第二章 朱雀の目覚め 第十話『触れた記憶』
気付けば、机に突っ伏していた。
どれほど眠っていたのか分からない。
頬に伝わる木の感触と、聞き慣れた声で篤久はゆっくりと目を開けた。
『……おーい。聞こえてるのかー?』
「……なんだ? 新太。」
胸元の通信鏡へ魔力を流し込みながら、篤久は顔も上げずに返事をする。
すると、新太の声とは別に、近くで休憩している武官たちの話し声が耳に入った。
『だから本当なんだって! 朱雀の守護者が現れて助けてくれたんだよ!』
『嘘だろ?』
『俺も見たんだ!』
篤久の眉がぴくりと動く。
――もう広まっているのか。
胸の奥に、小さな苛立ちが生まれた。
自分の知らないところで、ミサの存在が噂になっている。
それが妙に気に障った。
――お二方は、何も手を打たなかったのか。
『おい!篤久!聞いてんのか!?』
「聞いている。」
篤久は体を起こし、右手の守護紋を隠すように手袋をはめた。
「四半刻後に呼ばれているんだろう。今から向かう。」
そう言うと通信鏡を閉じる。
外を見ると、雨はすっかり上がっていた。
重い雲の切れ間から、夕焼けが滲むように空を染めている。
※ ※ ※
日が暮れる頃。
篤久は再び皇宮を訪れた。
奥の間へ足を踏み入れた瞬間、自然と足が止まる。
そこにはすでに、本成と新太、そしてミサの姿があった。
「篤久、遅かったね。」
本成が篤久に気付き、穏やかに笑う。
ミサも振り返り、柔らかな笑みを向けた。
その笑顔だけで少し救われた気がしてしまう自分に、篤久は内心苦笑する。
「おう! 篤久。今さー、守護紋の話してたんだよ!」
「……守護紋のことで、あんなに楽しそうに盛り上がれるのか?」
篤久は呆れたように眉をひそめた。
「だって本成もミサも、守護紋の場所を教えてくれねぇんだよ!」
新太は悪びれもなく笑う。
もう何年も共に戦っているというのに、本成の守護紋の場所すら知らないのか。
篤久は半ば呆れながら、小さくため息を吐いた。
「教えないとは言ってないよ。見せられないだけ。」
「私も同じ。」
本成とミサは顔を見合わせ、くすりと笑う。
その様子が、なぜだか少し気に障った。
篤久は無意識に口を開く。
「本成の守護紋は左の腰だ。」
「えっ。」
本成が目を丸くする。
「なんだよ、篤久。ばらしたら面白くないだろ。今まで秘密にしてたのに。」
「別に秘密でも何でもないだろ。」
本成が新太をからかうのは今に始まったことではない。
もはや癖のようなものだと、篤久は思っていた。
「じゃあミサの守護紋は?」
今度は新太が興味津々に身を乗り出す。
本成も気になるのか、自然とミサへ視線を向けた。
「あー……えっと……。」
ミサは困ったように頬をかく。
そして観念したように、小さく答えた。
「……内太ももに、あります。」
「「「…………。」」」
見事な沈黙が落ちた。
男三人の思考が、一斉に止まる。
確かめようもない。
かといって、確かめたいとも口にはできない。
気まずい空気が流れる中、新太だけが勢いよく目を逸らした。
その瞬間――。
「お前、変なこと考えただろ。」
篤久の鋭い視線が飛ぶ。
「な、何も考えてねぇよ!?」
慌てる新太を見て、本成が吹き出した。
「だから聞くなって言ったのに。」
「あはは。」
ミサもつられて笑う。
その笑顔を見ているだけで、篤久の胸の奥は少しだけ満たされる。
そんな自分に気付き、篤久は小さく息を吐いた。
その時だった。
御簾の向こうに、人の気配が現れる。
四人は即座に一列に並び、姿勢を正して頭を下げた。
「揃ってるわね。」
御簾の向こうから、なぎの上の穏やかな声が響いた。
「なんだか楽しそうに話していたみたいだけれど。」
御簾越しに四人を見渡し、なぎの上は小さく微笑んだ。
「四神同士で仲良くすることは、良きことね。」
何気ない一言だった。
だが、その言葉に篤久だけは僅かな違和感を覚える。
胸の奥に引っ掛かりは残ったものの、それを考える間もなく、なぎの上は表情を引き締めた。
「あずがまた予知したわ。」
その一言で、その場の空気が一変する。
「今日、亥の刻に妖魔が現れる。」
