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第1話 あの頃は、まだ仕事だった

職場で感じたことを元にしたフィクションです。

実在の人物・会社・店舗とは関係ありません。


限界職場で働く主人公が、

仕事、責任、AI、そして自分の時間について考えていく短めの話です。

 今でこそ、その店はセルフスタンドだった。


 お客様は自分で給油機の前に車を止め、自分で油種を選び、自分でノズルを握る。


 スタッフの仕事は、昔とは変わった。


 給油許可。

 安全確認。

 電話対応。

 受付。

 洗車案内。

 ピット作業。

 実績入力。

 予約表の管理。


 渡鈴――わたり・すずは、監視モニターの前に立ちながら、給油レーンに入ってきた車を見ていた。


 冬タイヤを積んだ軽自動車だった。


 後部座席まで、袋に入ったタイヤが詰め込まれている。


 それを見た瞬間、鈴の鼻の奥に、古いゴムの匂いが蘇った。


 インパクトレンチの音。


 冷たいピットの床。


 積み上がったタイヤ。


 鳴り止まない電話。


 ああ、と思った。


 また、この季節が来る。



 鈴がこの店に入った頃、そこはまだフルサービスのスタンドだった。


 車が入ってくれば走る。


 給油口を開け、油種を確認し、窓を拭き、灰皿を受け取り、洗車を勧め、タイヤの空気圧を確認する。


 夏は制服が汗で背中に張り付き、冬は手が割れた。


 洗剤と灯油とゴムと排気ガスの匂いが、体に染みついていた。


 あの頃のことは、あまり思い出したくない。


 若かったから、ついていけただけだ。


 それに、この町には震災の記憶もある。


 流されたもの。


 壊れたもの。


 戻らなかったもの。


 店の景色も、人の流れも、働く人間の顔ぶれも、少しずつ変わってしまった。


 鈴は、その頃の記憶を深く掘り返さないようにしていた。


 必要なものだけ残して、あとは心の中のゴミ箱に投げ込んだ。


 そうでもしなければ、働き続けられなかった。


 それでも。


 あの頃は、まだ仕事をしている実感があった。


 上田店長は、鈴がこの店に入った時から店長だった。


 給油の仕方も、窓の拭き方も、タイヤの見方も、お客様への説明の仕方も、全部あの人に教わった。


 鈴は決して、要領のいい新人ではなかった。


 声は小さい。


 動きは遅い。


 窓を拭いただけで息が上がる。


 確認漏れもする。


 お客様への説明が足りず、上田店長に頭を下げさせたことも一度や二度ではなかった。


 それでも、上田店長は鈴を見捨てなかった。


 怒る時は怒った。


 けれど、最後には必ず前に立ってくれた。


「次から気をつけろ。お前は逃げるな。俺も逃げない」


 そう言われた日のことを、鈴は今でも覚えている。


 だから、踏ん張れた。


 フルサービスの時代は、とにかく走った。


 給油レーンに車が入れば走る。


 電話が鳴れば走る。


 洗車機が止まれば走る。


 ピットから呼ばれれば、また走る。


 特に、夏と冬のタイヤ交換の時期は地獄だった。


 予約表は朝から真っ黒に埋まり、電話は鳴り止まない。


 給油レーンには車が並び、店内では受付待ちのお客様が腕を組んで時計を見ている。


 ピットの床には外したタイヤが積み上がり、奥からはインパクトレンチの音が響く。


「渡、三番ピット空いたぞ!」


 奥から上田店長の声が飛んだ。


「はい!」


 鈴は返事をしながら、バックヤードの棚に置いていた、ラップに包んだおむすびを手に取った。


 一口だけかじる。


 冷えた米が、口の中でぼそぼそと崩れた。


 昼休憩など、あってないようなものだった。


 食べられる時に食べる。


 座れる時に座る。


 水分は飲める時に流し込む。


 次の車が入れば、また立ち上がる。


 鈴は残りのおむすびを慌てて包み直し、棚の隅に戻した。


