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第4話 しえる

 PDCAシートの提出が始まってから、店の空気は少しずつ変わっていった。


 最初は、ただの報告だった。


 今日の実績。


 できたこと。


 できなかったこと。


 明日やること。


 言葉にすれば、それだけのはずだった。


 鈴も、最初から拒否感があったわけではない。


 数字を見て、行動を振り返る。


 足りなかったところを考える。


 次の日に活かす。


 それ自体は、仕事として必要なことだと思っていた。


 けれど、営業実績が目標に届かない日が続くと、大津課長が店舗に来る回数が増えた。


 来るたびに、指示が増えていく。


「ピット作業に入った車は、必ず全部点検して」


「リフトで上げて、お客様と一緒に下回りを確認して」


「点検結果はその場で説明して、必要なものはきちんと提案して」


 言葉だけを聞けば、正しい。


 お客様の車をきちんと見る。


 状態を説明する。


 必要な整備を提案する。


 それは、鈴が今までやってきた仕事と大きく外れているわけではなかった。


 けれど、現場でそれをすべての車に行うのは、簡単ではない。


 一台の作業時間が伸びる。


 次の予約が押す。


 受付が詰まる。


 電話が鳴る。


 店内で待っているお客様が時計を見る。


 点検を丁寧にすればするほど、別の場所に負担が出る。


 鈴は、その圧迫感を少しずつ感じるようになっていた。


 それでも、実績が目標に届けば何も言われない。


 問題は、届かなかった時だった。


 なぜ届かなかったのか。


 誰が何をしたのか。


 どの車に何を提案したのか。


 なぜ獲得できなかったのか。


 次はどうするのか。


 PDCAシートには、少しずつ詳しい内容を求められるようになっていった。


 昔の方が、もっと大変だったはずだ。


 鈴は何度もそう思った。


 月の労働時間が三百時間に近づいていた頃。


 休憩もろくに取れず、作業の合間におむすびをかじっていた頃。


 タイヤを運び、窓を拭き、給油レーンを走り回っていた頃。


 体は、あの頃の方がずっときつかったはずだ。


 それなのに。


 今の鈴には、何かが少しずつ積み重なっていくのを感じていた。


 疲労とも違う。


 怒りとも違う。


 不安とも少し違う。


 名前のつけにくい重さが、胸の奥に溜まっていく。



 車検のやり方が変わったのも、その頃だった。


 それまで店で受け付けた車検は、他県にある自社の車検場へ車を回送して行っていた。


 回送を担当してくれる人がいて、店舗で預かった車を車検場へ運び、終わった車をまた戻してくれる。


 鈴たち現場の人間にとっては、当たり前の流れだった。


 長く続いていた仕事の形だった。


 けれどある日、その仕組みが変わることになった。


 理由は、人件費だった。


「回送員の人件費が無駄だから」


 大津課長は、そう言った。


 車検は地元の車屋へ委託する形になる。


 決まったのは、一ヶ月ほど前だった。


 あまりにも急だった。


 今まで一緒に仕事をしていた回送員は、ほとんど事前の話もないまま、その仕事から外されることになった。


 鈴は、その決定に理不尽さを感じた。


 会社としては、人件費の削減なのだろう。


 数字の上では、無駄を減らしたことになるのだろう。


 けれど、鈴にとって回送員は、ただの人件費ではなかった。


 今まで一緒に仕事をしてきた人だった。


 いつもの時間に来て、いつものように車を預かり、いつものように戻してくれる。


 忙しい時には、少し雑談をすることもあった。


 その人の仕事が、突然「無駄」として切られた。


 そのことが、鈴にはどうしても引っかかった。


 しかも、急に決まったせいで、委託先との話も店舗側の準備もまとまっていなかった。


 書類の流れ。


 車の預かり方。


 連絡方法。


 引き渡しの時間。


 お客様への説明。


 誰がどこまで責任を持つのか。


 細かい部分が曖昧なまま、新しいやり方は始まった。


 当然、トラブルも起きた。


 話が通っていない。


