第二章 朱雀の目覚め 第九話『続きを待つ人』
二人の主がそれぞれの寝所へ戻ったのを見届けると、ミサも後宮に与えられた自室へ戻った。
寝ずの番は侍女や女房たちが務めている。
シノビと呼ばれてはいるものの、二人から命を受けない限り、任務や諜報活動があるわけではない。
普段は雑務を手伝い、傍らに控えていることがほとんどだ。
そのためミサ自身は、シノビというより付き人に近いと思っていた。
後宮は人の出入りも少ない。
普段は魔力で髪を黒く変えているため、姿を隠す必要もない。
男装姿で働いていることもあり、侍女や女房の中には、なぎの上とあず姫付きの小姓だと思っている者も少なくなかった。
後宮で、なぎの上とあず姫の寝所は正反対に位置している。
そして、そのちょうど中程にミサの部屋があった。
五年間。
ミサはこの部屋で眠り続けていた。
けれど、その実感はない。
目を閉じ、次に目を開けた時には、五年という歳月が流れていた。
そんな感覚だった。
ただ一つ、確かなことがある。
死期の近い朱雀の側にいた。
それだけは、揺るぎない事実だった。
朱雀は、不死鳥とも呼ばれる神である。
死してなお蘇る。
ゆえに、不死鳥。
だが、その力も永遠ではない。
死期が近づけば神力は衰え、その恩恵を受ける火属性の者も減っていく。
ここ数十年、火属性の魔力を持つ者がほとんど生まれなくなった理由も、そこにあった。
そんな中で、ミサだけが火属性として生まれ、朱雀の神力を宿していた。
それは――朱雀の巫女だからだ。
朱雀の側にいることを許された、唯一の存在。
朱雀と共に生き。
朱雀の糧となり。
そして朱雀と共に死ぬ。
それが巫女の宿命だと、ミサはなぎの上とあず姫から聞かされていた。
朱雀は蘇るための糧として、巫女が初めて抱く欲を吸収する。
食欲。
睡眠欲。
独占欲。
執着。
人が初めて抱く欲望を糧に、朱雀は生き永らえる。
生まれて間もない頃、ミサは食欲を吸われた。
次は睡眠欲だった。
欲を吸われるたび、ミサは深い眠りについた。
そして五年前。
なぜか、それまでにないほど長い眠りについた。
目を覚ました時には、五年という歳月が流れていた。
なぜ眠らされたのか。
なぜ五年もの時間が必要だったのか。
その理由は、今も分からない。
ただ――。
朱雀の死期が近づいていることだけは感じていた。
神力が底を尽きかけているのも、その影響なのだろう。
朱雀と共に死ぬ覚悟はある。
だが。
一つだけ、気掛かりがあった。
ミサはふと机の引き出しへ目を向ける。
静かに開くと、中には一冊の本が収められていた。
数日前に目覚めた時、この部屋にはほとんど物が残されていなかった。
その中で、この本だけが大切にしまわれていた。
まるで、誰かにとって宝物だったかのように。
「……五年前に読んだのかな。」
指先で、そっと表紙をなぞる。
なぜ大切なのかは分からない。
誰から借りたのかも覚えていない。
それでも。
手放してはいけない気がした。
不思議なほどに。
すると脳裏に、一人の顔が浮かんだ。
藤原篤久。
青龍の守護者。
なほが熱弁していた通り、女性たちが夢中になるのも頷けるほど整った顔立ちをしていた。
それだけではない。
妖魔との戦いで見せた圧倒的な強さ。
迷いなく妖魔を滅した姿。
そして――。
自分を庇うように、新太の前へ立った姿。
思い出した、その瞬間だった。
トクン――。
胸の奥が、小さく鳴る。
「……?」
ミサはそっと胸に手を当てた。
鼓動が少しだけ速い。
理由は分からない。
ただ。
篤久のことを考えると、なぜだか胸が落ち着かなかった。
もう一度、本へ視線を落とす。
そして、無意識に呟く。
「……私、あの人とどこかで会ったことがあるのかな。」
答えは返ってこない。
その時だった。
――チリン。
胸元に下げていた母の形見の鈴が、小さく音を立てた。
