第十話 本当の終の棲家
第十話 本当の終の棲家
春だった。
新しいマンションの窓から、柔らかな陽射しが差し込んでいる。
白いレースカーテンが風に揺れ、そのたび部屋へ淡い光が広がった。
文香は段ボールを開ける手を止め、静かに窓の外を見た。
駅前の小さなロータリー。
スーパー。
薬局。
クリニック。
少し歩けば総合病院もある。
以前の家より狭い。
庭もない。
浴室も小さい。
けれど、十分だった。
いや。
今の文香には、このくらいがちょうどよかった。
「文香、お茶入れたわよ」
キッチンから母の声が聞こえる。
「ありがとう」
振り返ると、母が湯気の立つ湯呑みをテーブルへ置いていた。
小さなダイニングテーブル。
でも窮屈ではない。
むしろ安心した。
誰かの裏切りを疑わなくていい空間だった。
父は説明書を見ながら照明を取り付けている。
「これでいいのか?」
「そこ押し込めば入るよ」
「おお、ついた」
ぱっと灯りがつく。
暖色系の柔らかな光だった。
文香は少し笑った。
「またその色選んだのか」
父が笑う。
「お前、昔から暖かい色好きだよな」
文香は小さく頷いた。
安心できるからだ。
帰ってきた時、ほっとできる明るさが好きだった。
以前の家でも、何度もサンプルを取り寄せて選んだ。
あの頃は、「家族で帰る場所」を作ろうとしていた。
今は違う。
自分が安心できる場所を作ろうとしている。
そこが決定的に違った。
母が湯呑みを渡してくる。
「駅近でよかったわねえ」
「うん」
「病院も近いし」
「スーパーも遅くまでやってるしな」
父が照明を見上げながら言う。
その何気ない会話が、文香の胸へ静かに沁みた。
前の家では、「将来」の話ばかりしていた。
介護。
老後。
住宅ローン。
子ども部屋。
ずっと先を見ていた。
でも今は違う。
今日、安心して暮らせる。
それだけでよかった。
窓から春風が入ってくる。
新しいカーテンがふわりと揺れた。
洗いたての布の匂い。
新品の家具の木の匂い。
静かな空気。
あの家とは違う。
ここには、裏切りの気配がない。
ふと、スマートフォンが震えた。
麻衣からだった。
『引っ越しどう?』
文香は少し笑う。
『なんとか終わった』
『家具組み立て終わったら腰死ぬから気をつけて』
思わず吹き出した。
母が不思議そうに見る。
「どうしたの?」
「麻衣」
「ああ、あの子ほんと頼りになったわね」
文香は頷く。
あの日。
人生が壊れた日。
麻衣が来てくれなかったら、自分は立っていられなかったかもしれない。
でも今は違う。
ちゃんと前を向いている。
リビングを見回す。
前の家よりずっと狭い。
大型テレビもない。
豪華なジェットバスもない。
床暖房もない。
けれど、不思議だった。
前より暖かい。
文香は窓辺へ歩いた。
ベランダには小さな鉢植えが並んでいる。
母が持ってきたハーブだった。
「ここ、日当たりいいわねえ」
「洗濯物乾きそうだな」
後ろで両親が話している。
その声を聞きながら、文香は静かに空を見上げた。
青かった。
あの日以来、初めて深く息を吸えた気がした。
和也のことを、完全に忘れたわけじゃない。
あの家を思い出さないわけでもない。
何十件も不動産屋を回ったこと。
スープの冷めない距離を探したこと。
将来の介護を考えて廊下を広くしたこと。
全部、本気だった。
だから傷ついた。
でも。
文香はようやく理解していた。
終の棲家というのは、豪華な家のことじゃない。
広い家でもない。
誰かに見せびらかす家でもない。
安心して眠れる場所。
自分を壊さなくていい場所。
帰ってきた時、ほっと息を吐ける場所。
それが、本当の住まいだった。
母が言う。
「ねえ文香」
「ん?」
「ここ、なんだか落ち着くわね」
文香はゆっくり笑った。
「うん」
そして窓辺へ立ったまま、小さく呟く。
「今度は、自分のために住む」
春風がカーテンを揺らした。
柔らかな光が部屋へ満ちる。
その場所にはもう、裏切りの記憶はなかった。
それが文香にとって、本当の終の棲家だった。




