第1話 あの頃は、まだ仕事だった
職場で感じたことを元にしたフィクションです。
実在の人物・会社・店舗とは関係ありません。
限界職場で働く主人公が、
仕事、責任、AI、そして自分の時間について考えていく短めの話です。
今でこそ、その店はセルフスタンドだった。
お客様は自分で給油機の前に車を止め、自分で油種を選び、自分でノズルを握る。
スタッフの仕事は、昔とは変わった。
給油許可。
安全確認。
電話対応。
受付。
洗車案内。
ピット作業。
実績入力。
予約表の管理。
渡鈴――わたり・すずは、監視モニターの前に立ちながら、給油レーンに入ってきた車を見ていた。
冬タイヤを積んだ軽自動車だった。
後部座席まで、袋に入ったタイヤが詰め込まれている。
それを見た瞬間、鈴の鼻の奥に、古いゴムの匂いが蘇った。
インパクトレンチの音。
冷たいピットの床。
積み上がったタイヤ。
鳴り止まない電話。
ああ、と思った。
また、この季節が来る。
◇
鈴がこの店に入った頃、そこはまだフルサービスのスタンドだった。
車が入ってくれば走る。
給油口を開け、油種を確認し、窓を拭き、灰皿を受け取り、洗車を勧め、タイヤの空気圧を確認する。
夏は制服が汗で背中に張り付き、冬は手が割れた。
洗剤と灯油とゴムと排気ガスの匂いが、体に染みついていた。
あの頃のことは、あまり思い出したくない。
若かったから、ついていけただけだ。
それに、この町には震災の記憶もある。
流されたもの。
壊れたもの。
戻らなかったもの。
店の景色も、人の流れも、働く人間の顔ぶれも、少しずつ変わってしまった。
鈴は、その頃の記憶を深く掘り返さないようにしていた。
必要なものだけ残して、あとは心の中のゴミ箱に投げ込んだ。
そうでもしなければ、働き続けられなかった。
それでも。
あの頃は、まだ仕事をしている実感があった。
上田店長は、鈴がこの店に入った時から店長だった。
給油の仕方も、窓の拭き方も、タイヤの見方も、お客様への説明の仕方も、全部あの人に教わった。
鈴は決して、要領のいい新人ではなかった。
声は小さい。
動きは遅い。
窓を拭いただけで息が上がる。
確認漏れもする。
お客様への説明が足りず、上田店長に頭を下げさせたことも一度や二度ではなかった。
それでも、上田店長は鈴を見捨てなかった。
怒る時は怒った。
けれど、最後には必ず前に立ってくれた。
「次から気をつけろ。お前は逃げるな。俺も逃げない」
そう言われた日のことを、鈴は今でも覚えている。
だから、踏ん張れた。
フルサービスの時代は、とにかく走った。
給油レーンに車が入れば走る。
電話が鳴れば走る。
洗車機が止まれば走る。
ピットから呼ばれれば、また走る。
特に、夏と冬のタイヤ交換の時期は地獄だった。
予約表は朝から真っ黒に埋まり、電話は鳴り止まない。
給油レーンには車が並び、店内では受付待ちのお客様が腕を組んで時計を見ている。
ピットの床には外したタイヤが積み上がり、奥からはインパクトレンチの音が響く。
「渡、三番ピット空いたぞ!」
奥から上田店長の声が飛んだ。
「はい!」
鈴は返事をしながら、バックヤードの棚に置いていた、ラップに包んだおむすびを手に取った。
一口だけかじる。
冷えた米が、口の中でぼそぼそと崩れた。
昼休憩など、あってないようなものだった。
食べられる時に食べる。
座れる時に座る。
水分は飲める時に流し込む。
次の車が入れば、また立ち上がる。
鈴は残りのおむすびを慌てて包み直し、棚の隅に戻した。
食べ終える時間は、なかった。
月の残業が百時間を超えることもあった。
労働時間が三百時間に近づく月もあった。
今なら、きっと許されない働き方だった。
けれど当時の鈴は、それをおかしいと思う余裕すらなかった。
ただ、目の前の車をこなす。
目の前のお客様に対応する。
目の前の作業を終わらせる。
それだけで一日が終わった。
もちろん、心ないお客様もいた。
「予約したのに、まだ終わらないの?」
「他の店ならもっと早いよ」
「こんなに待たせるなら、最初から言ってよ」
あとで口コミに書かれることもあった。
接客が悪い。
待ち時間が長い。
説明が足りない。
その言葉を見た夜は、さすがに気持ちが沈んだ。
こっちは昼飯もまともに食べず、トイレに行く時間も惜しんで動いている。
それでも、お客様から見えるのは「待たされた」という結果だけだ。
分かっている。
分かっているけれど、納得できるわけではなかった。
それでも鈴は、タイヤを持ち上げ、ナットを締め、空気圧を確認した。
ある日のことだった。
その車は、ただのタイヤ交換のはずだった。
冬タイヤから夏タイヤへ交換するだけ。
予約表にも、そう書かれていた。
けれど、外したタイヤを確認した瞬間、鈴は手を止めた。
外側は、まだ溝があるように見える。
だが、内側が異常に減っていた。
ゴムが削れ、細い金属の線が顔を出している。
ワイヤーが出ていた。
「……これ、危ないです」
鈴はタイヤを両手で抱え、お客様の方へ向けた。
お客様は最初、きょとんとしていた。
「え? 外側はまだ大丈夫そうに見えたけど」
「内側が片減りしています。このまま走ると、最悪バーストする可能性があります」
鈴は膝をつき、ワイヤーの出ている部分を指で示した。
お客様の表情が変わる。
「……こんなになってたんだ」
「高速に乗る予定などありますか?」
