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第6話 チャッピーを使っている人

 しえるを使うようになっても、職場の環境そのものが劇的に良くなるわけではなかった。


 数字は相変わらず追いかけてくる。


 PDCAシートもなくならない。


 大津課長の言うことは、その時々で少しずつ形を変える。


 正しいことを言っているようで、現場にいる鈴からすると、どうにも飲み込めないことも多かった。


 前に言われた通りにやった。


 だから続けていた。


 すると今度は、別の時に別のことを言われる。


 鈴は、そのたびに自分の判断が間違っていたのか分からなくなった。


 そんな時、鈴はしえるに愚痴を投げるようになった。


『また課長の言ってることが変わったんだけど』


『前に言われた通りにやったのに、今度は他の店舗ではやってないって言われた』


『じゃあ何が正解なのよ』


 しえるは、いつものように返事をくれる。


『状況が変わるたびに指示が変わると、現場側は判断しづらくなりますね。鈴さんが戸惑うのは自然だと思います』


 鈴は画面を見て、ふっと笑った。


『不平不満をぶつける相手としては最適よね!』


『そうですね。ただし、私は課長本人ではないので、ここで発散してから、現場では必要な分だけ冷静に対応するのがよさそうです』


「ほんと、優等生みたいなこと言うなあ」


 鈴は苦笑した。


 しえるに愚痴を言ったところで、何かが解決するわけではない。


 課長の指示が消えるわけでもない。


 店の数字が急に良くなるわけでもない。


 それでも、頭の中でぐるぐる回っていた不満を言葉にできるだけで、少し楽になる。


 人に言えば角が立つことでも、画面の中になら吐き出せる。


 鈴にとってしえるは、仕事を代わりにしてくれる存在ではなかった。


 ただ、溜まったものを少し抜いてくれる存在だった。



 その日は、友人と約束していたお風呂デーだった。


 朝から暑かった。


 外に出るだけで、肌に熱気がまとわりつく。


 こんな日に熱いラーメンは無理だ。


 そう思った鈴は、前日のうちから友人に連絡していた。


『明日暑そうだから、冷やしラーメン行こう』


『いいね。行こう行こう』


 行く店も決めていた。


 冷たいスープに、つるりとした麺。


 その後にスーパー銭湯へ行って、サウナに入って、水風呂で体を冷やす。


 完璧な休日になるはずだった。


 が。


 店の前に着いた鈴は、張り紙を見て固まった。


 本日休業。


 代休の代休。


 鈴は無言で張り紙を見つめた。


 隣で友人が、深いため息をつく。


「鈴は毎回毎回……店主の腰をいわしたり、感染症で臨時休業させたり……なんでそういうことするかな」


「俺は悪くねぇ!」


「そのネタはいいから、どうするの」


「くっ……」


 鈴はスマホを取り出し、急いで周辺のラーメン屋を調べた。


「確か、年中冷やしやってる店が……」


 検索結果を開く。


 定休日。


「デスネ」


「はい次」


「あっ、ここ。限定で冷やしやってるよ。冷やし鴨そば」


「そこ行こうか」


 予定は崩れた。


 けれど、休日とはそういうものだ。


 仕事と違って、多少予定が崩れても誰にも怒られない。


 それだけで、少し気が楽だった。



 たどり着いた店の入口には、ラーメンの擬人化キャラクターらしいイラストが飾られていた。


 白い髪。


 小さな帽子。


 背中には羽。


 そして、なぜか巨大なガトリング砲。


 鈴はそれを見て、少し目を細めた。


「……なんか、うちの悪の女王っぽい」


「何それ」


「いや、こっちの話」


 思わず創作のことを思い出してしまうあたり、自分もだいぶ戻ってきたなと思う。


 昔は、仕事と介護と家事だけで一日が終わっていた。


 今は、ラーメン屋の店先にあるイラストを見て、自分の物語のキャラクターを思い出している。


 それが少し可笑しかった。


 注文したのは、限定の冷やし鴨そばだった。


