第二章 朱雀の目覚め 第六話『朱雀の決意』
「遅い。」
篤久は苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。
新太はその視線を受けても気にした様子はない。
むしろ面白そうに口元を歪める。
「悪い悪い。もしかして神力、使い過ぎたか?」
そう言いながら、武官の傍らへしゃがみ込んだ。
「あれくらいなら問題ない。」
篤久は短く答える。
「青龍玉も外していない。」
神力が強すぎる篤久は、普段から余剰な神力を青龍玉へ蓄え、制御していた。
もし青龍玉を外せば、神力はさらに増す。
だが、その代償もまた大きい。
「へぇ。」
新太は感心したように鼻を鳴らし、武官へ手をかざした。
妖魔の気配が完全に消えていることを確かめると、肩を軽く叩く。
「おーい。起きろー。」
相変わらず緊張感のない声だった。
武官が微かに身じろぎするのを見て、新太は安堵したように息を吐く。
「それにしてもさ。」
立ち上がった新太は、朱雀門へ視線を向けた。
「妖魔に身体を蝕まれる前に浄化されてる。」
その一言に、篤久の瞳が僅かに揺れる。
「中級妖魔だったんだろ? 普通なら間に合わねぇ。」
「……。」
「相当早く駆け付けたんだな。」
浄化――。
その言葉が、篤久の胸へ深く突き刺さる。
脳裏から離れない。
白い炎。
被衣を纏った小柄な背中。
そして、自分が呼んだ名に微かに震えた肩。
「詳しい話は宮廷へ戻ってからだ。」
篤久はぶっきらぼうに言い残した。
しかし、その声はどこか上の空だった。
意識は今もなお、あの少女へ向いている。
五年前、突然姿を消した――ミサへ。
※ ※ ※
「……はぁ……はぁ……」
朱雀門を離れてから、どれほど走っただろう。
人気のない路地へ辿り着いたミサは、ようやく足を止めた。
肩で息をしながら、胸元へそっと手を添える。
激しく脈打つ鼓動は、神力を使い果たしたせいだけではなかった。
『ミサ! 待って!!』
あの声が、耳から離れない。
「……どうして。」
小さく呟き、ゆっくりと振り返る。
遠く闇の向こうには、朱雀門がぼんやりと浮かんでいた。
「どうして……私の名前を知っているの……?」
答えは返ってこない。
ミサは静かに被衣へ手を掛ける。
さらり、と肩から滑り落ちた布の下から、長い黒髪が夜風に揺れた。
その拍子に、腰へ結んだ小さな鈴が――
――チリン。
澄んだ音色が、静かな路地へ溶けていく。
ミサはそっと鈴へ触れた。
指先に伝わる小さな温もりが、不思議と高鳴る胸を少しだけ落ち着かせてくれる。
それでも、自分の名を呼ぶあの声だけは、何度振り払おうとしても胸の奥へ残り続けていた。
初めてだった。
自分の名を呼ばれただけで、これほど心が乱れたのは。
まるで― ―
忘れてしまった何かが、記憶の奥底で目を覚まそうとしているような。
そんな、不思議な感覚だった。
ミサは小さく息を吐く。
「……あの人は、誰?」
夜風だけが、その問いに静かに応えていた。
※ ※ ※
――時は少し遡る。
「今日、朱雀門に妖魔が現れるわ。」
静かな部屋に、なぎの上の声が響いた。
御簾の向こうから告げられたその一言に、箒を動かしていたミサの手が止まる。
「丑の刻。」
続けて、あず姫が静かに口を開く。
「中級妖魔が三体。武官が取り憑かれる。」
その言葉に、部屋の空気が張り詰めた。
ミサはゆっくりと箒を置く。
そして御簾の前へ進み出ると、深く頭を下げた。
「……私に行かせてください。」
しばしの沈黙。
やがて、なぎの上が静かに答える。
「駄目よ。」
優しい声だった。
けれど、その言葉には揺るぎない意志があった。
「結界の綻びは、すでに第三段階へ入りかけているわ。」
「このままでは、上級妖魔が現れてもおかしくない。」
「万が一、神力を使い果たせば、次の結界に神力が送れなくなる―」
あず姫が続ける。
ミサは視線を落とした。
二人の言葉が正しいことは分かっている。
分かっているからこそ、苦しかった。
「……ですが。」
ミサは小さく息を吸う。
「未来が視えているのですよね。」
「えぇ。」
あず姫が静かに答える。
「誰かが取り憑かれる未来が。」
「三人の武官が。」
その言葉に、ミサの指先が僅かに震える。
「……。」
「その方たちは、何も知らずに妖魔へ立ち向かうことになります。」
「それを知っていて、私は何もしないことなどできません。」
ミサは畳へ両手をついた。
「私に朱雀門へ行かせて下さい。」
深く頭を下げる。
「許されないことは分かっています。」
「新月の結界が、どれほど大切なのかも。」
「それでも……。」
声が僅かに揺れる。
「苦しむ人がいると分かっていて、見過ごすことはできません。」
部屋に静寂が落ちた。
なぎの上も、あず姫も、すぐには言葉を返さなかった。
ミサの優しさを。
そして、その優しさゆえに無茶をすることを。
二人は誰よりも知っていた。
やがて、なぎの上が静かに口を開く。
「……それでも駄目よ。」
御簾の向こうにいる主の命は、ミサにとって絶対だった。
それでも。
誰かが妖魔の犠牲になると分かっていて、何もしないまま見過ごすことだけは出来なかった。
「考える時間をあげるわ。」
ミサは一礼する。
「はい。」
素直な返事。
けれど、その瞳の奥に宿る決意を。
二人は見逃さなかった。
ミサが部屋を出ていく。
その足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった頃。
「あず。」
