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第三話 確信と記録

第三話 確信と記録


 インターホンが鳴り終わったあとも、リビングには重たい沈黙が張りついていた。


 床暖房のぬくもりだけが、静かに空気を温めている。


 その温度が逆に苦しかった。


 和也は裸のままフローリングへ額を擦りつけていた。


「頼む……頼むから……」


 声が震えている。


 さっきまで浴室で笑っていた男とは別人みたいだった。


 理沙は壁際で立ち尽くしている。濡れた髪から水滴がぽたぽた落ち、和也のTシャツ一枚だけを着た身体が小さく震えていた。


「……どうしよう……」


 半泣きの声。


 だが文香は二人を見なかった。


 静かにソファへ座り直す。


 新築特有の木の匂いがする。


 オーダーソファの革の感触。無垢材テーブルの滑らかな木肌。夕陽が白い壁へ反射して、部屋全体を柔らかく照らしていた。


 この家は、文香が人生を置いた場所だった。


 それなのに今、浴室からはまだ甘い香水の匂いが漂ってくる。


 知らない女の匂い。


 その時だった。


 ピコン。


 静かなリビングに電子音が響いた。


 和也のスマートフォンだった。


 ソファへ無造作に放り出された画面が点灯している。


 送り主は、『りーちゃん♡』。


 文香の視線が止まる。


 和也が顔を上げた。


「……見るな」


 掠れた声。


 だが文香は動かなかった。


 通知だけでも内容は見える。


『昨日の続きしたい♡』


 文香の眉がわずかに動く。


 昨日。


 続き。


 一回じゃない。


 その意味を理解した瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。


 さらに通知が鳴る。


『来週もお家行きたい』


 お家。


 ホテルじゃない。


 この家だ。


 床暖房の効いたこのリビング。


 将来、親が遊びに来ることを考えて広く取った浴室。


 その全部を、この女は「お家」と呼んでいる。


「やめろ……」


 和也が震える声を出す。


「頼むから見るな……」


 文香は静かにスマートフォンを手に取った。


 ロックは解除されたままだった。


 指先が冷たい。


 なのに頭だけが異様に冴えている。


 画面を開く。


 LINE履歴が並んでいた。


『今日も奥さん帰り遅い?』


『またあのお風呂入りたい♡』


『新築ってテンション上がるね』


『奥さんいないと落ち着く笑』


 文香は呼吸を止めた。


 視界が急に鮮明になる。


 画面に表示された日付。


 一週間前。


 二週間前。


 一ヶ月前。


 スクロールしても終わらない。


 大量の履歴。


 大量の会話。


 その中に、自分の知らない和也がいた。


 絵文字を使って笑う和也。


 甘えた言葉を返す和也。


 自分には向けなかった軽い口調。


 文香は無言でスクリーンショットを撮り始めた。


 日時。


 会話。


 写真。


 全部保存する。


「文香……」


 和也が這うように近づく。


「違うんだ……」


「何が?」


 初めて視線を向ける。


 和也の顔は涙と汗でぐしゃぐしゃだった。


「遊びだったんだよ……!」


「何回?」


「……え」


「何回、この家へ連れてきたの」


 和也の顔が凍る。


 答えられない。


 それだけで十分だった。


 文香は再び画面へ視線を落とす。


 写真フォルダを開く。


 ホテル。


 居酒屋。


 車の助手席。


 理沙が笑っている。


 和也が肩を抱いている。


 その中に、一枚だけ自宅の写真が混ざっていた。


 この家のリビングだった。


 床暖房の上で、理沙が寝転がって笑っている。


『この家ほんと好き♡』


 そのメッセージを見た瞬間だった。


 文香の中で、何かが完全に凍った。


 悲しい、ではなかった。


 苦しい、でもない。


 もっと静かなものだった。


 理解。


 ああ、この人。


 ずっと壊してたんだ。


 自分が何十年もかけて作った未来を。


 住まいを。


 人生を。


 和也が床へ額を擦りつける。


「頼むから親には……!」


 文香はスマートフォンをテーブルへ置いた。


 録音アプリの波形が静かに動いている。


 証拠。


 会話。


 写真。


 全部揃っていく。


 頭の中へ、仕事みたいに単語が並び始めた。


 慰謝料。


 不貞行為。


 財産分与。


 住宅ローン。


 証拠保全。


 逃走防止。


 感情がどんどん遠ざかる。


 代わりに残るのは、冷たい処理能力だった。


「文香……」


 和也の声が掠れる。


「ほんとに悪かった……」


 文香は静かに言った。


「逃げないで」


 和也が息を呑む。


「……え」


「最後まで座ってて」


 その時、再びインターホンが鳴った。


 ピンポーン。


 全員の肩が跳ねる。


 義母の明るい声が玄関越しに響いた。


「文香さんー? 急にどうしたのー?」


 続いて低い義父の声。


「何かあったのか」


 和也の顔から血の気が引いていく。


「やめろ……」


 だが文香は立ち上がった。


 静かに。


 無表情のまま。


 そして玄関へ向かう。


 床暖房の熱が足裏へ伝わる。


 暖かい。


 でも、もうこの家は戻らない。


 文香は玄関の鍵へ手を伸ばした。



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