「……?」
ミサはそっと鈴へ触れる。
風が吹いたわけでもない。
誰かが触れたわけでもない。
それでも確かに、鈴は一度だけ澄んだ音を響かせた。
「気のせい……かな。」
そう呟いて微笑む。
けれど胸の奥では、何かが静かに動き始めていた。
※ ※ ※
朝焼けは雨を呼んだ。
外では冷たい雨が、静かに降り続いている。
新太と本成は、一度仮眠を取ると言い残し、それぞれの部屋へ戻っていった。
だが、篤久には眠る気など起きなかった。
もともと睡眠をほとんど必要としない体質だ。
そのまま宮廷内にある執務室へ向かう。
まだ朝も早く、出仕している貴族はほとんどいない。
静まり返った部屋へ入り、机の上の資料を手に取る。
しかし、文字を追っても頭には入ってこなかった。
脳裏に浮かぶのは、ただ一人。
ミサだった。
――俺のこと、本当に覚えてないんだな。
長いため息が漏れる。
手にしていた資料を机へ置く。
乱暴にならないよう気を付けたつもりだったが、それでも思いのほか大きな音が静かな部屋に響いた。
記憶がない。
五年前に何があったのかも分からない。
どこで何をしていたのかも分からない。
髪の色すら違っていた。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、今ここで考えたところで答えは出ない。
そのことだけは、よく分かっていた。
結局、その日は仕事がまるで手につかなかった。
昼過ぎには執務を切り上げ、久しぶりに屋敷へ戻ることにする。
馬屋から愛馬を連れ出し、宮廷を後にした。
雨に濡れぬよう結界を張ると、その首筋を軽く撫でる。
宮廷の中では魔力は使えない。
だからこそ、こうして結界を張れるだけでも少し気が楽だった。
最近は妖魔の出現が相次ぎ、屋敷へ戻ることもほとんどなかった。
久しぶりの帰宅に、使用人たちが一斉に出迎える。
だが篤久は、「構わない」と短く告げると、そのまま離れの自室へ向かった。
静かな部屋だった。
壁一面の本棚には、数え切れないほどの本が並んでいる。
篤久は昔から本が好きだった。
だが最近は忙しく、ゆっくり本を開く時間もなかった。
何気なく本棚へ目を向ける。
そして――。
迷うことなく、一冊の本を手に取った。
表紙は少し擦り切れている。
大人向けの本ではない。
文字は大きく、すべて平仮名で書かれていた。
五年前。
ミサに貸した本の、その続きだった。
いつか。
続きを一緒に読める日が来る。
そんな願いを込めて、ずっと手放せずにいた一冊。
篤久はそっと表紙を撫でる。
思い出すのは、今日出会ったミサではない。
五年前のミサだった。
本を抱えて嬉しそうに笑う顔。
分からない言葉があるたび、小さく首を傾げる仕草。
ころころと変わる愛らしい表情。
その一つひとつが、今も鮮やかに胸へ刻まれている。
五年という歳月が流れても。
その想いは少しも色褪せなかった。
いや――。
会えなかった時間の分だけ、より深く、より大きくなっていた。
気付けば、本を胸に抱き締めていた。
「……会いたいな。」
思わず零れたその一言に、篤久自身が一番驚く。
五年ぶりに会えたばかりだというのに。
もう一度、会いたいと思っている。
いや。
本当は、ずっと会いたかった。
ずっと。
ただ、その一人だけを。
膝から力が抜ける。
篤久は、その場へ静かに膝をついた。
本を抱き締める腕に、自然と力がこもる。
堪えていた感情が、静かに決壊した。
ぽたり――。
一滴の涙が、表紙へ落ちる。
続いて、もう一滴。
そして、また一滴。
声は出なかった。
ただ、涙だけが静かに溢れていく。
五年間。
誰にも見せることのなかった弱さだった。
窓の外では、冷たい雨が降り続いている。
その雨音だけが、静まり返った部屋に優しく響いていた。
篤久は本を抱いたまま、しばらく動くことができなかった――。




