第2話 楽になったはずの職場
働き方改革。
その言葉が、会社の中にも少しずつ入り込んできた。
昔のように、月の労働時間が三百時間に近づくような働き方は、さすがに許されなくなった。
三十六協定に基づいて残業時間は管理されるようになり、普段は月四十五時間以内、タイヤ交換の繁忙期でも七十五時間前後に収まるよう、会社が調整するようになった。
少なくとも、表向きはそういう形に変わっていった。
それは悪いことではなかった。
休憩も取れず、作業の合間におむすびをかじるような毎日。
帰宅してシャワーを浴びるだけで、湯船に浸かる気力も残らないような日々。
あれをもう一度やれと言われても、今の鈴には無理だった。
若かったから、ついていけただけだ。
だから、労働時間が減ったこと自体は、間違いなく良いことだった。
店もセルフスタンドになった。
お客様が自分で給油するようになり、スタッフが給油口を開け、窓を拭き、灰皿を受け取ることは少なくなった。
けれど、仕事がなくなったわけではない。
給油許可。
安全確認。
電話対応。
受付。
洗車案内。
ピット作業。
予約表の確認。
タイヤ交換の時期になれば、結局、店は戦場になる。
ただ、それでも。
上田店長がいる間は、まだ店は店として回っていた。
誰かが困れば、上田店長が前に出る。
判断に迷えば、上田店長が決める。
お客様に説明が必要なら、上田店長が隣に立つ。
現場の空気が悪くなれば、あの大きな声で流れを変える。
忙しくても、苦しくても、中心に立つ人がいた。
だから鈴も、まだ踏ん張れた。
◇
上田店長の転勤が決まったのは、店がセルフスタンドとして落ち着き始めた頃だった。
新しい店舗ができる。
その立ち上げのために、上田店長が呼ばれたのだ。
この店をセルフ化し、この地域の中でも大きな店として育てた功績を認められての異動だった。
栄転。
そう聞けば、喜ぶべきことだった。
鈴も分かっていた。
上田店長は、ずっと現場に立ってきた。
何も知らなかった鈴を育て、ミスをすれば叱り、必要な時は前に立ってくれた。
あの人がいたから、鈴はこの仕事を続けられた。
あの人がいたから、この店はここまで来た。
だから、送り出すべきなのだ。
「頑張ってください」
鈴はそう言った。
言うしかなかった。
上田店長は、いつものように笑った。
「おう。お前も無理すんなよ」
「それ、店長が言います?」
「俺が言うから説得力あるだろ」
「ないです」
鈴がそう返すと、上田店長は声を出して笑った。
別れは寂しかった。
けれど、上田店長が認められたことは、素直に嬉しかった。
だから鈴は、ちゃんと笑って送り出した。
その後に、自分の仕事がどう変わるのかまでは、あまり考えていなかった。
◇
上田店長がいなくなると、店の空気は少しずつ変わった。
最初は、ただ寂しいだけだった。
大きな声で指示を飛ばす人がいない。
困った時に、自然と前に出てくれる人がいない。
何かあった時に、「俺が行く」と言ってくれる人がいない。
代わりの店長は来た。
けれど、数か月働くと別の店へ移る。
また新しい店長が来る。
また慣れる。
また変わる。
その繰り返しだった。
店長不在の日も増えた。
そのうち、元々は上田店長と鈴で回していた細かい事務仕事の一部が、そのまま鈴に残るようになった。
店で何かエラーが起きれば、まず鈴が呼ばれる。
集計が合わなければ、鈴が見る。
キャンペーンの数字が出れば、鈴がまとめる。
企画の結果報告が必要なら、鈴が確認する。
反省改善の材料が必要なら、鈴が用意する。
もちろん、店の経営判断を任されているわけではない。
売上目標を決めるのは上。
方針を決めるのも上。
人員を配置するのも上。
鈴は社員ではない。
役職者でもない。
けれど、その結果をまとめる仕事は、現場に落ちてくる。
そして、現場で一番長く店のことを知っている鈴のところへ集まってくる。
鈴は、自分がどこまで責任を持てばいいのか、よく分からなくなっていった。
社員ではない。
役職者でもない。
けれど、店の中では「分かる人」になっていた。
それは便利な立場だった。
周りにとっては。
◇
上田店長がいなくなった後、鈴は休みの日にも店のことを考えるようになった。
今日はタイヤ交換の予約が多かったはずだ。
あのキャンペーンの集計、誰か分かるだろうか。
昨日出ていた機械のエラーは、ちゃんと確認されたのだろうか。
考えなくていい。
今日は休みだ。
そう自分に言い聞かせても、頭の隅から店のことが消えない。
タイヤ交換のピーク時期になると、なおさらだった。
