第八話 判決
第八話 判決
泣き声だけが、静かなリビングへ残っていた。
義母は顔を覆ったまま肩を震わせ、実母は崩れた花束を抱え込むようにして俯いている。
理沙は完全に青ざめ、ソファの端で縮こまっていた。
そして和也は、裸のまま床へ座り込んでいる。
さっきまで怒鳴っていたのに、今はもう虚ろな顔だった。
床暖房の熱だけが、じんわり空気を温めている。
文香はそのリビングを静かに見回した。
この家のために、何年働いただろう。
何年我慢しただろう。
この場所で老いていくつもりだった。
なのに。
もう、帰りたいと思えなかった。
その時、麻衣が静かに口を開く。
「では、整理します」
弁護士の声だった。
感情を切り離した冷静な声音。
全員がそちらを見る。
麻衣はテーブルへタブレットを置いた。
「今回の件ですが、不貞行為の証拠は十分揃っています」
和也の肩が震える。
麻衣は続ける。
「録音、動画、LINE履歴、写真。継続的関係も確認済みです」
理沙が小さく嗚咽を漏らした。
麻衣は一切表情を変えない。
「その上で、文香の希望を含め、こちらの条件を提示します」
リビングの空気が張り詰める。
和也が顔を上げた。
「……条件?」
麻衣は淡々と言った。
「離婚」
和也の呼吸が止まる。
「慰謝料請求」
義母が目を閉じる。
「理沙さんへの不倫慰謝料請求」
理沙が震える。
「そして」
麻衣が一瞬だけ視線を上げた。
「家の売却」
静まり返る。
和也の顔が凍りついた。
「……は?」
麻衣は続ける。
「売却後、残債が出た場合は和也さん側負担」
数秒。
誰も動かなかった。
和也だけが呆然と口を開けている。
「待てよ……」
掠れた声だった。
「待て待て待て……!」
突然、和也が叫ぶ。
「ここまでしなくてもいいだろ!!」
怒鳴り声がリビングへ響く。
義母がびくっと震えた。
和也は半狂乱だった。
「浮気したのは悪かったよ!!」
「謝ってるだろ!!」
「なんで家まで!!」
その顔には、本気の焦りが浮かんでいた。
ようやく理解したのだ。
失うのが、ただの結婚ではないことを。
ローン。
新築。
生活。
未来。
全部崩れる。
「俺だって金出してるんだぞ!!」
和也が叫ぶ。
「俺の家でもあるだろ!!」
その瞬間。
文香が静かに口を開いた。
「違う」
和也が止まる。
文香は怒鳴らなかった。
泣きもしない。
ただ、静かだった。
「私はもう、この家に住めない」
その声が、リビングへゆっくり沈んでいく。
義母が涙を流す。
実母も俯いた。
和也だけが理解できない顔をしている。
「……なんで」
文香はゆっくり部屋を見回した。
白い壁紙。
無垢材の床。
将来、車椅子でも通れるよう広くした廊下。
全部、自分が考えて作った。
「ここ、毎日生きる場所だったの」
文香の声は静かだった。
「老後を過ごす場所だった」
「親を迎える場所だった」
「子どもを育てるかもしれない場所だった」
和也の顔が歪む。
「でも、もう違う」
文香は浴室の方を見た。
まだ湿気が残っている。
香水の匂いも消えていない。
知らない女の笑い声まで聞こえる気がした。
「もう、この家は帰る場所じゃない」
静かな声。
「傷を思い出す場所になった」
和也が首を振る。
「やり直せるだろ……!」
「無理」
即答だった。
その短さが、一番残酷だった。
「文香……」
「住まい手が壊れた家に、家族は住めない」
空気が止まる。
義父が目を閉じる。
その言葉の意味を、誰より理解していた。
文香は、この家へ人生を置いていた。
だから住めない。
家が壊れたんじゃない。
住む人の心が壊れた。
それが終わりだった。
和也は呆然とリビングを見回した。
床暖房。
オーダーカーテン。
大型テレビ。
全部、そこにある。
なのに。
もう家じゃない。
和也の喉が震える。
「……嫌だ」
子どもみたいな声だった。
「嫌だ……」
義父が低く言う。
「和也」
和也は顔を上げる。
父は息子を真っ直ぐ見ていた。
「お前、自分で終わらせたんだ」
その言葉が、重く落ちる。
義母が泣き崩れる。
理沙も俯いたまま涙を流している。
文香だけが静かだった。
感情が燃え尽きたあとみたいな顔で、ゆっくり立ち上がる。
そしてリビングの照明を見上げた。
この灯りも、自分で選んだ。
温かい色味がいいと、何度もサンプルを取り寄せた。
帰ってきた時、安心できる家にしたかった。
その家は、もう死んでいた。
文香は小さく目を閉じる。
――終わった。
そう思った。




