第3話 久田店長
上田店長が異動した後、店には何人かの店長が来ては去っていった。
数か月で別の店へ移る人もいた。
応援のような形で、一時的に店を見るだけの人もいた。
そのたびに、鈴は新しいやり方に慣れようとした。
けれど、慣れた頃にはまた変わる。
店長が変われば、確認の仕方も変わる。
報告の仕方も変わる。
どこまで任せていいのか。
どこまで自分が出ればいいのか。
その線引きが、そのたびに少しずつ変わった。
鈴は社員ではない。
役職者でもない。
けれど、店の中では長く働いている人間になっていた。
だから、何か分からないことがあれば聞かれる。
店の機械の癖。
昔からのお客様のこと。
キャンペーンの流れ。
過去にどう対応していたか。
そういう細かい記憶は、鈴の中に溜まり続けていた。
それが役に立つこともある。
けれど、便利に使われているような気がすることもあった。
そんな頃、新しい店長として久田店長が就任した。
◇
久田店長は、上田店長とはまったく違うタイプの人だった。
大きな声で現場を引っ張るわけではない。
次々に新しい企画を始めるわけでもない。
店のやり方を大きく変えることもなかった。
ただ、責任ある業務については、きちんと店長として対応してくれた。
それだけで、鈴は少し安心した。
上田店長がいなくなってから、鈴のところへ集まっていた仕事の一部が、本来の場所へ戻ったような気がした。
少なくとも、何でもかんでも鈴に投げる人ではなかった。
それはありがたかった。
久田店長は、悪い人ではなかった。
むしろ、話しやすい人だった。
昔遊んでいたゲームの話。
見ていたアニメの話。
懐かしい漫画の話。
そういう話題になると、鈴と久田店長は妙に盛り上がった。
久田店長は、昔パチンコ店で働いていたことがあるらしい。
手が空いた時には、昔の遊技台の話になることもあった。
「渡さん、昔のあの台知ってる?」
「あー、ありましたね。演出が長いやつ」
「そうそう。熱そうに見えて全然当たらないやつ」
「ありましたね。あれ、外れると本当に腹立つんですよね」
「でも当たると気持ちいいんだよな」
「分かります」
そんな会話は、普通に楽しかった。
職場で、仕事以外の話ができる。
それだけでも、少しだけ息がしやすくなる。
だから鈴は、最初のうち、久田店長のことを悪くは思っていなかった。
責任ある仕事はしてくれる。
無理なことを怒鳴って押しつけるわけでもない。
話も通じる。
それだけで、十分助かると思っていた。
◇
けれど、別の問題もあった。
この店で一番長く働いているのは、鈴だった。
久田店長も、分からないことがあると鈴に聞いた。
「渡さん、これ前はどうしてた?」
「去年はこうしてました」
「このお客さん、いつもの人?」
「はい。給油口の口切りだけ手伝えば大丈夫です」
「この集計って、どこ見ればいいんだっけ」
「ここの数字ですね」
「このキャンペーン、前回どうだった?」
「前回は最初の週だけ動いて、後半はほとんど止まりました」
聞かれること自体は、嫌ではなかった。
頼られるのも、悪い気はしない。
けれど、少しずつ思うようになった。
自分は社員ではない。
役職者でもない。
それでも、この店の記憶だけは、自分の中に溜まり続けている。
久田店長は、大きな改善をしなかった。
かといって、大きな改悪もしなかった。
売り場を大きく変えることもない。
声掛けのやり方を変えることもない。
新しい仕組みを作ることもない。
昨日と同じように、今日の営業が続く。
今日と同じように、明日の営業が続く。
良く言えば、穏やか。
悪く言えば、日和見。
店の空気は、しばらく落ち着いたように見えた。
鈴の負担も、一時的には減った。
けれど、数字は少しずつ落ちていった。
最初は、本当に小さな差だった。
天気が悪かったから。
来店台数が少なかったから。
タイミングが悪かったから。
そう言えば片付くくらいの差だった。
けれど、月が変わっても、その差は戻らなかった。
季節が変わっても、戻らなかった。
上田店長が築いてきた実績は、目に見えないところから、少しずつ削れていった。
右肩下がり。
その言葉が、報告書の数字の中で、ゆっくり形になっていく。
鈴はその数字を見ながら、嫌な予感を覚えていた。
このままでは、いつか上から何かを言われる。
そして、その時に一番困るのは、たぶん現場だ。
その予感は、外れてほしかった。
けれど、外れなかった。
◇
大津課長が店舗に来たのは、そんな頃だった。
大津課長は、いつも少しだけ圧のある人だった。
大声で怒鳴るわけではない。
理不尽に机を叩くような人でもない。
けれど、話していると、こちらが先に間違っていると決められているような気がする。
