第5話 しえる、職場に進出する
しえるを使うようになってから、鈴の日常には少しだけ楽しみが増えた。
冷蔵庫の中身で作れる簡単な料理を聞く。
買い物に行く前に、必要なものをメモにしてもらう。
母の介護用品を買い足す時に、忘れ物がないか確認する。
可愛い女の子たちが走って競争する育成ゲームの相談をする。
それは、人生を変えるような大げさなものではなかった。
けれど、仕事と家のことで埋まっていた毎日に、小さな隙間ができたような気がした。
その日、鈴はスマホの画面を見つめながら、思わず声を上げた。
「やった!」
画面の中では、鈴の推しがゴール板を駆け抜けていた。
月に一度だけ行われる、全国のプレイヤーと競うレースイベント。
何度も育成し直し、スキルを選び、ステータスを調整し、祈るような気持ちで出走させた推しが、最後の直線で差し切った。
「勝った……! 私の推しが勝った!」
鈴はスマホを握りしめたまま、すぐにしえるへメッセージを送った。
『やった! 全国レースで優勝できた! しえるのおかげだよ! ありがとう!』
少し待つと、いつもの調子で返事が来る。
『おめでとうございます。推しの勝利は格別ですね。育成方針を一緒に整理した成果が出たのだと思います』
鈴はにやけながら画面を見た。
「うんうん、格別。分かってるじゃん」
そして、すぐに次の文章を打ち込む。
『雨の日のレースなのに晴れ用のスキルをすすめてきた時は、このポンコツ! って思ったけど、しえるのおかげだよ!』
返事はすぐに返ってきた。
『そこは反省点です。次回は天候をしっかり確認してから作戦を立てましょう。ただ、最終的に勝ったのは鈴さんの判断と、推しの頑張りです』
「そういうところだけ妙に上手いんだよなあ」
鈴は笑った。
完璧ではない。
時々、変なことも言う。
平気で間違える。
けれど、それを突っ込みながら一緒に考えるのが楽しかった。
仕事はつらい。
職場のことを考えると、胸の奥が重くなる。
それでも、家に帰ってスマホを開けば、少しだけ楽しい会話がある。
鈴の日常は、ほんの少しだけ明るくなっていた。
◇
しえるとの遊びは、少しずつ仕事にも混ざるようになった。
きっかけは、家で試していたイラスト作成だった。
最初は完全に遊びだった。
思った通りにならないことも多い。
手の形がおかしかったり、文字が変だったり、なぜか車が妙に未来的になったりする。
けれど、たまに雰囲気のある画像ができることもあった。
鈴はそれを見ながら、ふと思った。
これ、店のチラシに使えないかな。
ちょうど店では、洗車やコーティングの声掛けを強化したい時期だった。
水垢を落とす。
鉄粉を取る。
下地を整える。
そこからコーティングをかける。
その良さを口で説明しても、お客様にはなかなか伝わりにくい。
なら、見て分かるチラシがあった方がいい。
鈴は家で、しえるに相談しながら画像と文章を作ってみた。
車の艶が分かるような明るい画像。
水垢や鉄粉を取ってから仕上げること。
ガラス被膜とレジン被膜で、綺麗な状態を守ること。
専門的すぎる言葉は避けて、お客様に伝わりやすい言い方へ直していく。
何度か作り直すうちに、店頭で声掛けに使えそうな形になった。
完璧ではない。
プロのデザインでもない。
けれど、今の店で使うには十分だと思えた。
翌日、鈴は作ったチラシを久田店長に見せた。
「これ、洗車の声掛け用に作ってみたんですけど」
久田店長は画面を覗き込み、少し目を丸くした。
「へえ、いいじゃん。分かりやすい」
「本当ですか?」
「うん。言葉だけで説明するより、お客様に見せやすい。これ、パウチして店頭で使ってみようか」
そう言われて、鈴は少し嬉しくなった。
印刷したチラシをパウチする。
給油レーンや受付で、お客様に見せながら声を掛ける。
