第九話 空き家
第九話 空き家
冬だった。
郊外の住宅街には乾いた風が吹き、誰もいない庭の植栽を小さく揺らしている。
白い外壁の新築住宅は、遠目には何も変わっていなかった。
綺麗なまま。
静かなまま。
だが、その家にはもう誰も帰ってこない。
和也は門扉の前に立ち尽くしていた。
吐いた息が白い。
ポストには不動産会社のチラシが挟まっている。
『空き家管理、ご相談ください』
その文字を見ただけで、胸の奥が重く沈んだ。
鍵を開ける。
ガチャリ。
音だけが妙に響く。
玄関へ入った瞬間、新築特有の木の匂いがまだ微かに残っていた。
なのに。
冷たい。
家なのに、空気が死んでいる。
「……ただいま」
誰も返事をしない。
和也はゆっくり靴を脱いだ。
床暖房が入っている。
タイマー設定はそのままだった。
じんわりとした熱が足裏へ伝わる。
暖かい。
でも、それだけだった。
リビングへ入る。
静かだった。
大型テレビ。
オーダーソファ。
無垢材テーブル。
全部ある。
なのに生活の気配が消えている。
文香が置いていたクッションもない。
読みかけの本もない。
キッチンから匂いもしない。
ただ機械だけが生きていた。
床暖房の低い駆動音だけが、空っぽの家を温め続けている。
和也はソファへ座り込んだ。
静かすぎた。
この家は、本当はこんなに広かったのかと思う。
文香がいた頃は違った。
「この照明、暖色の方が落ち着くよね」
「床、傷つきにくい素材にしたいの」
「将来、親が泊まりやすいように和室いるかな」
いつも文香が喋っていた。
不動産屋。
住宅展示場。
ショールーム。
何軒も回った。
和也は途中から面倒になっていた。
「どれでも同じじゃん」
そう言うたび、文香は真剣な顔をした。
「違うの」
「毎日住む場所だから」
あの時は、正直よく分からなかった。
家なんて、雨風しのげれば十分だと思っていた。
だが今、この静かなリビングで一人座っていると分かる。
文香は「家」を作っていた。
自分は、ただそこへ住まわせてもらっていただけだった。
スマートフォンが震える。
会社からの通知だった。
異動辞令。
地方支社。
実質左遷だった。
あの日以降、会社の空気は変わった。
誰も露骨には言わない。
だが視線で分かる。
「新築不倫」
「風呂場」
「公開修羅場」
噂は広がっていた。
理沙は退職した。
慰謝料請求が届いたあと、居づらくなったらしい。
最後に送られてきたLINEは短かった。
『もう連絡しないでください』
それだけだった。
和也はスマートフォンを伏せる。
静かだった。
驚くほど。
この家は、元々静かな家だったのに。
前はこんな静けさじゃなかった。
文香の気配があった。
キッチンで包丁の音がした。
洗濯機の音がした。
浴室から笑い声が聞こえた。
未来の音がしていた。
今は違う。
空っぽだ。
和也はゆっくりリビングを見回した。
壁掛けテレビ。
床暖房。
介護を考えた広い廊下。
全部、文香が選んだ。
和也は何一つ考えていなかった。
「……俺だって働いてた」
小さく呟く。
だが、その言葉が虚しく響くだけだった。
文香は働いていただけじゃない。
未来を作っていた。
両親の老後。
義両親の介護。
スープの冷めない距離。
子どもができた時の部屋。
老後の転倒防止。
全部、この家へ置いていた。
和也は初めて理解する。
あの時、文香が言った言葉。
『私は、この家の住まい手なの』
その意味を。
住まい手とは、
ただローンを払う人間じゃない。
毎日の生活を考える人。
未来を置く人。
帰る場所を守る人。
文香はそうだった。
でも自分は違った。
この家を「場所」としか見ていなかった。
だから壊せた。
風呂場へ女を連れ込めた。
和也は顔を覆う。
静かな嗚咽が漏れた。
「……文香」
返事はない。
当然だった。
もう誰もいない。
和也は立ち上がり、ゆっくり浴室へ向かった。
広い浴槽。
肩湯機能。
手すり用の下地。
全部、そのままだった。
曇りガラスへ自分の姿が映る。
あの日と同じ場所。
あの日、自分はここで笑っていた。
そして全部失った。
和也は浴槽の縁へ腰を下ろした。
冷たい。
誰も使っていない浴室は、妙に冷えていた。
その時だった。
床暖房のタイマーが切れた。
リビングの駆動音が止まる。
家から、最後の温もりが消えていく。
静寂だけが残った。
和也はその音を聞きながら、ようやく理解した。
自分は一度も、この家の住まい手ではなかったのだと。




