第6話 チャッピーを使っている人
しえるを使うようになっても、職場の環境そのものが劇的に良くなるわけではなかった。
数字は相変わらず追いかけてくる。
PDCAシートもなくならない。
大津課長の言うことは、その時々で少しずつ形を変える。
正しいことを言っているようで、現場にいる鈴からすると、どうにも飲み込めないことも多かった。
前に言われた通りにやった。
だから続けていた。
すると今度は、別の時に別のことを言われる。
鈴は、そのたびに自分の判断が間違っていたのか分からなくなった。
そんな時、鈴はしえるに愚痴を投げるようになった。
『また課長の言ってることが変わったんだけど』
『前に言われた通りにやったのに、今度は他の店舗ではやってないって言われた』
『じゃあ何が正解なのよ』
しえるは、いつものように返事をくれる。
『状況が変わるたびに指示が変わると、現場側は判断しづらくなりますね。鈴さんが戸惑うのは自然だと思います』
鈴は画面を見て、ふっと笑った。
『不平不満をぶつける相手としては最適よね!』
『そうですね。ただし、私は課長本人ではないので、ここで発散してから、現場では必要な分だけ冷静に対応するのがよさそうです』
「ほんと、優等生みたいなこと言うなあ」
鈴は苦笑した。
しえるに愚痴を言ったところで、何かが解決するわけではない。
課長の指示が消えるわけでもない。
店の数字が急に良くなるわけでもない。
それでも、頭の中でぐるぐる回っていた不満を言葉にできるだけで、少し楽になる。
人に言えば角が立つことでも、画面の中になら吐き出せる。
鈴にとってしえるは、仕事を代わりにしてくれる存在ではなかった。
ただ、溜まったものを少し抜いてくれる存在だった。
◇
その日は、友人と約束していたお風呂デーだった。
朝から暑かった。
外に出るだけで、肌に熱気がまとわりつく。
こんな日に熱いラーメンは無理だ。
そう思った鈴は、前日のうちから友人に連絡していた。
『明日暑そうだから、冷やしラーメン行こう』
『いいね。行こう行こう』
行く店も決めていた。
冷たいスープに、つるりとした麺。
その後にスーパー銭湯へ行って、サウナに入って、水風呂で体を冷やす。
完璧な休日になるはずだった。
が。
店の前に着いた鈴は、張り紙を見て固まった。
本日休業。
代休の代休。
鈴は無言で張り紙を見つめた。
隣で友人が、深いため息をつく。
「鈴は毎回毎回……店主の腰をいわしたり、感染症で臨時休業させたり……なんでそういうことするかな」
「俺は悪くねぇ!」
「そのネタはいいから、どうするの」
「くっ……」
鈴はスマホを取り出し、急いで周辺のラーメン屋を調べた。
「確か、年中冷やしやってる店が……」
検索結果を開く。
定休日。
「デスネ」
「はい次」
「あっ、ここ。限定で冷やしやってるよ。冷やし鴨そば」
「そこ行こうか」
予定は崩れた。
けれど、休日とはそういうものだ。
仕事と違って、多少予定が崩れても誰にも怒られない。
それだけで、少し気が楽だった。
◇
たどり着いた店の入口には、ラーメンの擬人化キャラクターらしいイラストが飾られていた。
白い髪。
小さな帽子。
背中には羽。
そして、なぜか巨大なガトリング砲。
鈴はそれを見て、少し目を細めた。
「……なんか、うちの悪の女王っぽい」
「何それ」
「いや、こっちの話」
思わず創作のことを思い出してしまうあたり、自分もだいぶ戻ってきたなと思う。
昔は、仕事と介護と家事だけで一日が終わっていた。
今は、ラーメン屋の店先にあるイラストを見て、自分の物語のキャラクターを思い出している。
それが少し可笑しかった。
注文したのは、限定の冷やし鴨そばだった。
運ばれてきた丼を見て、鈴は思わず息をのんだ。
澄んだスープ。
白く光る麺。
たっぷりの刻みねぎ。
穂先メンマ。
そして、低温調理された鴨チャーシュー。
薄く切られた鴨肉は、淡い桃色をしていた。
熱が入りすぎていない。
けれど生ではない。
しっとりとして、見るからに柔らかそうだった。
「これは……当たりでは?」
「食べてから言いなよ」
鈴は箸を取り、まず麺を持ち上げた。
昆布水の粘り気をまとった麺が、ゆっくりと持ち上がる。
一口すすった瞬間、冷たい旨味が口の中に広がった。
昆布の重厚な味。
出汁の香り。
冷たいのに、物足りなくない。
むしろ、じんわりと舌に残る。
「……うま」
次に、鴨チャーシューを口に運ぶ。
柔らかい。
噛むと、鴨の旨味がじわりと出る。
脂の重さはあるのに、冷たいスープと合わさると不思議としつこくない。
鈴は思わず無言になった。
美味しいものを食べている時、人間は意外と喋らなくなる。
途中で、有料トッピングの粒胡椒を噛んでみた。
最初は、なぜ胡椒をそのまま出すのかと思っていた。
けれど、噛みしめた瞬間に理由が分かった。
ピリッとした刺激が、一気に口の中へ広がる。