質問の形をしているのに、実際には確認ではなく詰問に近い。
鈴は、大津課長のそういう空気が少し苦手だった。
その日も鈴は、いつも通りピット作業に入っていた。
相手は、昔からこの店を使ってくれているお客様だった。
オイル交換。
タイヤの空気圧。
ウォッシャー液。
バッテリー。
灯火類。
鈴は、いつものように車両点検を行った。
そのお客様は、去年エアコンガスクリーニングをしてくれていた。
夏タイヤへの交換時には、下回りについた融雪剤を流す洗浄も行っている。
鈴は点検内容を確認し、大きな異常がないことを確かめた。
「特に問題ありません。いつもありがとうございます」
そう言って、作業を終えた。
お客様も、いつものように笑って帰っていった。
その背中を見送った直後だった。
「今の、エアコン見てないでしょ」
背後から声がした。
振り返ると、大津課長が立っていた。
鈴は一瞬、言葉に詰まる。
「あと、錆止め。なんで言わないの」
責めるような口調ではない。
けれど、逃げ道を塞ぐような聞き方だった。
「去年、エアコンガスクリーニングはやっていただいています。下回りも、夏タイヤ交換の時に融雪剤を流す洗浄をしていただいていたので」
「だから?」
大津課長は、表情を変えずに言った。
「現状、大きな問題はないと判断しました」
「エアコンは毎年メンテナンスが必要でしょ」
「……毎年、ですか」
「そう。毎年見るもの。錆止めも、錆びていたらやるもの」
鈴は手元の作業伝票を見た。
去年やっている。
下回り洗浄もしている。
点検して、今すぐ必要な異常は見当たらなかった。
だから、今回は問題ないと伝えた。
それだけだった。
「それは……過剰整備になりませんか」
思わず、そう口に出していた。
大津課長の目が、少し細くなる。
「過剰整備じゃなくて、提案でしょ」
鈴は返す言葉を失った。
「やるかどうかを決めるのはお客様。こっちが勝手に判断して、言わないのは違うよね」
「はい」
「数字が落ちてる時に、取れるものを取りに行かないと、そりゃ落ちるよ」
その言い方に、鈴の胸の奥が少し重くなった。
言っていることが、まったく分からないわけではない。
提案すること自体は、仕事の一部だ。
お客様に説明し、選んでもらう。
それは間違っていない。
けれど、鈴が今まで教わってきた仕事とは、少しだけ違っていた。
危ないものを見つけたら、危ないと伝える。
大丈夫なものは、大丈夫だと伝える。
お客様が気づいていない不安を見つけて、安心して帰ってもらう。
それが仕事だと思っていた。
けれど、今求められているものは少し違う。
大丈夫かどうかではない。
声を掛けたかどうか。
必要かどうかではない。
提案したかどうか。
数字につながる行動をしたかどうか。
そこを見られている。
鈴は、その違いに戸惑った。
◇
大津課長が帰った後、店の空気は少し重かった。
久田店長も、いつものような雑談をする雰囲気ではなかった。
事務所の中で、久田店長は大津課長から聞いた内容を確認していた。
鈴は少し離れた場所で、伝票の整理をしながらその声を聞いていた。
やがて、久田店長がこちらを向いた。
「渡さん」
「はい」
「今後、毎日の実績に対して、PDCAシートを作ることになった」
「毎日、ですか」
「うん。毎日」
久田店長は、少し困ったように頭をかいた。
怒っているわけではない。
むしろ、久田店長自身も面倒だと思っているように見えた。
「今日の数字を見て、何をやったか。何が足りなかったか。明日はどうするか。そういうのをまとめる形になると思う」
「分かりました」
鈴はそう答えた。
答えるしかなかった。
PDCA。
計画。
実行。
確認。
改善。
言葉だけを見れば、正しい。
むしろ、会社としては当たり前のことなのかもしれない。
今日の数字を確認する。
できたことを見る。
足りなかったことを考える。
明日の行動につなげる。
その程度なら、必要なことだ。
鈴も、最初はそう思った。
けれど、大津課長の言葉は鈴の中に小さな棘のように残っていた。
エアコンは毎年見るもの。
錆止めは錆びていたら提案するもの。
取れるものを取りに行かないから数字が落ちる。
その言葉を思い出すたびに、鈴の胸の奥が重くなる。
今までの仕事は、変わっていくのかもしれない。
必要なものを見つけて伝える仕事から。
数字につながるものを探して提案する仕事へ。
そして、その行動を毎日シートに書いて報告する仕事へ。
鈴はその時、まだ知らなかった。
その一枚のPDCAシートが。
やがて、現場で働いた後の自分の時間を、少しずつ削っていくことを。
3話目投稿!
続いて4話目執筆開始します