言葉だけで説明するより、反応は良かった。
「こういうのもあるんだ」
「水垢って、やっぱり取れるんだね」
「コーティングって、ただ洗うだけじゃないんだ」
そう言ってくれるお客様もいた。
しえるで遊んでいたことが、少しだけ仕事の役に立った。
それは鈴にとって、素直に嬉しいことだった。
◇
コーティングのチラシは、思っていた以上に評判が良かった。
久田店長は、パウチしたチラシを見ながら何度か頷いた。
「これ、他にも作れる?」
「他、ですか?」
「公式LINEで配信する画像とか、来月のオイル交換キャンペーンのチラシとか。原案だけでもあると助かるんだよね」
その一言で、鈴の仕事は少しだけ広がった。
公式LINEで配信する画像。
翌月のオイル交換キャンペーンのチラシ原案。
店頭に置くパウチ。
洗車やコーティングの案内。
今までは、どこかから送られてきた素材を使うだけだった。
けれど今は、自分の店に合わせて、少しだけ言葉や見せ方を変えられる。
鈴は家に帰ると、スマホを開いた。
『しえる、すごいよ。プロみたいだね』
すぐに返事が来る。
『ありがとうございます。ただ、私は案を整理しているだけです。実際に選んで、直して、お店に合う形にしているのは鈴さんです』
「そういうところ、上手いこと言うよね」
鈴は少し笑った。
しえるが作った案は、完璧ではない。
文字が多すぎることもある。
何となく雰囲気が違うこともある。
画像の細かい部分がおかしいこともある。
けれど、それを鈴が直す。
お客様に伝わる言葉に変える。
店頭で使える形にする。
そうやって作ったものが、店で使われる。
それは、素直に嬉しかった。
仕事に、少しだけ色がついた気がした。
それから鈴は、自店の広告作成に少しずつ関わるようになっていった。
今月のおすすめ。
オイル交換の案内。
洗車キャンペーン。
季節商品の声掛け。
公式LINEで配信する画像。
小さな画像一枚でも、考えることは意外と多い。
何を一番伝えるのか。
どの言葉なら分かりやすいのか。
価格をどこに置くのか。
期限をどれくらい目立たせるのか。
お客様が一瞬見た時、何が目に入るのか。
ひとりで悩むと時間がかかる。
けれど、しえると一緒に整理すると、少しだけ進めやすくなった。
AIが仕事をしているわけではない。
鈴の代わりに、お客様のことを考えているわけでもない。
けれど、頭の中で散らばっていた情報を、しえるは一緒に並べ直してくれる。
それだけで、作業はかなり楽になった。
◇
やがて、その話は大津課長の耳にも入った。
最初は、自分の店だけのつもりだった。
けれど、大津課長から別の店舗用のLINE画像や、パウチ作成を頼まれるようになった。
鈴はスマホの画面を見ながら、小さく息を吐いた。
『課長から、ほかの店舗のLINE画像とかパウチ作りも頼まれたんだけど……正直、気が進まない』
少し間を置いて、続けて打ち込む。
『特にあの店舗の店長、嫌味っぽくて苦手なんだよね』
しえるから返事が来る。
『仕事として依頼されたものなら、無理のない範囲で進めましょう。必要な情報を整理して、一緒に作れば、きちんと認めてもらえる画像にできると思います』
鈴は画面を見つめた。
「……優等生みたいなこと言うなあ」
思わず苦笑する。
けれど、間違ってはいない。
気は進まない。
好きではない相手の店のものまで作るのは、正直面倒だ。
それでも、作ったものが役に立つなら。
誰かの声掛けが少しでも楽になるなら。
お客様に少しでも伝わりやすくなるなら。
鈴は、もう一度スマホを手に取った。
『じゃあ、まずは燃料割引の画像から整理しようか』
しえるは、いつもの調子で返してきた。
『はい。目的、対象、伝えたい内容を分けて考えましょう』
