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第二章 朱雀の目覚め 第七話 『氷華の君』

ヘイアン京の中心には、この国の政を司る宮廷があった。


朝堂院を中心とする広大な区画には、日々多くの文官や武官が集い、国を支えている。


そのさらに奥。


帝や皇族が暮らす内裏――皇宮と後宮が存在していた。


なぎの上とあず姫もまた、その後宮に住まう者である。


ミサは宮廷の正門を使わない。


誰にも見られぬよう高い塀を越え、そのまま屋根伝いに皇宮へ向かった。


夜風が黒髪を揺らす。


神力を使い過ぎた身体は重い。


けれど。


ミサの足取りは、不思議と軽かった。


無事に武官を救うことができた。


それだけで十分だった。


ただ――。


『ミサ!待って!!』


あの声だけが、頭から離れない。


「……。」


ミサは小さく首を振る。


考えても分からない。


今は戻ることが先だった。


皇宮の庭へ降り立つ。


周囲に人の気配がないことを確かめ、そのまま奥へ向かった。


「あら、ミサ。お帰りなさい。」


柔らかな声が響く。


振り返ると、そこにはなぎの上付きの女房であるなほが立っていた。


ミサより少し小柄で、いつも穏やかな笑みを浮かべている女性だ。


「ただいま、なほ。」


「お怪我はありませんでしたか?」


心配そうに尋ねられ、ミサは苦笑する。


「大丈夫。そんなに心配しなくても平気だよ。」


そして、ふと思い出したように続ける。


「そうだ。」


「青龍の守護者に会ったよ。」


その瞬間。


なほの若草色の瞳が大きく開かれる。


「あら……まぁ!」


「藤原様にですか!?」


前のめりに聴き込むなほに、思わずミサはたじろいだ。


「う、うん。会ったと言っても、遠くから見ただけだけど。」


「それでも羨ましいですわ。」


なほは本当に羨ましそうに頷いた。


「私など、御簾越しにしかお姿を拝見したことがありませんもの。」


「そんなに有名なの?」


ミサが首を傾げる。


すると、なほは嬉しそうに答えた。


「宮廷では、藤原様をこうお呼びしております。」


「氷華の君、と。」


「氷華の君……?」


初めて聞く名だった。


「はい。」


なほは頷く。


「美しい容姿を持ち、才にも恵まれたお方。」


「ですが……。」


少し声を落とす。


「誰にも心を許されないお方なのです。」


「どれほど想いを寄せる女性がいても、決して特別扱いなさらず、あしらわれてしまいます。」


「へぇ……。」


ミサは小さく呟く。


「それに。」


なほは続けた。


「歴代の青龍様とは違い、女性関係のお話もほとんど聞きません。」


「閨では乙女は抱かれませんし、口付けすらされないと聞いたことがありますわ。」


ミサは少し考える。


そして。


「あ。」


何かを思い出したように声を漏らした。


「そうか。」


「青龍は性欲だった。」


「ミ、ミサ……!」


なほが慌てて周囲を見回す。


しかし、ミサ本人はいたって真剣だった。


守護者には、それぞれ神力を扱う上で強く影響する欲がある。


青龍は――性欲。


白虎は――食欲。


玄武は――睡眠欲。


それが守護者に課せられた宿命。


「でも。」


なほが静かに続ける。


「藤原様は、歴代の青龍様とは違うように感じます。」


その言葉に。


ミサの胸が僅かに揺れた。


理由など分からない。


けれど。


『ミサ!待って!!』


再び、あの声が蘇る。


初めて聞いたはずなのに。


なぜか懐かしい。


ずっと昔から知っているような。


そんな声だった。




※ ※ ※




「只今戻りました。」


ミサは几帳の手前で膝をつき、深く頭を下げた。


しばしの沈黙。


やがて、なぎの上のため息が聞こえた。


「困ったわね……。」


その声に、ミサはさらに頭を下げる。


「青龍と接触したそうね。」


「……はい。」


観念したように答えた。


隠し通せるとは思っていなかった。


「妖魔を一体祓った時点で神力が尽きかけておりましたので……。」


少し言い淀む。


「残りの妖魔は、青龍に任せました。」


「あらあら。」


なぎの上が呆れたように笑う。


「任せた、ではなく押し付けたのでしょう?」


「……。」


否定できなかった。


その沈黙が答えだった。


「だから言ったじゃない。」


今度はあず姫の声が響く。


「今日は三人に任せるべきだったのよ。」


