第二章 朱雀の目覚め 第八話 『再会』
「おかえりなさいませ。お勤め、ご苦労様でした。」
皇宮へ足を踏み入れると、一人の女房が篤久と新太の二人を穏やかな笑みで出迎えた。
「おぅ、美乃香。夜番ご苦労。」
新太が気さくに声を掛ける。
「こんな夜更けに悪いが、お二方に謁見を頼む。」
篤久が静かに告げると、美乃香は柔らかく一礼した。
「承っております。」
皇宮内は武器の持ち込みが禁じられている。
二人は腰の刀を外し、美乃香へ預けた。
「本成様は、すでにお二方のもとへ向かわれておりますわ。」
「あいつ、もう行ったのか。」
新太が肩を竦める。
美乃香は空色の瞳を細め、奥の間へ続く廊下へ静かに手を差し向けた。
「はい。既にお待ちでございます。」
二人は小さく頷くと、長い廊下を並んで歩き出した。
※ ※ ※
「あぁ、二人とも。お疲れ様。」
先に到着していた本成が顔を上げ、柔らかな笑みを向ける。
篤久は短く頷いた。
本来なら、通信鏡に応じなかった理由を問い質すつもりだった。
だが――。
御簾の向こうに気配を感じた瞬間、その言葉を飲み込む。
右手の手袋を外し、静かに腰を下ろす。
露わになった手の甲には、青龍の守護者である証――守護紋が浮かんでいた。
三人は揃って頭を垂れる。
「妖魔退治、ご苦労だったわね。」
「今回は楽勝だったみたいね。」
御簾越しに、なぎの上とあずの声が響く。
真っ先に口を開いたのは新太だった。
「いやぁ、今回は篤久が全部倒しちゃったんで、俺の出番なかったっす。」
「全部ではありません。」
篤久は静かに訂正する。
「私が到着する前に、一体は退治されていました。」
「は?」
新太が眉をひそめた。
「誰が倒したんだよ。」
篤久は答えない。
ただ、真っ直ぐ御簾の向こうを見据える。
「……お二人は、ご存じのはずです。」
部屋の空気が張り詰める。
「麒麟の守護者であるお二方が、朱雀の存在をご存じないはずがない。」
静寂が落ちる。
誰も答えない。
しかし、それは否定ではなかった。
御簾越しに伝わる張り詰めた空気。
その沈黙だけで、篤久には十分だった。
篤久は静かに本成へ視線を向ける。
「本成。」
低い声が部屋に響く。
「お前も感じ取ったんじゃないのか。」
「玄武なら分かるだろ。」
本成は困ったように笑った。
「あー、それなんだけど――」
「本成。」
御簾の向こうから名を呼ばれる。
本成は「あちゃー」とでも言いたげに肩を竦めた。
「……そういうこと。」
それ以上は何も言わない。
いや、言えないのだ。
篤久は小さく息をつく。
やはり、二人は何かを隠している。
その時だった。
――チリン。
どこか懐かしい鈴の音が、静まり返った部屋へ小さく響く。
篤久だけが、はっと顔を上げた。
聞き覚えがある。
忘れられるはずがない。
五年前。
何度も耳にした、小さな鈴の音だった。
その直後。
「あはっ。」
不意に、部屋の奥から少女の笑い声が響いた。
三人は同時に振り返る。
気配はなかった。
誰一人として、その存在に気付けなかった。
「誰だ!」
新太が鋭く声を張る。
だが、篤久だけは違った。
その声を耳にした瞬間、心臓が大きく脈打つ。
聞き覚えがあった。
忘れられるはずがない。
五年前、幾度となく耳にした声だった。
ゆっくりと御簾が上がる。
姿を現した少女は、困ったように笑いながら肩をすくめた。
「もう隠すのは無理ですって。」
「青龍には姿、見られちゃってますもん。」
篤久は息を呑む。
ようやく見つけた。
五年間、探し続けた少女が、今、目の前にいる。
「……出てくるんじゃないわよ。」
御簾の向こうから、あずの呆れた声が飛ぶ。
「せっかく隠し通そうとしてたのに。」
ミサは苦笑しながら、小さく頭をかいた。
「だって、青龍の守護者さんには隠し切れないと思って。」
その言葉に促されるように、被衣で顔を隠した少女が静かに歩み出る。
三人の前で足を止めると、新太が目を細めた。
「もしかして……朱雀か?」
