第一章 邂逅 第三話『初雪のくちづけ』
季節は巡り、庭木を彩っていた紅葉もすっかり葉を落とした。
冬の気配が、夜の空気に静かに溶け込んでいく。
あれから幾度か、新月と満月の夜が訪れた。
どちらから約束を交わしたわけでもない。
それでも二人は、夜更けになると自然とあの屋根の上で顔を合わせていた。
篤久が持ってくる物語も、いつしか三つ目になっていた。
最初は文字を追うだけで精一杯だったミサも、今では一人で読み進められるほどになっていた。
篤久が読み聞かせることは、もうほとんどない。
代わりに、物語について語り合う時間が増えていた。
「あそこは、ああした方が良かったと思う。」
「いや、それじゃ話にならないだろ。」
「でも、この人、かわいそうだったもん。」
「あれは自業自得だ。」
そんな他愛もないやり取りを交わしながら、一冊、また一冊と物語を読み終えていく。
気づけば、読書よりも語り合う時間の方が長くなっていた。
新しい物語も終わりに近づいた頃。
夜風だけが、二人の間をそっと吹き抜けていく。
しばらく静かな時間が流れる。
夜風が頁を揺らし、紙をめくる音だけが屋根の上に響いていた。
篤久は時折ミサへ視線を向ける。
文字を追うその横顔は、初めて出会った頃よりずっと真剣で、頁をめくる手つきも随分と慣れたものになっていた。
分からない文字があれば、篤久がそっと教える。
ミサは嬉しそうに頷き、また夢中になって文字を追いかけていく。
やがて最後の頁を読み終えると、ミサは本を静かに閉じた。
「終わっちゃった……。」
どこか名残惜しそうに呟く。
その声を聞いて、篤久はふっと笑みを零した。
「ほら。」
懐へ手を入れ、一冊の本を取り出す。
先ほど読み終えた物語の、続きだった。
「えっ?!」
ミサの夕暮れ色の瞳がぱっと輝く。
「これ……。」
「続き、持って帰るだろ?」
篤久が差し出すと、ミサは驚いたように本と篤久の顔を何度も見比べた。
「良いの?」
「どうせ、すぐ読み終える。」
少しだけ意地悪そうに笑う篤久に、ミサは小さく頬を膨らませる。
「そんなに早く読めないもん。」
そう言いながらも、大切な宝物を受け取るように両手で本を抱きしめた。
「……ありがとう。」
その笑顔を見るだけで、篤久も自然と口元が緩む。
また次の夜には、この本を抱えてここへ来る。
そんな未来を疑うことなど、この時の二人にはなかった。
ふと、本を抱えたままのミサが顔を上げる。
「篤って、何歳なの?」
唐突な問いに、篤久はわずかに目を細めた。
――また、何の躊躇いもなく聞いてくる。
「年が明けたら十二だ。ミサは?」
「あっ、同じだ! 私も。」
篤久はふと笑みを収めると、ミサへ視線を向けた。
「そういえば。」
「ん?」
「ミサは……シノビなのか?」
その問いに、ミサはきょとんとした表情を浮かべる。
やがて困ったように笑い、小さく首を傾げた。
「うーん……半分正解で、半分不正解かな。」
「半分?」
「うん。」
抱えていた本をそっと撫でながら、ミサは静かに頷く。
「半分は、ただの付き人。」
「付き人……。」
篤久はその言葉を小さく繰り返した。
誰かに仕えている。
そこまでは分かった。
けれど、誰に仕え、何を守っているのか。
その先を尋ねようとしたが、ミサはそれ以上話すつもりはないらしい。
夜空を見上げ、小さく息を吐く。
「あっ。」
ミサが小さく声を上げた。
篤久もつられるように夜空を見上げる。
白い雪が、ひとひら。
またひとひらと、静かに舞い降りてきた。
「雪だ。」
「初雪だな。」
篤久がそう呟くと、ミサは嬉しそうに手を伸ばす。
掌へ舞い降りた雪は、儚く溶けて消えた。
「綺麗……。」
その笑顔を見つめながら、篤久はそっと指先を動かす。
水属性の魔力が淡く揺らぎ、二人の頭上へ透明な結界が静かに広がった。
降り積もる雪は結界に触れるたび音もなく弾かれ、二人を濡らすことはない。
「これなら、本も濡れない。」
篤久がそう言うと、ミサは抱えていた本を見下ろし、小さく笑った。
「ありがとう。」
その言葉とともに、ミサは胸の前でそっと両手を重ねる。