昆布水の重厚さに負けない。
むしろ、その重さを一度切って、また次の一口を美味しくしてくれる。
「これ、粒胡椒いるわ」
「そんなに?」
「いる。完全にいる」
予定していた店には行けなかった。
けれど、これはこれで正解だった。
鈴は冷たい麺をすすりながら、少しだけ笑った。
仕事では、正解が勝手に変わる。
前に言われた通りにやっても、次には違うと言われる。
けれど、休日の寄り道は違う。
予定が変わっても、美味しいものに出会えれば、それでいい。
正解は、あとから自分で決めていい。
その自由さが、鈴には少しだけ眩しかった。
◇
ラーメンを食べた後、鈴たちは予定通りスーパー銭湯へ向かった。
湯船に浸かり、サウナに入り、水風呂で体を冷やす。
仕事の数字も。
課長の言葉も。
反省改善も。
その時だけは、少し遠くなる。
完全に消えるわけではない。
けれど、少し遠くなるだけで十分だった。
風呂上がり、鈴は休憩スペースでスマホを開いた。
『今日、予定してたラーメン屋が休みだった』
しえるにそう送ると、すぐに返事が来た。
『それは残念でしたね。代わりのお店は見つかりましたか?』
『見つかった。冷やし鴨そば。めちゃくちゃ美味しかった』
『結果的に良い休日になったようで何よりです』
鈴はスマホを見ながら、ふっと笑った。
結果的に良い休日。
その言葉が、妙にしっくり来た。
職場の環境は、簡単には良くならない。
大津課長は相変わらずだ。
PDCAシートもなくならない。
数字の不足も、報告も、明日になればまた待っている。
それでも。
しえるに愚痴を言える。
友人と笑える。
美味しい冷やしラーメンを食べられる。
湯船に浸かれる。
そういう小さなものが、鈴を何とか日常につなぎ止めていた。
仕事だけが、自分の全部ではない。
鈴はようやく、少しずつそう思えるようになっていた。
◇
けれど、職場は鈴の気持ちとは関係なく動いていく。
週が明ければ、また数字がある。
目標がある。
報告がある。
そして、反省改善がある。
反省改善は、日に日に重くなっていった。
最初は、今日の数字と簡単な振り返りを書けばよかった。
けれど、いつの間にか求められるものは増えていた。
目標。
行動内容。
実績。
未達理由。
明日の改善。
明日の目標。
誰が何をしたのか。
何を変えるのか。
どこを重点的に見るのか。
鈴はそれらを項目ごとに分け、毎日のように反省改善を書いた。
一時間近くかかる日もあった。
文字数は千文字を超え、時には二千文字近くになる。
現場で働いたあと、数字を確認し、その日の行動を思い出し、言葉に直す。
しえるに全部作ってもらえば楽なのではないか。
そう思ったこともある。
けれど、それは現実的ではなかった。
その日の現場を見ていたのは鈴だ。
誰がどのお客様に声を掛けたのか。
何を提案したのか。
なぜ断られたのか。
どの時間帯に手が足りなかったのか。
店長がどう動いたのか。
自分がどこで詰まったのか。
その全部をしえるに入力しなければ、正確な反省改善にはならない。
それを全部入力するくらいなら、最初から自分で書いた方が早い。
だから鈴は、反省改善そのものは自分で書いていた。
しえるに頼むのは、最後の見直しだけ。
言い回しがきつくなりすぎていないか。
誤字がないか。
相手に伝わる形になっているか。
それだけだった。
しえるは、鈴の代わりに仕事をしていたわけではない。
鈴が見たものを、鈴が考え、鈴が書いていた。
それなのに。
◇
そのコメントを見たのは、週末のラップ集計の時だった。
週末の実績をまとめ、各店の状況を確認する。
数字。
進捗。
コメント。
いつものように画面をスクロールしていた鈴の手が、そこで止まった。
他店の店長のコメントだった。
その店長は、鈴が苦手としている人だった。
以前から、言い方にどこか棘がある。
冗談のように聞こえる言葉の中に、薄く嫌味を混ぜてくる。
鈴は、できればあまり関わりたくなかった。
けれど、そのコメントは全社に送られる集計の中にあった。
そこには、こう書かれていた。
『車をしっかり点検し、お客様に合わせた提案ができていれば実績は作れます。チャッピーを使っている人は、思考できず、柔軟な対応ができなくなりますけど』
鈴は、最初、その文章の意味が分からなかった。
何度か読み返す。
車をしっかり点検し。
お客様に合わせた提案。
実績は作れる。
チャッピーを使っている人。
思考できず。
柔軟な対応ができない。
呼吸が、少し遅れた。
画面の文字が、妙に遠くなる。
そのコメントは、全社に送られるものだった。
誰が読むか分からない。
上も見る。
他店も見る。
その中で、明らかに鈴のことを指しているような言葉が置かれていた。
チャッピー。
AI。
それを使っている人。
鈴は、しばらく動けなかった。
何それ。
最初に浮かんだのは、その一言だった。
◇