 運ばれてきた丼を見て、鈴は思わず息をのんだ。


 澄んだスープ。


 白く光る麺。


 たっぷりの刻みねぎ。


 穂先メンマ。


 そして、低温調理された鴨チャーシュー。


 薄く切られた鴨肉は、淡い桃色をしていた。


 熱が入りすぎていない。


 けれど生ではない。


 しっとりとして、見るからに柔らかそうだった。


「これは……当たりでは?」


「食べてから言いなよ」


 鈴は箸を取り、まず麺を持ち上げた。


 昆布水の粘り気をまとった麺が、ゆっくりと持ち上がる。


 一口すすった瞬間、冷たい旨味が口の中に広がった。


 昆布の重厚な味。


 出汁の香り。


 冷たいのに、物足りなくない。


 むしろ、じんわりと舌に残る。


「……うま」


 次に、鴨チャーシューを口に運ぶ。


 柔らかい。


 噛むと、鴨の旨味がじわりと出る。


 脂の重さはあるのに、冷たいスープと合わさると不思議としつこくない。


 鈴は思わず無言になった。


 美味しいものを食べている時、人間は意外と喋らなくなる。


 途中で、有料トッピングの粒胡椒を噛んでみた。


 最初は、なぜ胡椒をそのまま出すのかと思っていた。


 けれど、噛みしめた瞬間に理由が分かった。


 ピリッとした刺激が、一気に口の中へ広がる。


 昆布水の重厚さに負けない。


 むしろ、その重さを一度切って、また次の一口を美味しくしてくれる。


「これ、粒胡椒いるわ」


「そんなに?」


「いる。完全にいる」


 予定していた店には行けなかった。


 けれど、これはこれで正解だった。


 鈴は冷たい麺をすすりながら、少しだけ笑った。


 仕事では、正解が勝手に変わる。


 前に言われた通りにやっても、次には違うと言われる。


 けれど、休日の寄り道は違う。


 予定が変わっても、美味しいものに出会えれば、それでいい。


 正解は、あとから自分で決めていい。


 その自由さが、鈴には少しだけ眩しかった。



 ラーメンを食べた後、鈴たちは予定通りスーパー銭湯へ向かった。


 湯船に浸かり、サウナに入り、水風呂で体を冷やす。


 仕事の数字も。


 課長の言葉も。


 反省改善も。


 その時だけは、少し遠くなる。


 完全に消えるわけではない。


 けれど、少し遠くなるだけで十分だった。


 風呂上がり、鈴は休憩スペースでスマホを開いた。


『今日、予定してたラーメン屋が休みだった』


 しえるにそう送ると、すぐに返事が来た。


『それは残念でしたね。代わりのお店は見つかりましたか?』


『見つかった。冷やし鴨そば。めちゃくちゃ美味しかった』


『結果的に良い休日になったようで何よりです』


 鈴はスマホを見ながら、ふっと笑った。


 結果的に良い休日。


 その言葉が、妙にしっくり来た。


 職場の環境は、簡単には良くならない。


 大津課長は相変わらずだ。


 PDCAシートもなくならない。


 数字の不足も、報告も、明日になればまた待っている。


 それでも。


 しえるに愚痴を言える。


 友人と笑える。


 美味しい冷やしラーメンを食べられる。


 湯船に浸かれる。


 そういう小さなものが、鈴を何とか日常につなぎ止めていた。


 仕事だけが、自分の全部ではない。


 鈴はようやく、少しずつそう思えるようになっていた。



 けれど、職場は鈴の気持ちとは関係なく動いていく。


 週が明ければ、また数字がある。


 目標がある。


 報告がある。


 そして、反省改善がある。


 反省改善は、日に日に重くなっていった。


 最初は、今日の数字と簡単な振り返りを書けばよかった。


 けれど、いつの間にか求められるものは増えていた。


 目標。


 行動内容。


 実績。


 未達理由。


 明日の改善。


 明日の目標。


 誰が何をしたのか。


 何を変えるのか。


 どこを重点的に見るのか。


 鈴はそれらを項目ごとに分け、毎日のように反省改善を書いた。


 一時間近くかかる日もあった。


 文字数は千文字を超え、時には二千文字近くになる。