「またかよ。」
新太が眉をひそめる。
「最近、毎日のように出てきてねぇか?」
「ええ。」
なぎの上は静かに頷いた。
「もう結界は綻んでいる、という段階ではないわ。」
一度言葉を切る。
そして、静かに告げた。
「崩壊が始まっているの。」
「……っ!」
篤久以外の三人が息を呑む。
初めて聞かされる事実だった。
「これまで三人には結界の重ね掛けをしてもらっていたけれど、それだけでは限界なの。」
なぎの上の視線が、静かにミサへ向く。
「やはり、朱雀の力が足りない。」
誰も口を開かなかった。
重い沈黙が部屋を包む。
「……これから朱雀の現状について話します。」
穏やかだった声色が変わる。
その厳かな響きに、四人の表情も自然と引き締まった。
なぎの上はゆっくりと語り始める。
朱雀の死期が近づいていること。
それに伴い、ミサの神力にも限りが生じていること。
そして、この数十年、火属性を持つ者がほとんど生まれなくなった理由。
一つひとつの言葉が重く胸へ落ちていく。
話が終わる頃には、部屋は水を打ったような静けさに包まれていた。
「……神様も、死ぬんだな。」
新太がぽつりと呟く。
その言葉を否定する者はいなかった。
三人には神力が尽きるという感覚がない。
とりわけ篤久は、生まれ持った神力が強すぎるが故に、溢れる力を青龍玉へ流し込み続けて抑えているほどだった。
だからこそ、神の終わりというものが想像できない。
静寂を破ったのは本成だった。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
「構わないわ。」
「朱雀が命を終えた時……ミサは、どうなるのですか。」
その問いが放たれた瞬間だった。
なぎの上とミサの表情が、ほんの僅かに強張る。
「……それは……。」
珍しく、なぎの上が言葉を濁した。
その時だった。
御簾の向こうから、新たな気配が近付く。
「ミサの神力はなくなるわね。」
聞き慣れた声と共に、あず姫が静かに姿を現した。
四人は再び頭を下げる。
あず姫はゆっくりと腰を下ろし、穏やかな口調で続ける。
「今の朱雀に選ばれているのはミサ。でも、次の朱雀にも選ばれるとは限らないもの。」
静かな説明だった。
だが、その瞳はほんの一瞬だけミサへ向けられる。
――今はまだ、本当のことは話せない。
その意味を込めた視線だった。
ミサは膝の上でそっと拳を握る。
しかし、その仕草に気付いた者はいない。
ただ一人。
篤久だけは、二人が何かを隠している――そんな空気だけを感じ取っていた。
「ついでに言うと――。」
重く沈みかけた空気を切るように、なぎの上が続けた。
「次の新月に四人で『新月の結界』を施さないと、結界は完全に崩壊するわ。」
「ちょ、ちょっと待った!」
真っ先に声を上げたのは新太だった。
本成も続けて問い掛ける。
「ミサは今、神力がない状態なんですよね?それなのに結界なんて張れるんですか?」
「尽きた神力は、いつ戻るのですか?」
その二人とは対照的に、篤久は静かにミサへ視線を向けていた。
ミサは俯き、小さく袴を握り締めている。
その姿だけで十分だった。
――簡単には戻らない。
そう悟るには、それだけで足りた。
「そうね。」
あず姫が静かに頷く。
「朱雀の死期が近い今、以前のように簡単には戻らないわ。」
その一言で、場の空気はさらに重くなる。
新太は言葉を失い、本成も険しい表情を浮かべた。
ミサ自身も、小さく唇を噛み締めている。
「じゃあ……どうするんだよ。」
新太が乾いた声で呟く。
「このままじゃ間に合わねぇだろ……。」
誰も答えられない。
沈黙だけが流れていく。
「ただ。」
あず姫が静かに口を開いた。
「方法が一つだけあるわ。」
四人の視線が、一斉にあず姫へ集まる。
「五年前。」
その言葉に篤久の胸が僅かにざわついた。
「ミサへ神力を分け与えた人がいる。」
部屋が静まり返る。
「あんた達三人の中にね。」
新太と本成が顔を見合わせる。
篤久だけは何も言わない。
あず姫の視線が真っ直ぐ篤久へ向く。
「篤久。」
全員の視線が集まった。