鈴は買い物のついでという建前で、店へ顔を出すことがあった。
本当に、最初は少し見るだけのつもりだった。
けれど、ピットには交換待ちの車が並び、店内では受付待ちのお客様が座っている。
電話も鳴っている。
見てしまえば、放っておけなかった。
「渡さん、今日休みじゃなかった?」
「遊びに来ただけです」
「制服着てるけど」
「遊びに来ただけです」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
けれど、制服に袖を通してしまえば、もう仕事だった。
それは美談ではない。
責任感。
不安。
自分が見ていないところで店が崩れていくような、妙な焦り。
上田店長がいた頃は、そんなことを考えなくてもよかった。
店には、最後に前へ出てくれる人がいた。
けれど今は、その人がいない。
だから鈴はいつの間にか、休みの日まで店に縛られるようになっていた。
それでも、嫌なことばかりではなかった。
昔からこの店を使ってくれているお客様がいる。
セルフになっても、自分で給油するのが難しい人はいる。
年齢を重ね、手元が不安になった人。
機械の操作が苦手な人。
店の人間の顔を見て、ようやく安心したように笑う人。
「あら、渡さん。今日もいたの」
「たまたまです」
「たまたま制服着てるの?」
「たまたまです」
鈴がそう答えると、お客様は可笑しそうに笑った。
「いつも通り、口切りですね〜」
鈴は給油口のキャップを開け、ノズルを差し込むところまで手伝った。
「いつもありがとね」
「いえいえ。気にしないでください」
そう言っても、そのお客様は帰り際に飲み物やお菓子を置いていく。
「みんなで食べて」
その一言に、鈴は何度も救われた。
仕事の形は変わった。
店も変わった。
制度も変わった。
上田店長も、もういない。
それでも、お客様の困った顔が少しだけ安心した顔に変わる。
その瞬間を見ると、鈴はやっぱり嬉しかった。
変わらない仕事もある。
そう思えることだけが、鈴にとって小さな救いだった。
◇
そんな毎日の中に、少しだけ色がついたのは、友人にスーパー銭湯へ誘われたことがきっかけだった。
「鈴、最近ずっと疲れてるでしょ。風呂行こうよ、風呂」
最初は、面倒だと思った。
仕事で疲れている。
家に帰れば母のこともある。
休みの日くらい、家で寝ていたい。
けれど、半ば強引に連れて行かれたスーパー銭湯で、鈴は久しぶりに湯船へ浸かった。
広い浴槽。
肩まで沈む湯。
足を伸ばしても誰にもぶつからない空間。
体の奥に溜まっていた疲れが、湯に溶けていくような気がした。
その後に入ったサウナも、思っていたより悪くなかった。
熱い。
苦しい。
けれど、汗が出る。
水風呂に入ると、体の表面が一気に冷えた。
椅子に座り、ぼんやり天井を見上げる。
何も考えなくていい時間。
仕事の数字も。
店のエラーも。
報告も。
次のキャンペーンも。
その時だけは、全部遠くなった。
「……いいかも」
鈴が小さくつぶやくと、友人はにやりと笑った。
「でしょ?」
それから、鈴は月に何度かスーパー銭湯へ行くようになった。
湯船に浸かる。
サウナに入る。
岩盤浴で寝転ぶ。
帰りに飲み放題でビールを飲む。
それが、少しずつ楽しみになっていった。
「飲み放題で生を十五杯も飲むのお前ぐらいだよ」
友人に呆れたように言われたこともある。
「元を取ってるだけ」
「元の取り方が戦士なんだよ」
「褒めてる?」
「褒めてない」
そんなやり取りも、鈴には楽しかった。
学生の頃に好きだったゲームや読書とは違う。
けれど、仕事でも介護でもない時間。
誰かのためではなく、自分のために使う時間。
鈴はその時間を、思っていた以上に大事にするようになっていった。
◇
働き方改革で、労働時間は減った。
昔のような無茶は、少なくなった。
店はセルフになった。
前より、働き方は整ったはずだった。
けれど、上田店長がいなくなった後、鈴の中で責任の境目は少しずつ曖昧になっていった。
社員ではない。
役職者でもない。
それでも、店のことを一番知っている人間として、鈴は店から離れられなくなっていく。
昔は、体を使い切って帰っていた。
今は、心をすり減らして帰るようになった。
だから鈴は、月に何度か湯船に沈む。
熱い湯に肩まで浸かって、ようやく思う。
ああ、まだ私は壊れていない。
そう確認するために。
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