表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/11

第一話 理想の家

第一話 理想の家


 新しい家には、まだ木の匂いが残っていた。


 玄関の扉を開けるたび、文香は胸の奥が静かに満たされる。この匂いを嗅ぐたび、「やっと帰れる場所ができた」と思えた。


 白い壁紙。段差のない床。将来、車椅子でも通れるよう広めに取った廊下。夕陽が差し込むと、無垢材の床は蜂蜜みたいな色に変わる。


「やっぱり、この床いいなあ……」


 誰もいないリビングで小さく呟く。


 裸足になると、床暖房の熱がじんわり足裏へ広がった。冬場のヒートショック対策として、かなり予算をかけた設備だった。


 この家は、文香の人生そのものだった。


 三十四歳。経理管理職。


 数字を間違えない代わりに、人生設計も曖昧にできない性格だと自分でも思う。


 だから家づくりにも妥協しなかった。


 全館床暖房。老後を見据えた引き戸。介護しやすい回遊導線。一階だけで生活できる間取り。浴室には将来手すりを付けられるよう下地補強を入れた。


 その家のために、文香は二千万円を貯めた。


 二十代の頃から実家暮らしを続け、「子供部屋おばさん」と陰で笑われても気にしなかった。


「まだ実家なの?」


「一人暮らししないの?」


「親に甘えてるって思われるよ?」


 飲み会でそう言われるたび、苦笑いでやり過ごした。


 目的があったからだ。


 老後に困らない家を持つこと。


 親を安心させること。


 将来の家族を守れる場所を作ること。


 だからブランド物も海外旅行も我慢した。


 ボーナスは定期預金へ回した。


 昼食は手作り弁当。


 同期が高級バッグを買う横で、文香は住宅ローン控除や固定資産税を調べていた。


 土地選びにも時間をかけた。


「スープの冷めない距離が理想ですね」


 不動産屋にそう言われた時、文香は深く頷いた。


 近すぎず、遠すぎない。


 義両親にも、実両親にも、何かあればすぐ動ける。


 でも互いの生活へ踏み込みすぎない。


 介護が必要になった時、無理なく通える。


 その距離感を探して、何十件も物件を見て回った。


 坂道が急すぎる場所はやめた。


 病院が遠い場所も外した。


 駅から暗い道を通る土地も避けた。


 和也はそんな文香を見て笑っていた。


「老後考えすぎだろ」


「今考えないと遅いの」


「真面目だよなあ、文香って」


 そう言って笑う和也を見るのが好きだった。


 住宅ローン契約の日、役所帰りに二人で食べたラーメンの味まで覚えている。和也は曇った眼鏡を外しながら笑った。


「これで俺たち、本当に家族って感じだな」


 あの時、疑いもしなかった。


 この人と、ここで老いていくのだと思っていた。


 その日、文香が早く帰宅したのは偶然だった。


 午後から予定されていた会議が急遽中止になったのだ。時計はまだ午後三時を少し回った頃。こんな時間に帰宅することは滅多にない。


 駅から住宅街へ向かう道には、金木犀の香りが漂っていた。少し冷たい風が頬を撫でる。遠くで子どもの笑い声が聞こえた。


 今日は和也も休みのはずだった。


「ケーキでも買えばよかったかな」


 そんなことを考えながら門扉を開ける。


 白い外壁が夕陽を浴びて静かに光っていた。


 玄関の鍵を回す。


 ガチャリ。


「ただいま」


 返事はない。


 その代わり、文香は違和感に気づいた。


 玄関に、見慣れないヒールがあった。


 白いエナメルのパンプス。


 細いストラップ。


 尖ったつま先。


 若い女が履くような靴だった。


 文香は動きを止めた。


「……誰?」


 小さく声が漏れる。


 和也の母のものではない。


 友人のものでもない。


 そもそも、今日誰かが来るなんて聞いていなかった。


 胸の奥がざわつく。


 その時だった。


 廊下の奥から、女の笑い声が聞こえた。


 甘えるような、高い声。


「やだ、くすぐったいって」


「暴れるなよ」


 和也の声だった。


 文香の喉が、ひくりと鳴る。


 床暖房の熱がスリッパ越しに伝わるのに、指先だけが妙に冷たかった。


 嫌な予感が、ゆっくり背骨を這い上がってくる。


 文香は無言で廊下を歩いた。


 静かな家だった。


 だからこそ、水音がやけに鮮明に聞こえる。


 ちゃぷん。


 笑い声。


 洗面所の前まで来た時、甘い香水の匂いが漂った。


 見覚えのないベージュのカーディガンが脱衣所の床へ落ちている。


 若い女物だった。


 和也のものではない。


 もちろん文香のものでもない。


 視界が急に鮮明になる。


 洗面台に飛んだ水滴。脱衣かごに突っ込まれた和也のシャツ。床に落ちた長い髪の毛一本まで見える。


 浴室の曇りガラスの向こうに、二つの影が揺れていた。


 抱き合っている。


 文香は瞬きを忘れた。


 ジェットバス。


 あれは、自分が選んだ浴槽だった。


 将来、親を介護する時に身体を支えやすいよう広めに設計した。和也が疲れて帰宅した時、少しでも癒やされるよう肩湯機能まで付けた。


 ショールームを何軒も回った。


「ここまでこだわる?」


 呆れながら笑っていた和也を思い出す。


「毎日使う場所だから妥協したくないの」


「まあ、文香が嬉しいならいいけど」


 あの時の声が耳に蘇る。


 ガラスの向こうで女が笑った。


「ねえ、奥さん今日遅いんでしょ?」


「会議あるからな。帰ってこないよ」


 その瞬間だった。


 文香の中で、何かが静かに壊れた。


 怒鳴り声ではない。


 悲鳴でもない。


 もっと冷たいものだった。


 ここは、自分の終の棲家だった。


 自分が住まい手だった。


 その場所で。


 和也は、知らない女を抱いて笑っている。


 文香はゆっくりスマートフォンを取り出した。


 震える指で録画ボタンを押す。


 赤いランプが灯る。


 浴室の向こうでは、まだ笑い声が続いていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