「みたいだね。」
本成が穏やかに頷く。
二人は少女へ向き直るが、篤久だけは一歩後ろから動けなかった。
目の前にいる少女から、どうしても視線を逸らせない。
五年間、探し続けた存在。
鼓動だけが、少しずつ速くなっていく。
「ふーん。で、なんで顔隠してるんだ?」
新太がミサの目の前まで歩み寄る。
大人と子供ほどの身長差。
その瞬間、ふわりと柑橘の香りがミサの鼻先をかすめた。
「初めまして。白虎の守護者さん?」
見上げながら少し低めの声で微笑む。
――次の瞬間だった。
新太の瞳が鋭く変わる。
「!」
手刀が一直線に振り下ろされた。
しかしミサは紙一重で身を捻り、胸元から抜いたくないを新太の胸へ寸止めする。
一瞬で部屋の空気が張り詰めた。
「……へぇ。」
新太は口角を上げた。
「やるじゃねぇか。」
その時。
新太の喉元には、もう一本の手刀が添えられていた。
篤久だった。
本成だけは微動だにせず、そのやり取りを面白そうに眺めている。
「なんで、篤久まで俺を狙うんだ!?」
新太が二人の手を払い、腕を組む。
篤久は静かに言った。
「……女性にいきなり殺気を向けるな。」
「えっ!?女?朱雀が!?」
新太が素っ頓狂な声を上げる。
――やっぱり気付いてなかったか。
篤久は呆れながらもミサへ視線を向けた。
ミサはくないをしまい、小さく息をつくと、ゆっくりと被衣を外した。
軽く結われた黒髪がさらりと肩へ落ち、隠れていた素顔が露わになる。
その姿を見た瞬間、篤久の心臓は抑えきれないほど高鳴った。
黒髪。
五年前とは違う髪色。
幼さを残しながらも、大人びた面影。
想像していた姿とはあまりにも違い、言葉を失ってしまう。
「へぇ。白拍子か。」
本成が楽しそうに笑う。
「篤久、どこで気付いたの?」
返事はない。
篤久の耳には、もう何も届いていなかった。
「っていうか!」
新太が御簾の向こうへ振り返る。
「皇宮で武器所持とか有り得ねぇだろ!」
どうやら殺気を放った理由を問い詰められているらしい。
武器を隠していることは篤久と本成も気付いていた。
だが確認より先に攻撃へ移る新太の猪突猛進さは、二人にとって相変わらず理解し難いものだった。
その時、扇を閉じる音が静かに響く。
「その件は特別に許可しているから問題ないわ。」
なぎの上がきっぱりと言い切る。
「改めて。」
あず姫が笑った。
「ミサは私たち専属のシノビよ。」
その言葉に、篤久は五年前を思い出していた。
あの日と同じ笑顔が、今も目の前にある。
ミサはまず新太へ向き直った。
「初めまして。ミサです。」
「橘新太。近衛府の武官だ。よろしくな。」
「橘……あぁ、だから柑橘系の香り。」
「え、分かるのか?」
「橘家のお香、有名だから。」
ミサはふっと笑った。
それを見て新太は、照れ臭そうに頭を掻く。
「……突然悪かったな。」
「大丈夫。気にしてないよ。」
続いて、ミサは本成を見る。
すかさず本成が先に名乗った。
「玄武の九条本成です。」
「あぁ、九条様の……。」
帝の御殿医の顔が浮かんだのだろう。
ミサは納得したように頷く。
「薬師さんですよね?」
「よくご存じで。」
本成は優しく微笑んだ。
宮中の女房たちが騒ぐ理由も分かる。
柔らかな物腰に、誰もが警戒を解いてしまう笑顔だった。
そして最後に。
ミサは篤久の前へ立つ。
五年前はほとんど変わらなかった身長も、今では篤久が少し見下ろすほどになっていた。
夕暮れ色の――朱色の瞳が真っ直ぐ見上げてくる。
それだけで、胸が苦しい。
「改めまして。」
ミサは柔らかく微笑む。
「初めまして。青龍の守護者さん。」
その一言が、篤久の胸を深く抉った。
覚えていない。
本当に、何も。
言葉が出ない篤久へ、ミサは申し訳なさそうに続ける。
「さっきは押し付けちゃって、ごめんなさい。」
妖魔退治のことだ。
そんなことは、篤久にとって本当にどうでもよかった。
「あぁ……。」
ようやく頷き、篤久は名乗る。