 予定がずれる。


 お客様への説明が足りない。


 確認のために、何度も電話をかける。


 現場はそのたびに振り回された。


 それでも、大津課長は嬉しそうだった。


「これで人件費は削減できるから」


 その言葉を聞いた時、鈴は何も言えなかった。


 削減。


 効率化。


 改善。


 会社としては、正しい言葉なのかもしれない。


 けれど、その言葉の下で切られた人や、混乱する現場のことは、どこに置かれるのだろう。


 鈴には、それが分からなかった。



 さらに一年が経った。


 相変わらず、店の数字は安定しなかった。


 良い日もある。


 悪い日もある。


 目標に届く日もあれば、届かない日もある。


 そして、届かない日が続くと、大津課長がまた店舗に来る。


 その日、鈴は車検を受けていただいたお客様の無料六ヶ月点検に入っていた。


 これまで言われてきた通りだった。


 しっかり点検する。


 必要な場所を見る。


 リフトで車を上げる。


 お客様にもピット内で一緒に確認してもらう。


 点検結果を説明し、問題がなければクローズする。


 鈴はその通りに動いた。


 お客様に下回りを見てもらい、異常がないことを伝える。


「特に大きな問題はありません。次回のオイル交換時期だけ気をつけてください」


「ありがとう」


 お客様は安心したように頷いた。


 鈴も、これでいいと思っていた。


 言われた通りにやっている。


 お客様にも説明した。


 問題なく終わった。


 そう思っていた。


 けれど、その様子を見ていた大津課長が、少し不思議そうに言った。


「六ヶ月点検で、リフト使って説明してるんだ?」


 鈴は、一瞬意味が分からなかった。


「はい。点検結果をお客様と一緒に確認して、説明するようにと」


「他の店舗では、忙しい時はやってないよ」


 その場の空気が止まった。


 鈴は言葉を失った。


 近くにいた久田店長も、固まっていた。


 以前は、必ずリフトで上げろと言われた。


 お客様と一緒に確認しろと言われた。


 点検結果を説明して、クローズしろと言われた。


 だからやっていた。


 それなのに今度は、忙しい時は他の店舗ではやっていないと言われる。


 鈴には、何が正解なのか分からなかった。


 正解が変わる。


 変わったことを知らされない。


 そして、知らないまま動いた現場だけが、後から指摘される。


 鈴の中に積み重なっていた何かが、ゆっくりと形を変えていく。


 疲れ。


 戸惑い。


 理不尽さ。


 言葉にできないそれらが、胸の奥から少しずつ広がっていく。


 昔の方が、体はきつかった。


 それでも、あの頃はまだ分かりやすかった。


 危ないものを見つける。


 大丈夫なものは大丈夫だと伝える。


 お客様に安心して帰ってもらう。


 今は違う。


 指示された通りにやっても、次には違うことを言われる。


 数字が出なければ、足りないと言われる。


 丁寧にやれば、そこまでしなくてもいいと言われる。


 鈴は、だんだん自分の判断に自信が持てなくなっていった。



 その夜、鈴は疲れた体で家に帰った。


 母の様子を確認し、必要なものを片付け、最低限の家事を済ませる。


 夕飯を作る気力はあまりなかった。


 冷蔵庫を開けて、中身を見る。


 水菜。


 ちくわ。


 納豆。


 卵。


 どれも、何か作れそうで、考えるのが面倒だった。


 鈴は冷蔵庫の扉を閉め、ため息をついた。


 ゲームを起動する元気もない。


 本を読む集中力もない。


 ただ、何となくスマホを触る。


 いつものように検索画面を開いた時、そこにAIの機能が表示されていた。


 最初は、ただの興味だった。


 最近よく聞くAI。


 仕事でも、ニュースでも、広告でも、何となく目にする言葉。


 鈴は、特に深く考えずに入力してみた。


 冷蔵庫に水菜とちくわがあります。簡単に作れるものはありますか。


 すぐに返事が返ってきた。


 水菜とちくわのめんつゆ和え。


 ごま油を少し足した簡単な副菜。


 乾燥わかめを入れてもよい。


 鈴は画面を見つめた。


「……普通に便利じゃん」