「明日、仙台まで行く予定だった」
その言葉を聞いた瞬間、鈴の背中に冷たいものが走った。
もし、このまま見逃していたら。
もし、お客様がそのタイヤで高速道路を走っていたら。
考えたくなかった。
「交換した方がいいです」
鈴ははっきりと言った。
売りたいからではない。
怖かったからだ。
お客様はしばらくタイヤを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「見てもらってよかった。じゃあ、交換お願いします」
その一言で、鈴の胸の奥にあった疲れが、少しだけほどけた。
手は真っ黒だった。
腰は痛かった。
バックヤードの棚には、食べかけのおむすびが残っていた。
それでも、その時だけは思えた。
この仕事には意味がある。
ただ油を売っているだけではない。
ただタイヤを付け替えているだけではない。
お客様が気づかなかった危険に気づく。
大丈夫なものには、大丈夫ですよと伝える。
危ないものには、危ないですと伝える。
その結果、安心して帰ってもらえる。
それは、鈴にとって確かな手応えだった。
◇
やがて店はセルフスタンドになった。
お客様が自分で給油するようになり、スタッフが走って窓を拭くことは少なくなった。
それでも、忙しさが消えたわけではない。
電話は鳴る。
受付は詰まる。
ピットは埋まる。
タイヤ交換の時期になれば、結局、店は戦場になる。
ただ、仕事の形が変わっただけだった。
上田店長は、それでも変わらず現場にいた。
誰よりも先に動き、誰よりも大きな声で返事をし、誰よりも遅くまで残った。
苦しい時ほど、先頭に立っていた。
だから鈴も、何とか踏ん張れた。
閉店後。
ピットのシャッターを下ろす頃には、足は棒のようになっていた。
工具を片付け、床に落ちた砂利とゴム片を掃き、予約表を確認する。
明日の欄も、すでに黒かった。
「今日、何台やった?」
上田店長が、缶コーヒーを差し出しながら聞いた。
「覚えてないです」
鈴が笑うと、店長も笑った。
「俺も覚えてない」
缶コーヒーのプルタブを開ける音が、閉店後のピットに小さく響いた。
上田店長はコーヒーを一口飲んでから、ふと思い出したように笑った。
「しかしなぁ。車の窓拭きやらせただけで息切らして、酸欠みたいになってた渡が、ここまで働くようになるとはな」
「またそれですか」
鈴は思わず顔をしかめた。
「いい加減やめてください」
「いや、あれは忘れられないだろ。窓一枚拭いただけで、人生終わったみたいな顔してたぞ」
「してません」
「してた」
「してませんって」
そう言い返しながらも、鈴は少しだけ笑ってしまった。
あの頃の自分は、本当に何もできなかった。
給油の仕方も、窓の拭き方も、タイヤの見方も、お客様への説明の仕方も、全部分からなかった。
ミスも多かった。
怒られたこともある。
落ち込んで、もう無理だと思った日もある。
それでも上田店長は、鈴を見捨てなかった。
怒る時は怒った。
けれど最後には、必ず前に立ってくれた。
だから鈴は、この仕事を続けられた。
◇
――ピンポン。
給油許可の音が鳴った。
鈴は、はっと顔を上げた。
目の前にあるのは、昔のフルサービスの給油レーンではない。
今のセルフスタンドの監視画面だった。
お客様は自分で車を止め、自分で油種を選び、自分でノズルを握る。
スタッフが走って窓を拭く時代では、もうない。
鈴は画面を確認し、給油許可ボタンを押した。
忙しさの形は変わった。
昔より、労働時間も減った。
店の仕組みも変わった。
それなのに、体の奥に残った疲れは、あまり変わっていない気がした。
◇
その夜、鈴は家に帰ると、母の様子を確認してから風呂場へ向かった。
風呂、と言っても、湯船に浸かるわけではない。
シャワーで汗と油の匂いを流すだけだ。
熱い湯を肩に当てると、背中と腰がじんわり痛んだ。
ふくらはぎも張っている。
手のひらには、どれだけ洗っても落ちきらない黒ずみが残っていた。
シャワーを終えた鈴は、部屋着に着替え、床に座り込む。
安いマッサージローラーをふくらはぎに当て、ゆっくり転がした。
痛い。
けれど、少しだけ気持ちいい。
「……最後に、湯船に浸かったのって、いつだっけ」
口に出してみたが、すぐには思い出せなかった。
仕事。
母の介護。
洗濯。
買い物。
翌日の準備。
気づけば、湯船に湯を張ることすら面倒になっていた。
学生の頃に夢中だったゲームは、少しずつ起動しなくなった。
大好きだったMMOも、カードゲームも、読書も、いつの間にか遠くなった。
仕方ない。
社会人なんだから。
そう言い聞かせて、鈴は自分の時間をひとつずつゴミ箱に投げ込んできた。
あの頃は、間違いなくブラックだった。
休憩もろくになく、飯を食べる暇もなく、月の労働時間が三百時間に近づくこともあった。
それでも、上田店長は現場にいた。
何も知らなかった鈴を育ててくれた。
ミスをした時は叱り、それでも最後には前に立ってくれた。
危ないタイヤを見つけて、お客様に感謝された日があった。
疲れ切った体で飲む缶コーヒーは、少しだけ甘かった。
だから鈴は、まだ踏ん張れた。
仕事がきついことと、仕事に意味がないことは違う。
あの頃はきつかった。
けれど、まだ意味があった。
今よりずっと過酷だったはずなのに。
なぜか、今よりは納得できていた。




