第四話 開廷、新築リビング
第四話 開廷、新築リビング
ピンポーン。
インターホンの音が、静まり返った家へ響いた。
和也の肩がびくりと跳ねる。
「やめろ……」
掠れた声だった。
裸のまま床へ額を擦りつけ、和也は震えている。床暖房の熱で温められた無垢材フローリングへ、汗と水滴が滲んでいた。
理沙は壁際で小さく縮こまっている。濡れた髪。借りた和也のTシャツ一枚。泣きすぎたのか、目元のアイラインが滲んで黒く崩れていた。
リビングにはまだ浴室の湿気が残っている。
甘ったるい香水の匂い。
ジェットバスの湯気。
知らない女の存在感。
その全部が、文香の大切にしてきた家へ染みついていた。
文香は玄関へ向かう。
足音だけが静かに響く。
床暖房のぬくもりが足裏へ伝わった。
自分で選んだ床だった。
ショールームで何度も触った。
車椅子でも傷つきにくい素材を調べた。
老後、転倒しにくい加工を選んだ。
その床の上で、今、夫が裸で土下座している。
文香は玄関を開けた。
「こんばんはー」
最初に入ってきたのは義母だった。
明るいベージュのコートを着て、両手で和菓子の箱を抱えている。
「急に呼ぶからびっくりしたわよ」
その後ろから義父が入る。
「何があったんだ?」
さらに実母。
花束を抱えていた。
「文香、この花すごく綺麗で――」
そこで言葉が止まる。
リビングが見えたからだった。
義母の笑顔が凍る。
義父の目が見開かれる。
実母の腕から、花束がずるりと落ちそうになる。
裸で土下座している和也。
半泣きで震える若い女。
無表情で立っている文香。
空気が異常だった。
「……なに、これ」
実母の声が掠れる。
和也が顔を上げた。
「母さん、違うんだ……!」
義母が後退る。
「か、和也……?」
義父の顔色が変わる。
「お前、その格好……」
和也は慌てて身体を隠そうとしたが、もう遅かった。
裸だった。
全身が見えていた。
床へ擦りつけた額は赤くなり、情けないほど震えている。
「違うんだよ!」
半狂乱みたいに叫ぶ。
「ほんとに魔が差して……!」
その瞬間、義父が怒鳴った。
「黙れ!」
リビングが震える。
理沙がびくりと肩を跳ねさせた。
義父は息子を睨みつけている。
「お前、自分が何してるか分かってるのか!」
「父さん……!」
義母が口元を押さえる。
「嘘……嘘でしょ……」
実母は文香を見た。
「文香……これ……」
文香は静かだった。
泣いていない。
怒鳴ってもいない。
ただ、感情だけが全部凍ったみたいな顔をしていた。
「中、入って」
その声だけが妙に落ち着いていた。
全員が重たい足取りでリビングへ入る。
新築の匂いがまだ残っている。
無垢材テーブル。
オーダーソファ。
将来、親が年を取っても座りやすいよう選んだ少し硬めの椅子。
その空間が今、異様な裁判場みたいになっていた。
ピンポーン。
再びインターホンが鳴る。
文香が玄関へ向かう。
ドアを開けると、黒いパンツスーツ姿の麻衣が立っていた。
「……うわ」
中を見た瞬間、顔が引きつる。
「想像以上だね」
「来てくれてありがとう」
麻衣は小さく頷くと、すぐ表情を切り替えた。
弁護士の顔だった。
「証拠は?」
「録音、動画、LINE」
「保存した?」
「全部」
「よし」
短いやり取り。
麻衣はリビングへ入ると、裸の和也を見下ろした。
「随分と分かりやすい現場ね」
「麻衣さん……!」
「今は喋らない方がいいですよ。全部録音されてるから」
和也の顔から血の気が引いた。
理沙はもう涙が止まらない。
「わ、私は帰ります……!」
逃げるように立ち上がる。
だが文香が静かに言った。
「帰ってもいいよ」
理沙が止まる。
「ただ、その場合は会社へ内容証明送る」
理沙の顔が真っ白になる。
「え……」
「ここで最後まで座って」
静かな声だった。
怒鳴らない。
だから余計に怖い。
理沙はその場へ崩れ落ちた。
「すみません……」
泣き声が響く。
義母が椅子へ座り込み、呆然と呟く。
「なんで……新築なのに……」
その言葉が、文香の胸へ深く刺さった。
新築。
その一言に、何年もの時間が詰まっている。
二千万円。
実家暮らし。
子供部屋おばさんという陰口。
将来設計。
介護。
スープの冷めない距離。
全部、この家のためだった。
文香はゆっくりリビングを見回した。
夕陽が白い壁へ差し込んでいる。
その柔らかな光景が、今はやけに残酷だった。
そして静かに口を開く。
「今日は」
全員の視線が集まる。
和也が震える。
義父が息を呑む。
理沙が泣きながら顔を上げる。
文香は無表情のまま言った。
「この家が事故物件になった件について、お集まりいただきました」




