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第二章 朱雀の目覚め 第四話『朱雀門の異変』

「……少し冷えてきたな。」


篤久は白くなった吐息を見つめ、小さく呟いた。


下弦の月が静かにヘイアン京を照らしている。


昼間は人々で賑わう大路も、夜半を過ぎれば静寂に包まれていた。


家々は遣戸を固く閉ざし、灯火一つ漏れてはいない。


人の営みが眠りについた町を、冷たい夜風だけが吹き抜けていく。


その静寂を背に、篤久は東の青龍門へ立っていた。


動きやすく仕立てられた随身姿の上から羽織を纏い、腰には一振りの太刀を帯びている。


耳元では、蒼色の青龍玉が月明かりを受けて静かに揺れていた。


「……遅い。」


小さく漏らした声は、夜の闇へ消えていく。


今宵、妖魔が門の近くへ現れる。


その情報を受け、守護者たちはそれぞれ持ち場へ散っていた。


一年前。


篤久は青龍の守護者として覚醒した。


以来、人知れず妖魔と戦い、人々を守る日々を送っている。


守護者として過ごした年月は、まだ長くはない。


それでも、この一年で妖魔が人へ与える惨禍は嫌というほど見てきた。


だからこそ、今夜もここにいる。


東の青龍門には篤久。


西の白虎門には白虎の守護者、橘新太。


北の玄武門には玄武の守護者、九条本成。


しかし南の朱雀門だけは、今もなお守る者がいない。


四神の一柱でありながら、何故かもう何十年も朱雀の守護者は現れていなかった。


篤久は門柱へ軽く寄り掛かり夜空を見上げる。


ふと、雪の降る夜を思い出した。


朱色の髪。


本を抱き締めて笑う少女。


そして、夜の静寂に響いた、小さな鈴の音。


「……ミサ。」


五年という歳月が流れても、その名だけは胸の奥から消えることはなかった。


あの日、伝えられなかった想いも。


なぜ姿を消したのかという問いも。


すべて雪の日のまま、篤久の心に残り続けている。


『……篤久。聞こえる?』


不意に、懐から声が響いた。


静寂を破るように届いたその声に、篤久は懐へ手を入れ、小さな通信鏡を取り出した。


掌に収まるほどの鏡へ魔力を流し込むと、鏡面が淡く揺らぎ、一人の青年の姿を映し出す。


琥珀色の瞳をした玄武の守護者だった。


「……どうした? 本成。」


鏡の向こうには、穏やかな笑みを浮かべた九条本成が映っていた。


『今日は外れみたいだし、帰ってこいって。』


申し訳なさそうに苦笑する本成に、篤久はわずかに眉を寄せる。


「決断を下すには早すぎるだろう。夜はまだ長い。」


『それはそうなんだけど、今まで丑の刻を過ぎてから出現した例はないんだよね。それに――』


本成は言葉を切る。


何かに気付いたように、ふいに鏡の向こうへ視線を向けた。


その様子に、篤久の表情も引き締まる。


「……どこだ?」


『……これは』


本成の声色が変わる。


穏やかだった表情から笑みが消え、真剣な眼差しが鏡越しに篤久を見据えた。


『朱雀門の近くだ!』


その言葉を聞いた瞬間、篤久は駆け出していた。


通信鏡を懐へ戻し、青龍門の脇へ繋いでいた愛馬へ飛び乗る。


「……よりによって朱雀か!」


手綱を強く引くと、魔力を宿した魔馬は夜の大路を勢いよく駆け出した。


だが、それでも遠い。


東の青龍門から南の朱雀門まで。


急いでも十五分ほどはかかる。


篤久は舌打ちすると、再び通信鏡を取り出した。


「新太。」


ほどなくして鏡面が揺らぐ。


『移動中に話しかけんじゃねぇよ!』


怒鳴り声とともに映ったのは、白虎の守護者、橘新太…ではなく、馬の鬣(たてがみ)だった。


「……どうして馬で移動している?」


篤久は苛立ちを隠すことなく、低い声で問いかける。


白虎の守護者である新太なら、本来は神力を用いて疾風のように駆けられるはずだった。


『……明日まで物忌みで魔力がほとんど使えねぇんだよ!やっと少し回復してきたところだ!』


物忌み。


一年のうち数日だけ訪れる、心身を清めるための期間。


その間は魔力が著しく低下し、守護者であっても十分な力を発揮することはできない。


「新月でもないのに、いつもより妖気が強い……。」


篤久は朱雀門の方角を見据え、小さく呟いた。


胸騒ぎがする。


今まで感じたことのないほど、嫌な気配だった。


「急ぐぞ。」


『分かってる!』


篤久は通信鏡を懐へしまい込む。


夜風が頬を打つ。


石畳を蹴る蹄の音だけが、静まり返ったヘイアン京へ響いていた。


――間に合え。


篤久は手綱を握る手に、静かに力を込めた。




※ ※ ※




この世界は今、数年前から突如現れ始めた妖魔に脅かされていた。