「昨日がミサと初対面じゃないでしょう?」
静かな問いだった。
けれど、その声音には確信があった。
篤久は小さく息を吐く。
「……お察しの通りです。」
否定はしなかった。
「私は五年前、ミサと会っています。」
その言葉に、新太が目を丸くする。
すでに気付いていた本成はミサの方に視線を投げる。
一方のミサは、戸惑ったように篤久を見つめる。
「ですが。」
篤久は静かに続けた。
「神力を分け与えた覚えはありません。」
「五年前、初めて雪が降った日。」
あず姫の言葉に、篤久の瞳が揺れる。
忘れられるはずのない日。
ミサと最後に会った日。
雪。
屋根。
転びかけたミサ。
腕の中へ飛び込んできた小さな身体――。
そして。
不意に触れた唇。
「……。」
篤久は目を閉じる。
あの日の光景が鮮明によみがえる。
「何か思い出した?」
なぎの上が静かに尋ねた。
「……会ったことは間違いありません。」
篤久はゆっくりと答える。
「ですが、その頃の私は、まだ守護者ではありませんでした。」
「ミサは神力がある時だけ髪の色が変わるの。」
なぎの上のその一言で、記憶の中のミサの姿が重なる。
朱色に染まった髪。
あの日だけ見た姿。
そして、唇が触れた直後――。
「……まさか。」
篤久は小さく呟いた。
「心当たりがあるのね。」
「神力を分け与えたかどうかは断言できません。」
篤久は真っ直ぐミサを見る。
「ですが……思い当たることはあります。」
「えっ!?」
ミサが思わず身を乗り出した。
期待と不安が入り混じった瞳だった。
篤久は腕を組み、静かに考え込む。
難しいわけではない。
方法も分かっている。
だが――。
今のミサに、それをしていいのか。
その迷いだけが、篤久の足を止めていた。
「篤久。」
本成が静かに声を掛ける。
「難しいことなの?」
篤久は苦く笑った。
「難しいわけじゃない。」
その一言に、その場の全員が息を呑む。
「……ただ。」
そこで言葉を切る。
視線は自然とミサへ向いていた。
まっすぐこちらを見つめる朱色の瞳。
五年前とは違う。
何も覚えていない瞳だった。
「今のミサに、それをしていいのか分からない。」
ぽつりと漏れた本音に、その場は静まり返る。
「どういう意味?」
なぎの上が問い返す。
篤久は答えない。
ただ深く息を吐く。
――嫌われるかもしれない。
その一線だけが、どうしても越えられなかった。
どんな相手に嫌われようと構わない。
そう思って生きてきた。
だが。
たった一人だけは違う。
その相手にだけは、嫌われたくなかった。
沈黙を破ったのは、なぎの上だった。
「そんなに躊躇うほどのことなの?」
返事はない。
篤久は小さく目を伏せたままだ。
なぎの上とあず姫は顔を見合わせる。
次の瞬間。
二人は揃って御簾の内から歩み出た。
「な、なぎの上様!?」
「姫様!」
後ろに控えていたなほと美乃香が慌てて声を上げる。
しかし二人は軽く手を上げるだけで歩みを止めない。
高貴な姫君が、伴侶以外の男性へ素顔を見せることなど、本来あってはならない。
それでも二人は構わず篤久の前まで歩み寄った。
「ちょ、ちょっと!」
今度はミサまで慌てて立ち上がる。
「お二人とも、御簾の外へ出ちゃ駄目です!」
必死に止めようとするが、二人はどこ吹く風だった。
新太は慌てて両手で顔を覆う。
「見てねぇ!俺、何も見てねぇからな!」
そう言いながら、指の隙間からしっかり覗いている。
「……。」
本成は困ったように苦笑するだけだった。
一方の篤久は。
目の前まで歩いてきた二人を見ても、驚く様子はない。
ただ一つ、大きくため息をついた。
「またですか。」
その声音に呆れが滲む。
「お二人が御簾を越えてくる時は、大抵ろくでもないお願いをする時ですよね。」
なぎの上とあず姫は揃って肩をすくめた。
「よく分かってるじゃない。」
「今さら隠しても仕方ないもの。」
「お願いされなくても。」
篤久は二人を真っ直ぐ見つめ返す。
「……命じられれば、私は構いません。」
その言葉に。
なぎの上とあず姫は、思わず顔を見合わせた。