なぎの上が静かに名を呼ぶ。
「……ええ。」
短い返事。
それだけで、互いの考えは伝わっていた。
「行くわね。」
「あの子は、そういう子だもの。」
あずは小さく息を吐く。
「なら……。」
「ええ。」
なぎの上は静かに目を伏せた。
「今は、三人を朱雀門から遠ざけるしかないわね。」
二人の間に、短い沈黙が流れる。
「……そうね。」
それ以上、言葉は必要なかった。
ミサは静かに自室へ戻っていた。
閉ざされた遣戸の向こうには、夜の気配が広がっている。
灯火の揺らめきを見つめながら、ミサは一人、座り込んでいた。
「……。」
なぎの上の言葉。
あず姫の言葉。
どちらも正しかった。
新月の結界がどれほど大切なのか。
朱雀の力を持つ自分が、どれほど大きな役目を背負っているのか。
分かっている。
分かっているからこそ、苦しかった。
けれど。
脳裏に浮かぶ。
妖魔に取り憑かれ、苦しむ三人の武官の姿。
助けを求める声。
そして、誰にも救われることなく失われてしまう魂。
「……。」
ミサは静かに目を閉じた。
母から受け継いだ小さな鈴へ、そっと指を触れる。
腰元で結ばれたそれが、小さく揺れた。
――チリン。
幼い頃から、いつも共にあった音。
不安な時も。
寂しい時も。
この鈴の音だけは、いつも傍にいてくれた。
「……ごめんなさい。」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
なぎの上へ。
あず姫へ。
それとも、今は亡き母へ。
「でも……。」
ミサはゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、もう迷いはなかった。
助けられる命があるのなら。
自分が傷付くだけで済むのなら。
それを選ばない理由など、ミサにはなかった。
ミサは静かに被衣を手に取る。
誰にも気付かれぬよう、神力の気配を抑える。
そして。
部屋を出る前に、一度だけ振り返った。
「……行ってきます。」
小さな声。
返事はない。
それでも。
その言葉は、確かに大切な者たちへ届いていた。
こうしてミサは、禁を破った。
そしてその先で。
五年の時を越えた再会を果たすことになる。
※ ※ ※
『……ミサ。聞こえる?』
物思いに沈んでいると、胸元から聞き慣れた女性の声が響いた。
ミサは懐へ手を差し入れ、小さな通信鏡を取り出す。
鏡の表面が淡く光り、その向こうに一人の女性が映し出された。
『やっぱり……。神力を使い果たしたのね。』
「……申し訳ありません。なぎの上様。」
ミサは静かに頭を下げた。
鏡の向こうに映るなぎの上は、夜更けであることを感じさせないほど凛とした気品を纏っている。
艶やかな黒髪に、落ち着いた眼差し。
十二単を美しく着こなすその姿は、ひと目で高貴な身分と分かるほどだった。
実際、彼女は後宮を預かるやんごとなき御方である。
『新月まであと八日……。それまでに神力が戻ればいいのだけれど。』
心配そうな声が聞こえた、その時だった。
『だから言ったじゃない。無茶するって。』
突然、鏡いっぱいに別の女性の顔が映り込む。
「あず姫様……。」
思わず苦笑が漏れる。
赤茶色の髪に黄金色の瞳。
皇族特有の色素の薄い容姿を持つその姫君は、どこか悪戯好きな笑みを浮かべていた。
『ちょっと! ミサと話してるのは私よ!』
『なぎがのんびり話してるから、私が代わりに聞いてあげてるの。』
『のんびりですって!? あなたが割り込まなければ、もう話は終わっていたわ!』
『絶対うそ。まだ本題にも入ってないもの。』
鏡の向こうで始まる、いつもの言い合い。
ミサは小さく笑みを浮かべると、
「詳しい話は戻ってからお話しします。」
そう告げ、通信鏡の光を消した。
静寂が戻る。
あの二人は、本性さえ隠していれば誰もが見惚れる姫君だった。
気品、教養、美貌。
錦上添花、仙姿玉質、窈窕淑女――そんな賛辞は尽きない。
もっとも、その素顔を知るミサからすれば、少々首を傾げたくなる評価ではあった。
なぎの上は、帝の後継者である東宮の正室。
帝の中宮がこの世を去って以来、後宮を束ねる存在として、多くの女房や女御たちを導いている。
一方のあず姫は、東宮ただ一人の妹。
そして、なぎの上とまったく同じ日、同じ刻に生を受けた、不思議な縁を持つ姫君だった。
二人には、四神すら及ばぬ神の加護が宿っている。
東西南北を司る四神。
その中心に座し、時さえ見渡すと伝えられる神――麒麟。
気まぐれで、人に力を貸すことなど滅多になかったその神は、ある日、一人ではなく二人を選んだ。
それが、なぎの上とあず姫だった。
幼い頃。
東宮の許婚であったなぎの上が、左大臣である父に伴われ宮中を訪れた日。
話し相手として現れたあず姫と初めて手を取り合った、その瞬間。
二人の背に半身ずつ守護紋が刻まれ、麒麟の守護者として目覚めたのである。
片方だけでは未完成。
二人が並んで初めて、一頭の麒麟が姿を現す。
それは歴史上、誰一人として見たことのない守護紋だった。
特に皇族として初めて守護者となったあず姫は、神に選ばれし聖女として人々から深く崇敬されている。
その守護紋を、ミサは一度だけ目にしたことがあった。
幼い頃。
二人と共に湯殿へ入った時だった。
白い背中に浮かぶ半身の麒麟。
左右に分かれた紋様は、二人が並んだ瞬間、一つの神獣となって美しく繋がった。
あの神々しい光景は、今でも鮮明に焼き付いている。
自分の体に宿る朱雀の守護紋よりも、なお大きく、気高く、美しく――。