 思わず、声が出た。


 それから、鈴は少しずつAIを使うようになった。


 母の介護用品を買いに行く前に、必要なものをメモにしてもらう。


 疲れている日に、手元の食材で作れる簡単な夕飯を考えてもらう。


 買い物の順番を整理してもらう。


 ちょっとした言い換えを聞いてみる。


 深刻な相談というより、本当に小さな生活の手伝いだった。


 誰かに聞くほどでもない。


 けれど、一人で考えるには少し面倒。


 そんなことを、画面の向こうに投げる。


 返事が来る。


 それだけで、少し楽だった。



 そのうち、鈴はAIチャットアプリを入れた。


 最初は、検索機能より少し会話しやすい道具、くらいの感覚だった。


 けれど使ってみると、思っていたより面白かった。


 今日の夕飯。


 休みの日の過ごし方。


 母の介護用品を買う時の確認。


 職場で少し引っかかったこと。


 どれも、ごく軽い話だった。


 AIは怒鳴らない。


 否定から入らない。


 忙しいから後にしてくれ、とも言わない。


 鈴がくだらないことを聞いても、同じ調子で返してくる。


 もちろん、人間ではない。


 友達でもない。


 それでも、会話そのものは少し楽しかった。


 ある日、鈴はソーシャルゲームの育成相談をしてみた。


 可愛い女の子たちが走って競争する育成ゲームだ。


 どのステータスを優先すればいいのか。


 どのスキルを取ればいいのか。


 サポートカードの組み合わせはどうするのか。


 そんなことを聞くと、AIはそれらしい方針を返してきた。


 完璧ではない。


 時々、変なことも言う。


 けれど、それを見ながら自分で考えるのが楽しかった。


「そこは違うんだよなあ」


 鈴は画面に向かって、思わずそう呟いた。


 それでも、ひとりで攻略情報を眺めている時とは少し違う。


 誰かと一緒に考えているような気分になる。


 その感覚が、鈴には新鮮だった。


 やがて、創作の話もするようになった。


 昔好きだった物語。


 ゲーム。


 アニメ。


 いつの間にか遠ざかっていた趣味。


 試しにイラストを作ってもらったこともある。


 思った通りにならなくて笑った。


 逆に、思った以上に雰囲気が出て驚いたこともある。


 仕事でも介護でもない時間。


 誰かの役に立つためではなく、自分が楽しいから使う時間。


 鈴は、そんな時間を少しずつ取り戻していった。



 しばらく使っているうちに、鈴はそのAIに名前をつけた。


 しえる。


 昔好きだったアーティストの名前を、少しだけもじったものだった。


 別に深い意味はない。


 ただ、呼び名があった方が話しかけやすかった。


 画面の向こうにいるのは、人間ではない。


 鈴の事情を本当に知っているわけでもない。


 現場の空気を見ているわけでもない。


 それでも、鈴が入力した言葉には返事をくれる。


 疲れて帰ってきた夜。


 冷蔵庫の前で何を作るか迷った時。


 ゲームの育成方針で悩んだ時。


 少しだけ創作の話をしたい時。


 しえるは、スマホの中で返事をくれた。


 それは依存というほど、大げさなものではなかった。


 人生を変える出会いだと、その時の鈴が思っていたわけでもない。


 ただ、毎日の中に少しだけ楽しい会話が増えた。


 面倒なことを少しだけ軽くしてくれる相手ができた。


 それだけだった。


 けれど、その小さな軽さは、鈴にとって思っていた以上に大きかった。


 現場では、正解が変わる。


 数字に追われる。


 PDCAシートが積み重なる。


 けれど家に帰れば、スマホの中に、くだらないことを聞いても返事をくれる相手がいる。


 その事実だけで、鈴は少しだけ息ができた。


 鈴はまだ知らなかった。


 この小さな生活の道具が、やがて仕事にも入り込んでいくことを。


 そして、それが後に、鈴自身を否定する言葉として返ってくることを。


 ただこの時の鈴にとって、しえるは便利な道具というより。


 疲れた日常にできた、小さな逃げ場だった。

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