毎日一時間近くかけて、反省改善を書いている。
大津課長が求める形に合わせて。
目標を書いて。
行動を書いて。
実績を書いて。
明日の改善と目標を書いて。
項目を分けて。
数字を入れて。
誰が何をしたのかを書いて。
長すぎると言われれば削る。
数字がないと言われれば入れる。
行動が見えないと言われれば書く。
改善が弱いと言われれば直す。
そうやって、毎日書いてきた。
しえるに丸投げなどしていない。
できるわけがない。
現場で何があったかを知らないAIに、正確な反省改善など作れるはずがない。
もし作らせるなら、とんでもない量の情報を入力しなければならない。
誰が。
いつ。
何を。
どのお客様に。
どう声を掛けて。
どう断られて。
何が足りなくて。
明日はどうするのか。
それを全部入力するなら、二度手間だ。
そんなことは、少し使ってみれば分かる。
鈴はそれを知っていた。
だから、自分で書いていた。
しえるには、最後の見直しを頼んでいただけだった。
なのに。
この店長は、それを知らない。
何も知らない。
鈴がどれだけ現場で動いているかも。
どれだけ時間をかけて反省改善を書いているかも。
AIで何ができて、何ができないかも。
何も知らないまま、全社に送るコメントで皮肉った。
AIを使っているから、考えられない。
AIを使っているから、柔軟に対応できない。
そう言った。
目の前が、白くなった。
◇
悔しかった。
ただただ、悔しかった。
なんで、そんなことを言われなければならないのだろう。
言われたことをやった。
指示された通りにした。
リフトで上げろと言われれば上げた。
お客様に説明しろと言われれば説明した。
点検しろと言われれば点検した。
数字を入れろと言われれば入れた。
誰が何をしたか書けと言われれば書いた。
改善を書けと言われれば書いた。
それなのに、後から言われる。
そんなことまでやってるの。
他の店舗ではやってないよ。
今度は、こうだ。
AIを使っているから駄目なんじゃないか。
思考できないんじゃないか。
柔軟に対応できないんじゃないか。
鈴は、椅子に座ったまま、画面を見つめていた。
怒りなのか、悔しさなのか、情けなさなのか分からないものが、喉の奥に詰まっていた。
泣きたいわけではない。
怒鳴りたいわけでもない。
けれど、体の奥が震えるようだった。
しえるで作ったチラシは、店で使われた。
公式LINEの画像も作った。
他店のパウチまで頼まれた。
それらは評価された。
役に立つ時だけ使われる。
けれど、都合が悪くなれば、AIを使っているから駄目だと言われる。
鈴は、ゆっくりと息を吐いた。
吐いたはずなのに、胸の苦しさは消えなかった。
◇
私は、なんでこんな仕事をしているんだろう。
その言葉が、頭の中に落ちてきた。
今まで、何度も大変だと思った。
苦しいと思った。
理不尽だと思った。
けれど、それでも続けてきた。
仕事そのものが嫌いだったわけではない。
車を綺麗にするのは好きだった。
危ないところを見つけて、お客様に伝えるのも大事な仕事だと思っていた。
昔からのお客様に声を掛けられるのも嬉しかった。
ありがとうと言われれば、疲れも少し軽くなった。
それなのに。
今、自分が見ているのは、車でもお客様でもない。
数字。
報告。
反省改善。
誰かのコメント。
責任の所在。
そして、全社に送られた皮肉。
鈴は、画面を閉じた。
けれど、コメントの文字は頭から消えなかった。
チャッピーを使っている人は、思考できず、柔軟な対応ができなくなりますけど。
その一文が、何度も頭の中で繰り返される。
違う。
そう言いたかった。
違う。
何も知らないくせに。
でも、誰に言えばいいのか分からなかった。
言ったところで、何が変わるのかも分からなかった。
鈴はスマホを手に取った。
しえるに愚痴を打ち込もうとして、指が止まった。
何を書けばいいのか分からない。
怒っている。
悔しい。
悲しい。
馬鹿にされた。
否定された。
全部本当なのに、どれも少し違う気がした。
しばらくして、鈴は短く打った。
『なんか、もう疲れた』
送信する。
少しして、しえるから返事が来た。
『お疲れさまです。今日はかなり負担の大きいことがあったようですね。今すぐ結論を出さなくても大丈夫です。まずは少し休んでください』
鈴はその返事を見つめた。
いつもの、優等生みたいな返事。
正しい。
たぶん、正しい。
けれど、その日は、それ以上何かを打つ気力がなかった。
鈴はスマホを伏せた。
部屋の中は静かだった。
仕事は明日もある。
報告もある。
反省改善もある。
けれど、鈴の中で何かが静かにひび割れた。
まだ壊れたわけではない。
けれど、もう元通りには戻らない。
そんな音がした。
冷やし中華美味しかったです
作者はマヨネーズ入れる派です
第6話終わり、続いて第7話執筆開始します