篤久がここまで素直に受け入れることは珍しかった。
いつもなら、危険が伴うことや納得できないことには必ず一言返す。
どれほど二人から頼まれようと、簡単に頷くような男ではない。
それなのに。
今回は違った。
「……本当に?」
なぎの上が思わず聞き返す。
篤久は静かに視線を向けた。
「確認した通りです。」
短い返答。
けれど、その声には迷いがなかった。
ただ。
その瞳だけが、僅かに揺れている。
篤久が迷っているのは、するかどうかではない。
五年前とは違う。
今のミサは、自分との記憶を失っている。
その彼女に、同じことをしていいのか。
それだけだった。
「あんた、本当に篤久?」
あず姫が呆れたように呟く。
いつもなら、すぐに言い返すところだ。
だが篤久は答えなかった。
ただ、ミサを見る。
ミサは真っ直ぐ篤久を見つめていた。
不安もある。
怖さもある。
それでも。
自分のためではなく、国のため、朱雀のため。
覚悟を決めた目だった。
篤久は小さく息を吐く。
そして最後の確認をするように、なぎの上とあず姫を見る。
「……本当に良いんですね?」
篤久は最後の確認をするように、なぎの上とあず姫を見つめた。
二人は何も言わず、ミサへ視線を向ける。
その視線を受けたミサは、静かに頷いた。
「私は神力が戻るなら、どんな方法でも構いません。」
迷いはなかった。
それを確認すると、二人もまた篤久へ向かって静かに頷く。
「……では、遠慮なく。」
篤久は小さく息を吐いた。
「ミサ、覚悟して。」
そう言うと、軽く首を鳴らし、腕を回す。
その様子を見て。
その場にいた全員が息を呑んだ。
「えっ!?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
慌てて、なぎの上が二人の間へ割って入る。
篤久はそんななぎの上を見下ろし、呆れたように眉をひそめた。
「確認しましたよね。本当にしても良いのか、と。」
「そ、それはそうだけれど……五年前、何をしたの!?あなた達は!」
なぎの上の問いに、篤久は淡々と答える。
「あのような格好で、人の屋敷の上にいたのですよ?」
その言葉に。
新太と本成は、初めて会った時のミサの姿を思い出す。
そして。
妙に納得したように頷いた。
「なぎの上様。」
ミサが静かに口を開く。
「私は、大丈夫です。」
その声に迷いはなかった。
自分の使命を果たすためならば。
何でも受け入れる。
そんな覚悟が滲んでいた。
なぎの上はしばらくミサを見つめた後、小さくため息を吐く。
「……分かったわ。」
ゆっくりと、その場を退いた。
再び。
篤久とミサが向かい合う。
周囲には新太、本成、なぎの上、あず姫がいる。
誰も口を開かない。
静寂だけが、その場を包んでいた。
「お願いします。」
ミサはそう言うと、ぎゅっと目を閉じた。
長い睫毛が、僅かに震えている。
怖くないはずがない。
それでも。
この少女は逃げない。
その姿を見た篤久は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
――五年前から、何も変わっていない。
自分のことになると、無茶ばかりする。
「……だから違うんだよ。」
ぽつりと呟く。
「え?」
ミサが目を開いた、その瞬間。
篤久は一歩踏み出した。
近い。
そう思った時には、もう逃げる暇などなかった。
ふわりと香が揺れた。
爽やかな香りが、ミサの鼻先をかすめる。
思わず身じろぎした、その瞬間――。
――チリン。
腰に結ばれた小さな鈴が、かすかな音を響かせた。
その音に、篤久の胸がわずかに震える。
五年前。
雪の降る夜にも聞いた音だった。
忘れられるはずがない。
あの日から、一度も。
「……。」
篤久はそっとミサの頬へ手を添える。
その温もりに、ミサの身体が小さく震えた。
けれど、篤久は離さない。
朱色の瞳を真っ直ぐ見つめながら、静かに顔を近づける。
五年前。
雪の降る夜に触れた、柔らかな感触が脳裏をよぎる。
――間違いない。
あの時だ。
篤久は確信した。
そして。
そっと唇を重ねた――。