 食べ終える時間は、なかった。


 月の残業が百時間を超えることもあった。


 労働時間が三百時間に近づく月もあった。


 今なら、きっと許されない働き方だった。


 けれど当時の鈴は、それをおかしいと思う余裕すらなかった。


 ただ、目の前の車をこなす。


 目の前のお客様に対応する。


 目の前の作業を終わらせる。


 それだけで一日が終わった。


 もちろん、心ないお客様もいた。


「予約したのに、まだ終わらないの?」


「他の店ならもっと早いよ」


「こんなに待たせるなら、最初から言ってよ」


 あとで口コミに書かれることもあった。


 接客が悪い。


 待ち時間が長い。


 説明が足りない。


 その言葉を見た夜は、さすがに気持ちが沈んだ。


 こっちは昼飯もまともに食べず、トイレに行く時間も惜しんで動いている。


 それでも、お客様から見えるのは「待たされた」という結果だけだ。


 分かっている。


 分かっているけれど、納得できるわけではなかった。


 それでも鈴は、タイヤを持ち上げ、ナットを締め、空気圧を確認した。


 ある日のことだった。


 その車は、ただのタイヤ交換のはずだった。


 冬タイヤから夏タイヤへ交換するだけ。


 予約表にも、そう書かれていた。


 けれど、外したタイヤを確認した瞬間、鈴は手を止めた。


 外側は、まだ溝があるように見える。


 だが、内側が異常に減っていた。


 ゴムが削れ、細い金属の線が顔を出している。


 ワイヤーが出ていた。


「……これ、危ないです」


 鈴はタイヤを両手で抱え、お客様の方へ向けた。


 お客様は最初、きょとんとしていた。


「え? 外側はまだ大丈夫そうに見えたけど」


「内側が片減りしています。このまま走ると、最悪バーストする可能性があります」


 鈴は膝をつき、ワイヤーの出ている部分を指で示した。


 お客様の表情が変わる。


「……こんなになってたんだ」


「高速に乗る予定などありますか?」


「明日、仙台まで行く予定だった」


 その言葉を聞いた瞬間、鈴の背中に冷たいものが走った。


 もし、このまま見逃していたら。


 もし、お客様がそのタイヤで高速道路を走っていたら。


 考えたくなかった。


「交換した方がいいです」


 鈴ははっきりと言った。


 売りたいからではない。


 怖かったからだ。


 お客様はしばらくタイヤを見つめ、それから小さく息を吐いた。


「見てもらってよかった。じゃあ、交換お願いします」


 その一言で、鈴の胸の奥にあった疲れが、少しだけほどけた。


 手は真っ黒だった。


 腰は痛かった。


 バックヤードの棚には、食べかけのおむすびが残っていた。


 それでも、その時だけは思えた。


 この仕事には意味がある。


 ただ油を売っているだけではない。


 ただタイヤを付け替えているだけではない。


 お客様が気づかなかった危険に気づく。


 大丈夫なものには、大丈夫ですよと伝える。


 危ないものには、危ないですと伝える。


 その結果、安心して帰ってもらえる。


 それは、鈴にとって確かな手応えだった。



 やがて店はセルフスタンドになった。


 お客様が自分で給油するようになり、スタッフが走って窓を拭くことは少なくなった。


 それでも、忙しさが消えたわけではない。


 電話は鳴る。


 受付は詰まる。


 ピットは埋まる。


 タイヤ交換の時期になれば、結局、店は戦場になる。


 ただ、仕事の形が変わっただけだった。


 上田店長は、それでも変わらず現場にいた。


 誰よりも先に動き、誰よりも大きな声で返事をし、誰よりも遅くまで残った。


 苦しい時ほど、先頭に立っていた。


 だから鈴も、何とか踏ん張れた。


 閉店後。


 ピットのシャッターを下ろす頃には、足は棒のようになっていた。


 工具を片付け、床に落ちた砂利とゴム片を掃き、予約表を確認する。