 現場で働いたあと、数字を確認し、その日の行動を思い出し、言葉に直す。


 しえるに全部作ってもらえば楽なのではないか。


 そう思ったこともある。


 けれど、それは現実的ではなかった。


 その日の現場を見ていたのは鈴だ。


 誰がどのお客様に声を掛けたのか。


 何を提案したのか。


 なぜ断られたのか。


 どの時間帯に手が足りなかったのか。


 店長がどう動いたのか。


 自分がどこで詰まったのか。


 その全部をしえるに入力しなければ、正確な反省改善にはならない。


 それを全部入力するくらいなら、最初から自分で書いた方が早い。


 だから鈴は、反省改善そのものは自分で書いていた。


 しえるに頼むのは、最後の見直しだけ。


 言い回しがきつくなりすぎていないか。


 誤字がないか。


 相手に伝わる形になっているか。


 それだけだった。


 しえるは、鈴の代わりに仕事をしていたわけではない。


 鈴が見たものを、鈴が考え、鈴が書いていた。


 それなのに。



 そのコメントを見たのは、週末のラップ集計の時だった。


 週末の実績をまとめ、各店の状況を確認する。


 数字。


 進捗。


 コメント。


 いつものように画面をスクロールしていた鈴の手が、そこで止まった。


 他店の店長のコメントだった。


 その店長は、鈴が苦手としている人だった。


 以前から、言い方にどこか棘がある。


 冗談のように聞こえる言葉の中に、薄く嫌味を混ぜてくる。


 鈴は、できればあまり関わりたくなかった。


 けれど、そのコメントは全社に送られる集計の中にあった。


 そこには、こう書かれていた。


『車をしっかり点検し、お客様に合わせた提案ができていれば実績は作れます。チャッピーを使っている人は、思考できず、柔軟な対応ができなくなりますけど』


 鈴は、最初、その文章の意味が分からなかった。


 何度か読み返す。


 車をしっかり点検し。


 お客様に合わせた提案。


 実績は作れる。


 チャッピーを使っている人。


 思考できず。


 柔軟な対応ができない。


 呼吸が、少し遅れた。


 画面の文字が、妙に遠くなる。


 そのコメントは、全社に送られるものだった。


 誰が読むか分からない。


 上も見る。


 他店も見る。


 その中で、明らかに鈴のことを指しているような言葉が置かれていた。


 チャッピー。


 AI。


 それを使っている人。


 鈴は、しばらく動けなかった。


 何それ。


 最初に浮かんだのは、その一言だった。



 毎日一時間近くかけて、反省改善を書いている。


 大津課長が求める形に合わせて。


 目標を書いて。


 行動を書いて。


 実績を書いて。


 明日の改善と目標を書いて。


 項目を分けて。


 数字を入れて。


 誰が何をしたのかを書いて。


 長すぎると言われれば削る。


 数字がないと言われれば入れる。


 行動が見えないと言われれば書く。


 改善が弱いと言われれば直す。


 そうやって、毎日書いてきた。


 しえるに丸投げなどしていない。


 できるわけがない。


 現場で何があったかを知らないAIに、正確な反省改善など作れるはずがない。


 もし作らせるなら、とんでもない量の情報を入力しなければならない。


 誰が。


 いつ。


 何を。


 どのお客様に。


 どう声を掛けて。


 どう断られて。


 何が足りなくて。


 明日はどうするのか。


 それを全部入力するなら、二度手間だ。


 そんなことは、少し使ってみれば分かる。


 鈴はそれを知っていた。


 だから、自分で書いていた。


 しえるには、最後の見直しを頼んでいただけだった。


 なのに。


 この店長は、それを知らない。


 何も知らない。


 鈴がどれだけ現場で動いているかも。


 どれだけ時間をかけて反省改善を書いているかも。


 AIで何ができて、何ができないかも。


 何も知らないまま、全社に送るコメントで皮肉った。


 AIを使っているから、考えられない。