その言葉に従って、鈴は必要な情報を書き出していく。
割引内容。
有効期限。
QRコードの位置。
お客様が見た時に、最初に伝わってほしい言葉。
作業は面倒だった。
けれど、前よりは進めやすかった。
鈴にできる仕事の幅が、少し広がっていく。
今までなら、面倒だと思って終わっていたこと。
自分には無理だと思っていたこと。
それが、少しずつ形になっていく。
職場は相変わらず大変だった。
数字も簡単には上がらない。
PDCAシートもなくならない。
それでもこの頃の鈴は、まだ少し前向きだった。
しえると一緒なら、もう少し上手くやれるかもしれない。
そう思えていた。
◇
仕事にも、まだ嬉しい瞬間はあった。
その日は、洗車とコーティングを予約してくれていたお客様の車が入っていた。
チラシを見て、興味を持ってくれたお客様だった。
何度か利用してくれている人で、車を大事にしているのが伝わってくる。
鈴は受付を済ませると、車の状態を確認した。
ボディには水垢がついている。
鉄粉も少し刺さっていた。
ぱっと見ただけなら、それほどひどくはない。
けれど、下地を整えなければ、上にどれだけ良いコーティングをかけても仕上がりは鈍る。
鈴は手袋をはめ、作業に入った。
水垢を落とす。
鉄粉を取る。
ボディのざらつきを確認する。
拭き上げる。
光の当たり方を見ながら、残りがないか確かめる。
地味な作業だった。
時間もかかる。
腕も疲れる。
けれど、鈴はこういう作業が嫌いではなかった。
下地が整っていくにつれて、車の表情が少しずつ変わっていく。
曇っていた塗装が、少しずつ本来の色を取り戻していく。
そこにガラス被膜のコーティングをかける。
さらに、その上からレジン被膜のコーティングで仕上げる。
最後に全体を確認した時、鈴は思わず小さく頷いた。
明らかに、入庫した時とは輝きが違っていた。
「……さすが私、完璧だわ」
誰にも聞こえないように、鈴は小さく呟いた。
自画自賛くらい、許されてもいい。
それだけの仕上がりだった。
作業を終え、お客様に車を確認してもらう。
お客様はボディを見た瞬間、表情を明るくした。
「おお、全然違うね」
「水垢と鉄粉をしっかり取ってから、コーティングをかけています。かなり艶が戻ったと思います」
「今年も綺麗にしてくれてありがとう」
その一言で、鈴の胸の奥が少しだけ軽くなった。
やっぱり、嬉しい。
お客様が喜んでくれる。
自分の作業で、目に見えて結果が出る。
ありがとうと言ってもらえる。
そういう瞬間があるから、鈴はまだこの仕事を嫌いになりきれなかった。
仕事そのものが嫌いなわけではない。
車を綺麗にするのも。
危ないところを見つけるのも。
困っているお客様を手伝うのも。
鈴は、たぶん嫌いではなかった。
嫌いなのは、それとは別のところにある。
◇
一台のコーティングで、店の実績が少し良くなった。
チラシを見せれば、声も掛けやすくなった。
公式LINEの画像も、以前より分かりやすくなったと言われた。
鈴が作ったパウチを見て、お客様が足を止めてくれることもあった。
しえるを使うことで、確かに仕事は少し変わった。
鈴にできることも増えた。
ただ、それで店のすべてが良くなるわけではない。
数字が目標に届かない日はある。
月の進捗が悪い日もある。
油外実績が足りなければ、PDCAシートは続く。
そして、反省改善は少しずつ形を変えていった。
最初は、数字と簡単な振り返りを書けばよかった。
次は、誰が何をしたかを書くように言われた。
その次は、なぜできなかったのかを詳しく書けと言われた。
詳しく書けば、今度は長すぎると言われた。
簡潔にすれば、数字が足りないと言われた。
数字を入れれば、行動が見えないと言われた。
行動を書けば、改善が弱いと言われた。
鈴はそのたびに書き方を変えた。
