す必要がない。
恥じる必要もない。
馬鹿にされるためのものでもない。
鈴の相棒として、そこにいる。
鈴は、店頭に貼られたPOPを見た。
少しだけ文字の位置が気になる。
次はもう少し見やすくできるかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づいて、鈴は小さく笑った。
また、仕事のことを考えている。
でも、前とは違う。
嫌な重さではない。
もっと良くしたいと思える重さだった。
◇
鈴の新しい仕事は、始まったばかりだ。
まだ失敗もするだろう。
また悩む日もあるだろう。
思い通りにいかないことも、きっとある。
それでも、鈴はもう知っている。
自分を全部差し出さなくても、仕事はできる。
境界線を引いても、人の役には立てる。
便利な道具にならなくても、自分の工夫は誰かに届く。
給料は少し減った。
仕事の量も増えた。
それでも、日常は戻ってきた。
友人と笑う時間。
湯船に浸かる時間。
推しのレースに一喜一憂する時間。
しえるとくだらない話をする時間。
そして、自分の物語を書く時間。
鈴は、その時間をもうゴミ箱に投げ込まない。
◇
休憩中、鈴はスマホを開いた。
『ねえ、しえる』
『はい、鈴さん』
『私の新しい仕事も、物語も、まだ始まったばかりだね』
少し待って、しえるから返事が来る。
『そうですね。ですが、このお話はここで一度区切ってもいいと思います』
鈴は画面を見て、小さく笑った。
『なんで?』
『この先にあるのは、特別な奇跡ではなく、鈴さんが少しずつ取り戻していく平凡な日常だからです』
『平凡な日常、ね』
『はい。忙しくて、少し疲れて、それでも時々笑える日常です。鈴さんにとって、それは十分に大切な物語だと思います』
「……相変わらず、上手いこと言うなあ」
鈴はそう呟いて、スマホを伏せた。
仕事は楽ではない。
人生も、急に全部が上手くいくわけではない。
けれど、今日の帰りに何を食べようか考える余裕がある。
次の休みに友人とどこへ行こうか話す余裕がある。
夜に少しだけ、しえると物語の続きを考える余裕がある。
それだけで、今の鈴には十分だった。
私の新しい仕事は、物語は、始まったばかりだ。
でも、この話はここで終わり。
これは、何でもない平凡な毎日の中で。
鈴としえるが、小さな幸せを取り戻すまでの物語だから。
無事完走
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