少し怒っているのが声だけでも分かった。


「他の守護者を遠ざけるために、私達がどれだけ骨を折ったと思ってるの?」


「申し訳ございません。」


ミサは素直に頭を下げた。


だが後悔はしていない。


あのままなら武官は助からなかった。


それだけは確信していた。


「八日後は新月よ。」


あず姫が続ける。


「神力が戻らなければ『新月の結界』が張れない。」


ミサは唇を噛む。


それは分かっていた。


分かっていても。


「……それでも。」


顔を上げる。


「私が行かなければ、あの方は助かりませんでした。」


部屋が静まり返る。


「あんたねぇ……。」


あず姫が額を押さえる。


「一人を助けるために世界を危険に晒したら意味ないでしょう?」


厳しい言葉だった。


しかし。


ミサは何も言い返せなかった。


どちらも正しいからだ。


再び、部屋に静寂が落ちる。


その沈黙を破ったのは、なぎの上だった。


「でも。」


穏やかな声が部屋に響く。


「今まで結界が保ってこられたのは、ミサのおかげよ。」


ミサはゆっくりと顔を上げる。


「五年前から今まで。」


「本来なら朱雀の守護者が果たすべき役目を、ミサはずっと一人で背負ってきた。」


「なぎの上様……。」


「ミサがいなければ、結界はとっくに崩れていたわ。」


その言葉に、あずは小さく息をつき、静かに目を閉じた。


怒っているわけではない。


誰よりもミサを心配しているからこそ、厳しい言葉になってしまうのだ。


「……分かってる。」


あずはゆっくりと目を開く。


「貴女が誰かを見捨てられないことくらい。」


「だから余計に心配なのよ。」


ミサは目を伏せる。


二人の気持ちは痛いほど伝わっていた。


だからこそ、胸が苦しかった。


「申し訳ございません。」


小さく頭を下げる。


その姿を見て、なぎの上はふっと微笑んだ。


「謝らなくていい。」


「私たちは、貴女を責めたいわけではないもの。」


「ただ――。」


一拍置いて、優しく続ける。


「もう少し、自分のことも大切になさい。」


その一言が、ミサの胸に静かに染み渡る。


「……はい。」


その返事は、いつもより少しだけ小さかった。


「お話し中、失礼いたします。」


御簾の向こうから、なほの落ち着いた声が響いた。


「どうしたの?」


なぎの上が静かに問い返す。


「九条様がお戻りになられました。」


その一言に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


あずは間髪入れずに口を開く。


「ミサ、とりあえず隠れて。」


「いつまでですか?」


ミサがきょとんと首を傾げる。


その無邪気な問いに、あずは思わず額へ手を当てた。


「あんたねぇ。」


ミサは不思議そうな表情のまま続ける。


「青龍に隠し切れるんですか?」


部屋がしんと静まり返る。


「……。」


「……。」


誰も答えない。


その沈黙だけで十分だった。


ミサは思わず小さく吹き出す。


「やっぱり無理そうですね。」


くすりと笑うミサに、あずは肩を落とした。


「相手が悪いのよ。」


「青龍の…篤久の勘の鋭さは、人の域を超えてるもの。」


すると、なぎの上が苦笑混じりに「あず」と名を呼ぶ。


「あ……。」


あずも我に返ったように小さく咳払いをした。


「……とにかく、できるところまでは隠れていて。」


「無理だと思ったら出てきていいわ。」


「その代わり。」


今度は、なぎの上が穏やかな声で続ける。


「朱雀として皆の前へ姿を現す以上、覚悟だけはしておきなさい。」


その言葉の意味を、ミサはよく理解していた。


朱雀として生きること。


その運命を受け入れること。


ミサは静かに微笑む。


「私は。」


迷いなく顔を上げた。


「来るべき日まで、朱雀の役目を果たすだけです。」


その瞳に迷いはない。


次の瞬間、ミサの姿は音もなく掻き消えた。


残されたなぎの上とあずは、互いに顔を見合わせる。


「あず。」


なぎの上が小さく息をつく。


「……いよいよ、ね。」


あずも静かに頷いた。


「ええ。」


「もう、止まらないわ。」


二人の視線は、静かに揺れる御簾の向こうへ向けられる。


五年間止まっていた歯車が、ゆっくりと動き始めようとしていた――。

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