第六話 住まい手
第六話 住まい手
リビングには、まだテレビの残光が薄く残っていた。
浴室の映像は止まっている。
だが、さっきまで流れていた笑い声だけが、空気に染みついたみたいに消えなかった。
義母は顔を覆って泣いている。
実母も嗚咽を堪えきれず、肩を震わせていた。
理沙はソファの端で小さくなり、もう声も出せない。
その中心で。
和也だけが、荒い呼吸を繰り返していた。
裸のまま床へ座り込み、乱れた髪を掻きむしる。
「……っ」
そして突然、顔を上げた。
「じゃあどうすればよかったんだよ!」
怒鳴り声がリビングへ響く。
義母がびくりと震える。
和也の目は充血していた。
「文香は家のことしか頭になかった!」
息が荒い。
「家! 老後! 介護! 金! そんな話ばっかだっただろ!」
義父が眉をひそめる。
「和也、お前……」
「息苦しかったんだよ!!」
その瞬間だった。
文香の中で、何かが切れた。
「当たり前でしょ!!」
初めて響いた怒声だった。
リビングの空気が震える。
和也が固まる。
義母も、実母も、息を呑んだ。
文香は立ち上がっていた。
肩が震えている。
だが涙は出ていない。
その代わり、声だけが熱を帯びていた。
「私はこの家に人生置いたの!!」
和也が言葉を失う。
文香は荒い呼吸のままリビングを見回した。
白い壁紙。
床暖房の入った無垢材。
将来、車椅子でも通れるよう広くした廊下。
全部、自分が考えて決めた。
「二千万貯めた!」
声が震える。
「二十代からずっと実家暮らしして!」
「子供部屋おばさんって笑われても我慢して!」
実母が涙を流しながら顔を伏せる。
知っていたからだ。
娘がどれだけ我慢してきたか。
友達が海外旅行へ行く中、文香は弁当を作っていた。
ブランドバッグを買う同僚の横で、住宅ローンを調べていた。
ボーナスを全部定期預金へ入れていた。
全部、この家のためだった。
「旅行も服も我慢した!」
文香の声が掠れる。
「なんでだと思ってるの!」
和也が呆然と見上げる。
文香は止まらなかった。
「老後困らないためでしょ!!」
「親に何かあった時、すぐ動けるようにするためでしょ!!」
リビングへ怒声が反響する。
これまで静かだった文香が、初めて感情を剥き出しにしていた。
「私たち、一人っ子同士だったじゃない!!」
和也の顔が歪む。
「だから私は考えたの!!」
「お義父さんたちと、うちの親と、どっちにも無理なく動ける場所探したの!!」
文香の喉が震える。
「スープの冷めない距離って、こういうことなんだって、不動産屋何十件も回ったの!!」
義父が目を閉じる。
義母は泣きながら口元を押さえていた。
「坂道の傾斜まで確認した!」
「病院まで何分か調べた!」
「介護になっても暮らせるように、浴室も廊下も広くした!」
文香はリビングを見回した。
夕陽が差し込んでいる。
暖かい光だった。
その光景が、今は残酷だった。
「この家、ただの家じゃないの!!」
和也の肩が震える。
文香は胸を押さえた。
苦しかった。
悔しかった。
でも、それ以上に空しかった。
「私の人生そのものなの!!」
沈黙。
誰も言葉を返せない。
床暖房の低い駆動音だけが静かに響いている。
和也は唇を震わせた。
「……そこまでとは思わなかった」
その一言だった。
文香の表情が変わる。
怒りを通り越した顔だった。
「そう」
静かな声。
「あなた、一回も住まい手じゃなかったんだね」
和也が息を呑む。
文香はゆっくり言った。
「私はここで、親を看取るつもりだった」
実母が泣き崩れる。
「子どもができたら、この床で歩く練習するんだろうなって思ってた」
声が掠れる。
「老後、二人でここでお茶飲むんだと思ってた」
和也が顔を覆った。
「文香……」
「でもあなたは違った」
静かだった。
その静けさが一番痛かった。
「あなたにとってここは、浮気する場所だった」
理沙が嗚咽を漏らす。
義父は拳を握り締めたまま俯いている。
義母は泣き続けていた。
文香はゆっくり座り直した。
もう怒鳴らなかった。
その代わり、感情だけが全部燃え尽きたみたいな顔をしていた。
「普通の浮気なら許せたかもしれない」
和也が顔を上げる。
「でもここは違う」
文香は静かに床へ視線を落とした。
自分が選んだ床だった。
老後のために温度まで考えた床だった。
「ここは、私の終の棲家だったの」
その言葉だけが、静かなリビングへ深く沈んでいった。