 明日の欄も、すでに黒かった。


「今日、何台やった?」


 上田店長が、缶コーヒーを差し出しながら聞いた。


「覚えてないです」


 鈴が笑うと、店長も笑った。


「俺も覚えてない」


 缶コーヒーのプルタブを開ける音が、閉店後のピットに小さく響いた。


 上田店長はコーヒーを一口飲んでから、ふと思い出したように笑った。


「しかしなぁ。車の窓拭きやらせただけで息切らして、酸欠みたいになってた渡が、ここまで働くようになるとはな」


「またそれですか」


 鈴は思わず顔をしかめた。


「いい加減やめてください」


「いや、あれは忘れられないだろ。窓一枚拭いただけで、人生終わったみたいな顔してたぞ」


「してません」


「してた」


「してませんって」


 そう言い返しながらも、鈴は少しだけ笑ってしまった。


 あの頃の自分は、本当に何もできなかった。


 給油の仕方も、窓の拭き方も、タイヤの見方も、お客様への説明の仕方も、全部分からなかった。


 ミスも多かった。


 怒られたこともある。


 落ち込んで、もう無理だと思った日もある。


 それでも上田店長は、鈴を見捨てなかった。


 怒る時は怒った。


 けれど最後には、必ず前に立ってくれた。


 だから鈴は、この仕事を続けられた。



 ――ピンポン。


 給油許可の音が鳴った。


 鈴は、はっと顔を上げた。


 目の前にあるのは、昔のフルサービスの給油レーンではない。


 今のセルフスタンドの監視画面だった。


 お客様は自分で車を止め、自分で油種を選び、自分でノズルを握る。


 スタッフが走って窓を拭く時代では、もうない。


 鈴は画面を確認し、給油許可ボタンを押した。


 忙しさの形は変わった。


 昔より、労働時間も減った。


 店の仕組みも変わった。


 それなのに、体の奥に残った疲れは、あまり変わっていない気がした。



 その夜、鈴は家に帰ると、母の様子を確認してから風呂場へ向かった。


 風呂、と言っても、湯船に浸かるわけではない。


 シャワーで汗と油の匂いを流すだけだ。


 熱い湯を肩に当てると、背中と腰がじんわり痛んだ。


 ふくらはぎも張っている。


 手のひらには、どれだけ洗っても落ちきらない黒ずみが残っていた。


 シャワーを終えた鈴は、部屋着に着替え、床に座り込む。


 安いマッサージローラーをふくらはぎに当て、ゆっくり転がした。


 痛い。


 けれど、少しだけ気持ちいい。


「……最後に、湯船に浸かったのって、いつだっけ」


 口に出してみたが、すぐには思い出せなかった。


 仕事。


 母の介護。


 洗濯。


 買い物。


 翌日の準備。


 気づけば、湯船に湯を張ることすら面倒になっていた。


 学生の頃に夢中だったゲームは、少しずつ起動しなくなった。


 大好きだったMMOも、カードゲームも、読書も、いつの間にか遠くなった。


 仕方ない。


 社会人なんだから。


 そう言い聞かせて、鈴は自分の時間をひとつずつゴミ箱に投げ込んできた。


 あの頃は、間違いなくブラックだった。


 休憩もろくになく、飯を食べる暇もなく、月の労働時間が三百時間に近づくこともあった。


 それでも、上田店長は現場にいた。


 何も知らなかった鈴を育ててくれた。


 ミスをした時は叱り、それでも最後には前に立ってくれた。


 危ないタイヤを見つけて、お客様に感謝された日があった。


 疲れ切った体で飲む缶コーヒーは、少しだけ甘かった。


 だから鈴は、まだ踏ん張れた。


 仕事がきついことと、仕事に意味がないことは違う。


 あの頃はきつかった。


 けれど、まだ意味があった。


 今よりずっと過酷だったはずなのに。


 なぜか、今よりは納得できていた。


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