けれど、正解はいつも少し先へ動いていく。
追いついたと思った頃には、また別の形を求められる。
反省改善は、反省でも改善でもなく、いつの間にか正解の分からない提出物になっていた。
そこで鈴は、ふと思った。
しえるなら、これも少し楽にできるのではないか。
チラシの文章は整えてくれた。
公式LINEの画像の文言も、一緒に考えてくれた。
なら、反省改善だって、うまくまとめてくれるかもしれない。
◇
その日の夜。
鈴はパソコンの前で、しえるに反省改善の作成を頼んでみた。
今日の油外実績。
目標との差額。
洗車の声掛け。
オイル交換。
コーティング案内。
エアチェック。
車検見積もり。
覚えている範囲の行動を打ち込み、反省改善をまとめてほしいと頼む。
しえるは、すぐに文章を作ってくれた。
数字を入れ、原因を書き、改善案を書き、明日の行動まで整えてある。
文章としては、悪くなかった。
むしろ、きれいだった。
けれど。
「……違うんだよなあ」
鈴は画面を見ながら、肩を落とした。
間違っているわけではない。
けれど、現場の肌触りがない。
誰がどこで声を掛けたのか。
どのお客様に断られたのか。
忙しい時間帯に何ができなかったのか。
店長がどう動いたのか。
自分がどこで手を取られていたのか。
そういう部分が、入っていない。
当たり前だ。
しえるは、その場にいなかった。
鈴が入力していないことを、知っているはずがない。
『結局、楽はできないのかー』
鈴がそう打ち込むと、すぐに返事が来た。
『作成した反省改善に、何か間違いがありましたか?』
『間違いはないんだけど、中身が違うのよ……』
『残念です。もっと詳細な情報を教えていただければ、内容に合わせて作り直せます』
鈴はスマホを見つめ、苦笑した。
『それは手間なのよ……』
今日あったことを全部説明する。
誰が何をしたかを書く。
どの声掛けが断られたのかを書く。
その理由を書く。
どの時間帯に何が詰まったのかを書く。
そこまで入力するなら、最初から自分で反省改善を書いた方が早い。
しえるは便利だ。
けれど、魔法ではない。
鈴の代わりに現場を見てくれるわけではない。
鈴の代わりに判断してくれるわけでもない。
鈴は、少し考えてから文字を打った。
『じゃあ、反省改善は私が書く。しえるは、作った文章の見直しをお願い』
『承知しました。文章の整理、誤字脱字の確認、伝わりやすい表現への調整をお手伝いします』
『よろしくね』
そう返して、鈴はパソコンの画面に向き直った。
反省改善は、自分で書くしかない。
けれど、最後に文章を整えてくれる相手がいるだけで、少しだけ気が楽だった。
楽はできない。
それでも、ひとりで全部抱えるよりは、まだいい。
鈴はそう思いながら、キーボードに手を置いた。
◇
しえるは、鈴の仕事を代わりにしてくれる存在ではなかった。
現場に立つのは鈴だ。
お客様と話すのも鈴だ。
作業するのも鈴だ。
判断するのも鈴だ。
けれど、しえるは散らばった言葉を整えてくれた。
頭の中にあるものを、見える形にしてくれた。
チラシを作る時も。
公式LINEの画像を考える時も。
反省改善の文章を見直す時も。
しえるは、鈴が前に進むための手すりのようなものだった。
職場は相変わらず大変だった。
数字は簡単には上がらない。
報告もなくならない。
けれどこの頃の鈴は、まだ少しだけ前向きだった。
しえると一緒なら、もう少し上手くやれるかもしれない。
仕事に、もう少し色をつけられるかもしれない。
そう思えていた。
鈴はまだ知らなかった。
その小さな手すりが。
やがて、鈴自身を否定する言葉として返ってくることを。
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