四神の歴代守護者たちは、結界が途切れることのないよう、代々神力を送り続けてきた。


しかし、ここ数十年ほど朱雀の守護者だけが現れなかったことで、結界の均衡は徐々に崩れ始める。


その綻びを縫うように、比較的妖力の弱い下級妖魔が結界を潜り抜け、人々の住まうヘイアン京へ現れるようになってしまったのだ。


妖魔に取り憑かれた人間は、初めこそ風邪に似た症状を引き起こす。


だが症状が進行すると理性を失い、何かに操られるように夜の町を徘徊し始める。


そして最後には、命尽きるその瞬間まで、目につく人々を無差別に襲うようになる。


襲われた者も、すぐに命を落とすわけではない。


しかし時を置いて同じ症状を発症し、新たな犠牲者となる。


妖魔は人の心に巣食い、蝕み、侵し、魂を喰らう。


人は輪廻転生を繰り返す存在だ。


だが妖魔に喰われた魂は輪廻の輪へ還ることなく、この世から完全に消滅してしまう。


それを防ぐため、四神は人々に力を授けた。


そして今、この世界を守るために選ばれた三人がいた。


青龍、白虎、玄武。


四神より守護者として選ばれた者は、自らの魔力に比例した神力を授かる。


その力は、この世にあってはならない存在――妖魔に対抗できる唯一の力だった。


そして今宵。


ある情報により今日の深夜、『門の近く』へ妖魔が出現することが判明していた。


三人はそれぞれの門で警戒に当たっていた。


「……朱雀……」


未だ現れない朱雀の守護者。


その存在を思うたび、篤久の脳裏には、五年前に突然姿を消した一人の少女が浮かぶ。


――ミサ。


四神の守護者は代々男性のみが選ばれてきた。


そのため、ミサが朱雀の守護者である可能性など、本来あり得ない。


それでも、近年では稀有な存在となった火属性の力を持つ彼女のことが、どうしても頭から離れなかった。


物思いに耽っていた、その時だった。


懐から声が響く。


篤久はすぐに通信鏡を取り出した。


鏡には再び本成の姿が映し出されている。


「……どうした?」


『ダメだ……一人取り憑かれた!』


「逃げ切れなかったのか!?」


『中級妖魔が三体……現れた……!』


「一度に複数だと……?」


篤久は目を見開いた。


これまで妖魔が同時に複数出現した例は、ほとんどない。


だが、それ以上に篤久を焦らせたのは、現れた場所だった。


――朱雀門。


守護者が配置されていない唯一の門。


南の朱雀門には数名の武官が配置されている。


いずれも優秀な魔力の使い手だ。


しかし、妖魔が出現した場合は決して戦わず、その場から直ちに退避するよう命じられていた。


それでも逃げ切れなかった者がいた。


妖魔の餌食となったのだ。


中級妖魔に取り憑かれた人間は、下級妖魔とは比べものにならない速さで身体を侵食される。


妖魔は人間の精気を吸い続け、さらに力を増していく。


放置すれば、被害は拡大する一方だった。


「くそっ……!」


篤久は唇を噛み締める。


そして愛馬の腹を強く蹴った。


「間に合ってくれ……!」




※ ※ ※




妖魔に取り憑かれて間もない場合であれば、人間と妖魔を切り離すことは可能だった。


だが、四神から与えられた力は、それぞれ異なる。


ゆえに、守護者たちにできることもまた違っていた。


青龍の守護者は――滅する力。


神力を人の体内へ流し込むことで、妖魔そのものを消滅させることができる。


しかし、人を蝕んだ妖魔ごと滅するため、侵食が進んでしまった場合は宿主ごと消し去らなければならない。


そのため、人命を保証できる力ではなかった。


玄武の守護者は――見附ける力。


妖魔や妖魔に取り憑かれた人間を誰よりも早く察知し、その位置や数を正確に把握することができる。


さらに、妖魔の核――人間でいう心臓にあたる部分を見抜き、標を付けることも可能だ。


白虎の守護者は――瞬く力。


疾風のごとき速度で駆け、人と目を合わせることで、妖魔の侵食を一定時間食い止めることができる。


そして――。


朱雀の守護者は、浄める力。


妖魔に取り憑かれた人間から妖魔だけを引き剥がし、蝕まれた身体までも浄化して元に戻す。


唯一、人を救うことのできる力。


だからこそ。


もう何十年も現れない朱雀の守護者を、誰もが待ち望んでいた。


その不在を埋めるためにも、三人は一刻も早く妖魔を討たなければならない。


篤久が朱雀門へ向かい始めてから、およそ十分。


門へ近付くにつれ、漂う妖気はさらに濃さを増していく。


篤久はその胸騒ぎを振り払うように、手綱を強く握り締めた。


その先に待つものが、運命を大きく動かすことになるとは、この時の篤久はまだ知らなかった。




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