第五話 4K公開裁判
第五話 4K公開裁判
リビングには、重苦しい沈黙が落ちていた。
床暖房の熱で部屋は暖かいはずなのに、空気だけが異様に冷たい。
義母はソファの端で口元を押さえたまま動けなくなっている。実母は落としかけた花束を膝へ抱え込み、顔色を失っていた。
義父だけが怒りを押し殺したように和也を睨みつけている。
その視線から逃げるように、和也は裸のまま床へ額を擦りつけていた。
「父さん……母さん……違うんだ……」
掠れた声。
情けなかった。
ついさっきまで浴室で笑っていた男とは思えない。
理沙は壁際で小さくなっていた。濡れた髪から落ちた水滴が床へ染みを作っている。借り物のTシャツ一枚だけを着て、肩を震わせていた。
「すみません……」
泣き声がか細く漏れる。
だが誰も見なかった。
文香は無言でテレビの前へ立っていた。
六十五型の大型テレビ。
壁掛けにしたいと強く希望したのは文香だった。
「将来、親たちが泊まりに来た時、みんなで映画見れるようにしたいの」
ショールームでそう言った日のことを思い出す。
和也は笑っていた。
「文香ってほんと家族好きだよな」
その「家族」のためのテレビだった。
今は裁判の証拠映像を映すために使われる。
文香はスマートフォンを接続した。
画面が点灯する。
義母が不安そうに言う。
「文香さん……何を……」
文香は振り返らなかった。
「確認です」
短く答える。
再生ボタンを押す。
次の瞬間。
リビングへ、浴室の水音が響いた。
ちゃぷん。
ジェットバスの低い駆動音。
そして、女の笑い声。
『やだ、くすぐったいって』
『暴れるなよ』
和也の声だった。
義母が息を呑む。
義父の拳が震えた。
テレビには曇りガラス越しの二つの影が映っている。
抱き合う輪郭。
絡み合う身体。
続いて映る理沙の顔。
笑っていた。
この家の浴室で。
「……っ」
実母が口を押さえる。
涙が一気に溢れた。
「なんで……なんでこんな……」
震える声だった。
義母は完全に固まっている。
視線だけがテレビへ釘付けになっていた。
和也が叫ぶ。
「違うんだ!」
床へ這いつくばったまま顔を上げる。
「魔が差したんだよ!」
義父が怒鳴った。
「魔が差して風呂入るか!!」
怒声がリビングを震わせる。
理沙が悲鳴みたいな声を漏らした。
「ひっ……」
和也は必死だった。
「ほんとに一回だけなんだ!」
その瞬間、麻衣が冷たく口を開いた。
「一回ではありませんね」
空気が止まる。
麻衣はスマートフォンを取り出した。
「LINE履歴、確認済みです」
和也の顔色が変わる。
「……っ」
麻衣は淡々としていた。
感情ではなく、事実だけを並べる弁護士の声だった。
「昨日の続きしたい」
「来週もお家行きたい」
「またあのお風呂入りたい」
実母が泣き崩れる。
「お家って……」
その言葉が、文香の胸へ深く刺さった。
お家。
理沙はこの場所を、そう呼んでいた。
文香が二千万円を貯めて建てた家を。
親の老後を考えて探し回った土地を。
将来の介護まで見据えて設計した終の棲家を。
浮気相手が「お家」と呼んで笑っていた。
麻衣がさらに画面を切り替える。
ホテルの写真。
ツーショット。
居酒屋。
車内。
何枚も、何枚も並んでいく。
「継続性がありますね」
麻衣の声は冷静だった。
「長期不倫です」
和也が絶望した顔で首を振る。
「やめろ……」
だが止まらない。
テレビには、この家のリビング写真まで映っていた。
床暖房の上へ寝転がる理沙。
笑顔。
『この家ほんと好き♡』
義母が嗚咽を漏らした。
「なんで……」
義父は目を閉じたまま低く言う。
「和也」
その声だけで空気が張り詰める。
「お前、自分が何を壊したか分かってるのか」
和也は泣きそうな顔で父を見る。
「父さん……」
だが義父は続けた。
「お前たち、一人っ子同士だっただろ」
静かな声だった。
「だからこの家を選んだんだろうが」
リビングが静まり返る。
義父の視線が部屋をゆっくり見回す。
「お互いの親に何かあった時、動きやすい場所探して」
「介護も考えて」
「老後も考えて」
その言葉を聞きながら、文香は静かにテレビを見つめていた。
そうだった。
この場所は偶然じゃない。
義両親にも、実両親にも、何かあればすぐ行ける。
でも近すぎて互いを疲れさせない。
何十件も不動産屋を回って決めた土地だった。
坂道の傾斜まで確認した。
病院までの距離も見た。
全部、「住む」ためだった。
遊ぶためじゃない。
義父が低く呟く。
「文香さんが、どれだけ考えてたか……」
そこで声が詰まる。
義母は泣きながら言った。
「この家、ほんとに楽しみにしてたのに……」
実母も涙を流している。
「孫できたら、ここで遊ぶんだと思ってた……」
和也は何も言えなくなっていた。
裸のまま床へ崩れ落ちている。
文香はゆっくり口を開いた。
「普通の浮気なら、許せたかもしれない」
全員が顔を上げる。
「ホテルなら、まだ現実逃避だと思えた」
声は静かだった。
でも、その静けさが一番怖かった。
「でもここは違う」
文香はリビングを見回す。
自分が選んだ床。
家具。
カーテン。
将来を置いた場所。
「ここは、私たちの老後だったの」
和也の肩が震える。
「私は、この家の住まい手だったの」
夕陽がリビングへ差し込んでいた。
暖かい光だった。
なのに、誰一人暖かくなれなかった。