「藤原……篤久だ。」
五年前、自分が名乗った時。
彼女は笑って「篤」と呼んでくれた。
けれど今は。
「よろしく。」
たった一言。
初対面の笑顔だけが返ってきた。
篤久は無意識に拳を握り締める。
二人の思い出は、自分の中にしか残っていないのか。
それとも、正体を隠すための演技なのか。
「改めて、朱雀のミサよ。」
ミサが三人を見渡す。
「訳あって、あんた達には存在を明かせなかったんだけど……少し事情が変わったから。」
言葉を濁した、その時。
本成が笑顔のまま切り込んだ。
「一つ伺っても?」
「朱雀から神力が全く感じられません。それも事情と関係あるのでしょうか。」
空気が止まる。
核心だった。
なぎの上は静かにミサを庇う。
「ミサは誰よりも早く、朱雀として使命を果たしていたわ。」
続けて、あず姫が口を開く。
「ただ五年前にある記憶を失ってね。朱雀として再び目覚めたのは、つい最近なの。」
「話すと長くなるから。」
「詳しくは、また日を改めて話しましょう。」
そして扇を開きながら告げた。
「今日はこれで解散。ミサ、行くわよ。」
二人は奥の後宮へ歩き去る。
「えーと…それじゃ、おやすみなさい。」
ミサが笑って頭を下げた瞬間、ふっと姿が消えた。
「……!」
呼び止めたかった。
けれど先ほど聞いたあず姫の言葉に動揺して、篤久は動けなかった。
「へぇー。」
本成が意地悪く笑う。
「さすがシノビ。瞬発力だけなら守護者随一じゃない? そりゃ篤久も逃げられるわけだ。」
篤久が睨む。
「……何が言いたい?」
「いや。」
本成は肩をすくめた。
「氷華の君が、あんなに表情豊かになるなんて初めて見た。」
「その呼び名で呼ぶな。」
即座に返すと、本成は堪えきれず笑い出した。
氷華の君。
宮中の女房や侍女たちが陰で篤久をそう呼んでいることは知っている。
青龍の守護者。
端正な容姿。
誰にも心を許さない冷たい眼差し。
憧れを込めた呼び名だとしても、篤久にとっては鬱陶しいだけだった。
「確かにな。」
新太も思い出したように笑う。
「朱雀を庇った時はマジで驚いた。」
「あぁ、僕も。」
本成が頷く。
「女性に一切靡かなかった篤久が、無意識に女を守るなんてね。」
篤久は何も言い返さなかった。
言い返せない。
二人の言う通りだったからだ。
青龍に目覚めてからの篤久は、その容姿ゆえに数え切れないほどの女性に言い寄られてきた。
告白も、縁談も、夜伽を望む女房も。
その全てを断り続けた。
青龍の代償で抑えきれなくなった性欲だけは、宛がわれた女性で処理してきた。
だが、それは欲を満たすだけ。
心を許したことは、一度もない。
だからこそ。
あの瞬間、考えるより先にミサを庇った自分を、本成は見逃さなかったのだ。
やがて本成が静かに口を開いた。
「彼女が、篤久の唯一なんだな。」
篤久は足を止めた。
否定はしない。
ゆっくりと、小さく頷く。
「あぁ。」
その一言だけだった。
けれど、その声には五年間積もり続けた想いが滲んでいた。
何度も探した。
何度も諦めようとした。
それでも忘れられなかった。
ようやく見つけた。
たとえ彼女が自分を忘れていたとしても。
もう二度と失いたくない。
篤久の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「……え。」
新太が思わず立ち止まった。
本成も静かに目を見開く。
笑った。
氷華の君と呼ばれ続けた男が、初めて心から笑ったのだ。
「おい本成……今、見たか?」
「うん。」
本成は優しく微笑む。
「ようやく氷が溶けたね。」
篤久は照れ隠しのように二人へ背を向ける。
「くだらない。」
そう言いながらも、その声はどこか柔らかかった。
三人は再び歩き出す。
東の空はまだ深い藍に包まれ、皇宮を照らすのは淡い月明かりだけだった。
長い夜は、なお静かに続いている――。
そして篤久にとって、本当の物語はここから始まろうとしていた。