淡い朱色の魔力が、掌からふわりと溢れた。
温かな空気が結界の中へゆっくりと満ちていく。
「少しだけ、暖かくしたの。」
「……。」
篤久は目を細めた。
冷えていた空気が嘘のように和らぎ、思わず肩の力が抜ける。
「良い魔力だな。」
思わず漏れたその言葉に、ミサは少し照れたように笑う。
雪は静かに降り続ける。
穏やかな時間が、二人を優しく包んでいた。
「そろそろ帰るね。」
ミサはそう言うと、大切そうに本を懐へとしまう。
その拍子に、腰へ結んだ小さな鈴が、ちりんと可憐な音を立てた。
それは亡き母が遺してくれた、たった一つの形見。
幼い頃から、どこへ行くにも肌身離さず身につけている大切なお守りだった。
篤久はその音にふと目を向ける。
「綺麗な鈴音だな。」
そう呟くと、ミサは少し照れくさそうに鈴へ触れ、優しく微笑んだ。
「お母さんの形見なの。」
その笑顔を見た篤久も、穏やかに笑みを返す。
ミサは嬉しそうに微笑むと、くるりと踵を返した。
結界の外へ、一歩踏み出す。
その瞬間だった。
「あっ――」
雪の積もり始めた瓦へ足を取られ、身体がぐらりと傾く。
「危ない!」
篤久は反射的に腕を伸ばした。
細い腕を掴み、そのまま強く引き寄せる。
だが、雪で濡れた瓦は篤久の足元までも奪った。
踏み留まろうとした身体が滑り、二人の距離が一気に縮まる。
「……っ!」
次の瞬間。
唇が重なった。
ほんの一瞬。
息を呑む間もないほど短い出来事。
篤久は目を見開いたまま動けなかった。
胸の奥が、不思議と熱を帯びる。
鼓動が早くなったせいなのか。
それとも、初めて誰かに触れたからなのか。
理由は分からない。
ただ、言葉にできない違和感だけが胸の奥に残っていた。
「……っ。」
ミサは弾かれたように身を離す。
転んだ拍子に被衣が落ちていた。
その表情から、みるみる血の気が引いていく。
「そんな……。」
震える声が、小さく夜へ溶けた。
篤久が声を掛けようとした、その時。
夜風がふわりと吹き抜ける。
組み紐で纏められていた長い髪がさらりと揺れた。
月明かりを浴びたその髪は、まるで夕焼けを溶かしたような見事に美しい朱色だった。
篤久は思わず息を呑んだ。
あまりにも綺麗だった。
気付けば、無意識に手を伸ばしていた。
さらり、と。
指先が朱色の髪へ触れる。
絹糸のようになめらかな感触が指先を滑る。
「……綺麗な色だな。」
その一言に、ミサの肩がびくりと震えた。
夕暮れ色の瞳が揺れる。
驚きと戸惑い、そして焦りが入り混じったような表情で篤久を見つめる。
やがて唇をきゅっと結ぶと、拾った被衣を抱きしめる腕に力を込めた。
次の瞬間、ミサは踵を返す。
「ミサ!」
篤久の呼びかけにも、ミサは振り返らなかった。
朱色の髪を夜風になびかせながら、その姿は雪降る夜の闇へ溶けるように遠ざかっていく。
やがて、その姿が見えなくなった、その時。
――チリン。
静まり返った夜に、小さな鈴の音だけが響いた。
篤久は、その音の消えた方角を、いつまでも見つめ続けていた。
※ ※ ※
あの日以来。
篤久は、新月の夜も満月の夜も、何度もあの屋根へ足を運んだ。
もしかしたら、また来てくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら。
しかし、どれだけ待ち続けても、ミサが姿を現すことはなかった。
季節は巡る。
雪は解け、花が咲き、木々の葉は色を変える。
それでも、篤久の中から消えることのないものがあった。
本を抱え、嬉しそうに笑う顔。
何気ない言葉で、自分の心を揺らす声。
誰も信じられなかった自分に、初めて「また逢いたい」と思わせた存在。
なぜ、これほどまでに逢いたいのか。
なぜ、いないことがこんなにも苦しいのか。
篤久は、ようやくその答えに辿り着いた。
――好きだ。
ミサのことが、好きなのだ。
そう気付いた時には、もう伝える相手はいなかった。
「次に逢えたら……。」
篤久は夜空を見上げる。
「今度こそ、伝えよう。」
そう決めた想いが届くことはないまま。
五年という歳月だけが、静かに流れていった――。