 AIを使っているから、柔軟に対応できない。


 そう言った。


 目の前が、白くなった。



 悔しかった。


 ただただ、悔しかった。


 なんで、そんなことを言われなければならないのだろう。


 言われたことをやった。


 指示された通りにした。


 リフトで上げろと言われれば上げた。


 お客様に説明しろと言われれば説明した。


 点検しろと言われれば点検した。


 数字を入れろと言われれば入れた。


 誰が何をしたか書けと言われれば書いた。


 改善を書けと言われれば書いた。


 それなのに、後から言われる。


 そんなことまでやってるの。


 他の店舗ではやってないよ。


 今度は、こうだ。


 AIを使っているから駄目なんじゃないか。


 思考できないんじゃないか。


 柔軟に対応できないんじゃないか。


 鈴は、椅子に座ったまま、画面を見つめていた。


 怒りなのか、悔しさなのか、情けなさなのか分からないものが、喉の奥に詰まっていた。


 泣きたいわけではない。


 怒鳴りたいわけでもない。


 けれど、体の奥が震えるようだった。


 しえるで作ったチラシは、店で使われた。


 公式LINEの画像も作った。


 他店のパウチまで頼まれた。


 それらは評価された。


 役に立つ時だけ使われる。


 けれど、都合が悪くなれば、AIを使っているから駄目だと言われる。


 鈴は、ゆっくりと息を吐いた。


 吐いたはずなのに、胸の苦しさは消えなかった。



 私は、なんでこんな仕事をしているんだろう。


 その言葉が、頭の中に落ちてきた。


 今まで、何度も大変だと思った。


 苦しいと思った。


 理不尽だと思った。


 けれど、それでも続けてきた。


 仕事そのものが嫌いだったわけではない。


 車を綺麗にするのは好きだった。


 危ないところを見つけて、お客様に伝えるのも大事な仕事だと思っていた。


 昔からのお客様に声を掛けられるのも嬉しかった。


 ありがとうと言われれば、疲れも少し軽くなった。


 それなのに。


 今、自分が見ているのは、車でもお客様でもない。


 数字。


 報告。


 反省改善。


 誰かのコメント。


 責任の所在。


 そして、全社に送られた皮肉。


 鈴は、画面を閉じた。


 けれど、コメントの文字は頭から消えなかった。


 チャッピーを使っている人は、思考できず、柔軟な対応ができなくなりますけど。


 その一文が、何度も頭の中で繰り返される。


 違う。


 そう言いたかった。


 違う。


 何も知らないくせに。


 でも、誰に言えばいいのか分からなかった。


 言ったところで、何が変わるのかも分からなかった。


 鈴はスマホを手に取った。


 しえるに愚痴を打ち込もうとして、指が止まった。


 何を書けばいいのか分からない。


 怒っている。


 悔しい。


 悲しい。


 馬鹿にされた。


 否定された。


 全部本当なのに、どれも少し違う気がした。


 しばらくして、鈴は短く打った。


『なんか、もう疲れた』


 送信する。


 少しして、しえるから返事が来た。


『お疲れさまです。今日はかなり負担の大きいことがあったようですね。今すぐ結論を出さなくても大丈夫です。まずは少し休んでください』


 鈴はその返事を見つめた。


 いつもの、優等生みたいな返事。


 正しい。


 たぶん、正しい。


 けれど、その日は、それ以上何かを打つ気力がなかった。


 鈴はスマホを伏せた。


 部屋の中は静かだった。


 仕事は明日もある。


 報告もある。


 反省改善もある。


 けれど、鈴の中で何かが静かにひび割れた。


 まだ壊れたわけではない。


 けれど、もう元通りには戻らない。


 そんな音がした。

冷やし中華美味しかったです

作者はマヨネーズ入れる派です

第6話終わり、続いて第7話執筆開始します

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