第一話 理想の家
第一話 理想の家
新しい家には、まだ木の匂いが残っていた。
玄関の扉を開けるたび、文香は胸の奥が静かに満たされる。この匂いを嗅ぐたび、「やっと帰れる場所ができた」と思えた。
白い壁紙。段差のない床。将来、車椅子でも通れるよう広めに取った廊下。夕陽が差し込むと、無垢材の床は蜂蜜みたいな色に変わる。
「やっぱり、この床いいなあ……」
誰もいないリビングで小さく呟く。
裸足になると、床暖房の熱がじんわり足裏へ広がった。冬場のヒートショック対策として、かなり予算をかけた設備だった。
この家は、文香の人生そのものだった。
三十四歳。経理管理職。
数字を間違えない代わりに、人生設計も曖昧にできない性格だと自分でも思う。
だから家づくりにも妥協しなかった。
全館床暖房。老後を見据えた引き戸。介護しやすい回遊導線。一階だけで生活できる間取り。浴室には将来手すりを付けられるよう下地補強を入れた。
その家のために、文香は二千万円を貯めた。
二十代の頃から実家暮らしを続け、「子供部屋おばさん」と陰で笑われても気にしなかった。
「まだ実家なの?」
「一人暮らししないの?」
「親に甘えてるって思われるよ?」
飲み会でそう言われるたび、苦笑いでやり過ごした。
目的があったからだ。
老後に困らない家を持つこと。
親を安心させること。
将来の家族を守れる場所を作ること。
だからブランド物も海外旅行も我慢した。
ボーナスは定期預金へ回した。
昼食は手作り弁当。
同期が高級バッグを買う横で、文香は住宅ローン控除や固定資産税を調べていた。
土地選びにも時間をかけた。
「スープの冷めない距離が理想ですね」
不動産屋にそう言われた時、文香は深く頷いた。
近すぎず、遠すぎない。
義両親にも、実両親にも、何かあればすぐ動ける。
でも互いの生活へ踏み込みすぎない。
介護が必要になった時、無理なく通える。
その距離感を探して、何十件も物件を見て回った。
坂道が急すぎる場所はやめた。
病院が遠い場所も外した。
駅から暗い道を通る土地も避けた。
和也はそんな文香を見て笑っていた。
「老後考えすぎだろ」
「今考えないと遅いの」
「真面目だよなあ、文香って」
そう言って笑う和也を見るのが好きだった。
住宅ローン契約の日、役所帰りに二人で食べたラーメンの味まで覚えている。和也は曇った眼鏡を外しながら笑った。
「これで俺たち、本当に家族って感じだな」
あの時、疑いもしなかった。
この人と、ここで老いていくのだと思っていた。
その日、文香が早く帰宅したのは偶然だった。
午後から予定されていた会議が急遽中止になったのだ。時計はまだ午後三時を少し回った頃。こんな時間に帰宅することは滅多にない。
駅から住宅街へ向かう道には、金木犀の香りが漂っていた。少し冷たい風が頬を撫でる。遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
今日は和也も休みのはずだった。
「ケーキでも買えばよかったかな」
そんなことを考えながら門扉を開ける。
白い外壁が夕陽を浴びて静かに光っていた。
玄関の鍵を回す。
ガチャリ。
「ただいま」
返事はない。
その代わり、文香は違和感に気づいた。
玄関に、見慣れないヒールがあった。
白いエナメルのパンプス。
細いストラップ。
尖ったつま先。
若い女が履くような靴だった。
文香は動きを止めた。
「……誰?」
小さく声が漏れる。
和也の母のものではない。
友人のものでもない。
そもそも、今日誰かが来るなんて聞いていなかった。
胸の奥がざわつく。
その時だった。
廊下の奥から、女の笑い声が聞こえた。
甘えるような、高い声。
「やだ、くすぐったいって」
「暴れるなよ」
和也の声だった。
文香の喉が、ひくりと鳴る。
床暖房の熱がスリッパ越しに伝わるのに、指先だけが妙に冷たかった。
嫌な予感が、ゆっくり背骨を這い上がってくる。
文香は無言で廊下を歩いた。
静かな家だった。
だからこそ、水音がやけに鮮明に聞こえる。
ちゃぷん。
笑い声。
洗面所の前まで来た時、甘い香水の匂いが漂った。
見覚えのないベージュのカーディガンが脱衣所の床へ落ちている。
若い女物だった。
和也のものではない。
もちろん文香のものでもない。
視界が急に鮮明になる。
洗面台に飛んだ水滴。脱衣かごに突っ込まれた和也のシャツ。床に落ちた長い髪の毛一本まで見える。
浴室の曇りガラスの向こうに、二つの影が揺れていた。
抱き合っている。
文香は瞬きを忘れた。
ジェットバス。
あれは、自分が選んだ浴槽だった。
将来、親を介護する時に身体を支えやすいよう広めに設計した。和也が疲れて帰宅した時、少しでも癒やされるよう肩湯機能まで付けた。
ショールームを何軒も回った。
「ここまでこだわる?」
呆れながら笑っていた和也を思い出す。
「毎日使う場所だから妥協したくないの」
「まあ、文香が嬉しいならいいけど」
あの時の声が耳に蘇る。
ガラスの向こうで女が笑った。
「ねえ、奥さん今日遅いんでしょ?」
「会議あるからな。帰ってこないよ」
その瞬間だった。
文香の中で、何かが静かに壊れた。
怒鳴り声ではない。
悲鳴でもない。
もっと冷たいものだった。
ここは、自分の終の棲家だった。
自分が住まい手だった。
その場所で。
和也は、知らない女を抱いて笑っている。
文香はゆっくりスマートフォンを取り出した。
震える指で録画ボタンを押す。
赤いランプが灯る。
浴室の向こうでは、まだ笑い声が続いていた。




