第二話 浴室の裏切り
第二話 浴室の裏切り
浴室の曇りガラスの向こうで、二つの影が揺れていた。
ジェットバスの低い駆動音。湯が循環する水音。女の甘ったるい笑い声。
「ほんと広いよね、このお風呂」
「だろ? うちの嫁、こういうの無駄にこだわるから」
二人が笑う。
文香は脱衣所の前に立ったまま、スマートフォンを握り締めていた。
録画ランプの赤い点が、小さく灯っている。
床暖房の熱が足裏へじんわり伝わる。暖かいはずなのに、身体の芯だけが冷えていく。
怒鳴り込もうとは思わなかった。
浴室を開けようとも思わなかった。
その瞬間、文香の中で何かが切り替わっていた。
感情より先に、頭が動いていた。
――証拠。
まず残す。
逃げ道を消す。
泣くのは後。
文香は録音アプリを起動した。
波形が静かに揺れ始める。
和也の声。
女の声。
水音。
全部残る。
「ねえ、奥さん今日ほんと帰ってこないの?」
「会議あるって言ってたし」
「よかったあ」
くすくす笑う声。
文香は目を閉じた。
胸が痛いのに、頭だけが異様に冷静だった。
そのまま静かに廊下を戻る。
リビングへ入ると、新築の木の匂いがした。
オーダーカーテン。無垢材のテーブル。造作棚。全部、自分が選んだ。
将来、親がここでお茶を飲むかもしれないと思った。
子どもが宿題をするかもしれないと思った。
老後、和也と並んでテレビを見るかもしれないと思った。
その場所で。
今、夫は風呂で知らない女を抱いている。
文香はソファへ腰を下ろした。
そして最初に、麻衣へ電話をかけた。
三コール目で出る。
「もしもし?」
「麻衣」
「どうした?」
「和也が家で不倫してる」
一瞬、沈黙。
「……は?」
「今、風呂入ってる」
麻衣の呼吸が変わる。
「証拠取った?」
「録音中」
「絶対感情的になるな」
「ならない」
即答だった。
「今から来れる?」
「行く。三十分」
「お願い」
通話を切る。
次に義父へ電話をかける。
「もしもし?」
「お義父さん、文香です」
「ああ、どうした?」
「今から家へ来ていただけますか」
義父の声が少し緊張する。
「何かあったのか?」
浴室から女の笑い声が響く。
文香は静かに答えた。
「和也のことで、お話があります」
数秒の沈黙。
「……分かった。母さん連れて行く」
「お願いします」
続けて実家へ電話する。
母の明るい声。
「あら文香、珍しい時間ねえ」
「お父さんいる?」
「いるけど、どうしたの?」
「二人で今から家来て」
母の声が止まる。
「何かあった?」
「来てほしいの」
電話の向こうで父へ受話器が渡される音がした。
「文香」
低い声。
「どうした」
「今から来て」
父はそれ以上聞かなかった。
「分かった」
通話が終わる。
文香は静かにスマートフォンを置いた。
リビングには夕陽が差し込んでいる。
床暖房のぬくもりが静かに広がっていた。
二千万円。
この家のために貯めた金だった。
子供部屋おばさんと笑われても我慢した。
旅行も、服も、ブランド物も我慢した。
将来、親に何かあった時すぐ動けるよう、「スープの冷めない距離」を探して、この土地を見つけた。
近すぎず、遠すぎない。
義両親にも、実両親にも、無理なく通える場所。
坂道の少なさも、病院までの距離も確認した。
全部、この家で生きていくためだった。
ここは、ただの家じゃない。
自分の人生そのものだった。
その時、脱衣所のドアが開く音がした。
文香はゆっくり顔を上げる。
最初に出てきたのは若い女だった。
二十代前半くらい。
濡れた髪。火照った頬。和也のTシャツ一枚だけを着ている。
女はリビングの文香を見た瞬間、固まった。
「……え」
その後ろから和也が出てくる。
裸だった。
タオルすら巻いていない。
文香と目が合った瞬間、顔面から血の気が消えた。
「……文香」
声が裏返る。
リビングが静まり返る。
ジェットバスの音だけが遠くで響いていた。
文香はソファに座ったまま言った。
「お風呂、楽しかった?」
和也の喉が鳴る。
「いや、これは……」
「今、両親呼んだから」
その瞬間だった。
和也の膝から力が抜けた。
「……は?」
「麻衣も来る」
「待て待て待て!」
和也が慌てて近づこうとする。
「違うんだ!」
「何が?」
「その……魔が差して……!」
文香は無表情だった。
その顔を見た瞬間、和也の目に本物の恐怖が浮かぶ。
「文香、頼む……!」
和也はその場へ崩れ落ちた。
裸のまま。
新築の無垢材フローリングへ額を擦りつける。
「頼むからやめてくれ……!」
理沙は壁際で震えていた。
「え……えっと……」
文香は静かに二人を見下ろした。
怒鳴らない。
泣かない。
その代わり、声だけが冷たかった。
「普通の浮気なら許せた」
和也が顔を上げる。
「……え」
「ホテルなら、まだ現実逃避だったって思えた」
リビングへ夕陽が差し込む。
床暖房の熱が静かに空気を温めていた。
「でもここは違う」
文香はゆっくり部屋を見回した。
自分が選んだ床。
自分が選んだ家具。
将来を置いた場所。
「ここは私の終の棲家なの」
和也の肩が震える。
「私は、この家の住まい手なの」
その瞬間。
インターホンが鳴った。
ピンポーン。
全員の身体が跳ねる。
義母の明るい声が、玄関の向こうから響いた。
「文香さんー? 来たわよー!」




