↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/47

第一章 邂逅  第三話『初雪のくちづけ』

季節は巡り、庭木を彩っていた紅葉もすっかり葉を落とした。


冬の気配が、夜の空気に静かに溶け込んでいく。


あれから幾度か、新月と満月の夜が訪れた。


どちらから約束を交わしたわけでもない。


それでも二人は、夜更けになると自然とあの屋根の上で顔を合わせていた。


篤久が持ってくる物語も、いつしか三つ目になっていた。


最初は文字を追うだけで精一杯だったミサも、今では一人で読み進められるほどになっていた。


篤久が読み聞かせることは、もうほとんどない。


代わりに、物語について語り合う時間が増えていた。


「あそこは、ああした方が良かったと思う。」


「いや、それじゃ話にならないだろ。」


「でも、この人、かわいそうだったもん。」


「あれは自業自得だ。」


そんな他愛もないやり取りを交わしながら、一冊、また一冊と物語を読み終えていく。


気づけば、読書よりも語り合う時間の方が長くなっていた。


新しい物語も終わりに近づいた頃。


夜風だけが、二人の間をそっと吹き抜けていく。


しばらく静かな時間が流れる。


夜風が頁を揺らし、紙をめくる音だけが屋根の上に響いていた。


篤久は時折ミサへ視線を向ける。


文字を追うその横顔は、初めて出会った頃よりずっと真剣で、頁をめくる手つきも随分と慣れたものになっていた。


分からない文字があれば、篤久がそっと教える。


ミサは嬉しそうに頷き、また夢中になって文字を追いかけていく。


やがて最後の頁を読み終えると、ミサは本を静かに閉じた。


「終わっちゃった……。」


どこか名残惜しそうに呟く。


その声を聞いて、篤久はふっと笑みを零した。


「ほら。」


懐へ手を入れ、一冊の本を取り出す。


先ほど読み終えた物語の、続きだった。


「えっ?!」


ミサの夕暮れ色の瞳がぱっと輝く。


「これ……。」


「続き、持って帰るだろ?」


篤久が差し出すと、ミサは驚いたように本と篤久の顔を何度も見比べた。


「良いの?」


「どうせ、すぐ読み終える。」


少しだけ意地悪そうに笑う篤久に、ミサは小さく頬を膨らませる。


「そんなに早く読めないもん。」


そう言いながらも、大切な宝物を受け取るように両手で本を抱きしめた。


「……ありがとう。」


その笑顔を見るだけで、篤久も自然と口元が緩む。


また次の夜には、この本を抱えてここへ来る。


そんな未来を疑うことなど、この時の二人にはなかった。


ふと、本を抱えたままのミサが顔を上げる。


「篤って、何歳なの?」


唐突な問いに、篤久はわずかに目を細めた。


――また、何の躊躇いもなく聞いてくる。


「年が明けたら十二だ。ミサは?」


「あっ、同じだ! 私も。」


篤久はふと笑みを収めると、ミサへ視線を向けた。


「そういえば。」


「ん?」


「ミサは……シノビなのか?」


その問いに、ミサはきょとんとした表情を浮かべる。


やがて困ったように笑い、小さく首を傾げた。


「うーん……半分正解で、半分不正解かな。」


「半分?」


「うん。」


抱えていた本をそっと撫でながら、ミサは静かに頷く。


「半分は、ただの付き人。」


「付き人……。」


篤久はその言葉を小さく繰り返した。


誰かに仕えている。


そこまでは分かった。


けれど、誰に仕え、何を守っているのか。


その先を尋ねようとしたが、ミサはそれ以上話すつもりはないらしい。


夜空を見上げ、小さく息を吐く。


「あっ。」


ミサが小さく声を上げた。


篤久もつられるように夜空を見上げる。


白い雪が、ひとひら。


またひとひらと、静かに舞い降りてきた。


「雪だ。」


「初雪だな。」


篤久がそう呟くと、ミサは嬉しそうに手を伸ばす。


掌へ舞い降りた雪は、儚く溶けて消えた。


「綺麗……。」


その笑顔を見つめながら、篤久はそっと指先を動かす。


水属性の魔力が淡く揺らぎ、二人の頭上へ透明な結界が静かに広がった。


降り積もる雪は結界に触れるたび音もなく弾かれ、二人を濡らすことはない。


「これなら、本も濡れない。」


篤久がそう言うと、ミサは抱えていた本を見下ろし、小さく笑った。


「ありがとう。」


その言葉とともに、ミサは胸の前でそっと両手を重ねる。


淡い朱色の魔力が、掌からふわりと溢れた。


温かな空気が結界の中へゆっくりと満ちていく。


「少しだけ、暖かくしたの。」


「……。」


篤久は目を細めた。


冷えていた空気が嘘のように和らぎ、思わず肩の力が抜ける。


「良い魔力だな。」


思わず漏れたその言葉に、ミサは少し照れたように笑う。


雪は静かに降り続ける。


穏やかな時間が、二人を優しく包んでいた。


「そろそろ帰るね。」


ミサはそう言うと、大切そうに本を懐へとしまう。


その拍子に、腰へ結んだ小さな鈴が、ちりんと可憐な音を立てた。


それは亡き母が遺してくれた、たった一つの形見。


幼い頃から、どこへ行くにも肌身離さず身につけている大切なお守りだった。


篤久はその音にふと目を向ける。


「綺麗な鈴音だな。」


そう呟くと、ミサは少し照れくさそうに鈴へ触れ、優しく微笑んだ。


「お母さんの形見なの。」


その笑顔を見た篤久も、穏やかに笑みを返す。


ミサは嬉しそうに微笑むと、くるりと踵を返した。


結界の外へ、一歩踏み出す。


その瞬間だった。


「あっ――」


雪の積もり始めた瓦へ足を取られ、身体がぐらりと傾く。


「危ない!」


篤久は反射的に腕を伸ばした。


細い腕を掴み、そのまま強く引き寄せる。


だが、雪で濡れた瓦は篤久の足元までも奪った。


踏み留まろうとした身体が滑り、二人の距離が一気に縮まる。


「……っ!」


次の瞬間。


唇が重なった。


ほんの一瞬。


息を呑む間もないほど短い出来事。


篤久は目を見開いたまま動けなかった。


胸の奥が、不思議と熱を帯びる。


鼓動が早くなったせいなのか。


それとも、初めて誰かに触れたからなのか。


理由は分からない。


ただ、言葉にできない違和感だけが胸の奥に残っていた。


「……っ。」


ミサは弾かれたように身を離す。


転んだ拍子に被衣が落ちていた。


その表情から、みるみる血の気が引いていく。


「そんな……。」


震える声が、小さく夜へ溶けた。


篤久が声を掛けようとした、その時。


夜風がふわりと吹き抜ける。


組み紐で纏められていた長い髪がさらりと揺れた。


月明かりを浴びたその髪は、まるで夕焼けを溶かしたような見事に美しい朱色だった。


篤久は思わず息を呑んだ。


あまりにも綺麗だった。


気付けば、無意識に手を伸ばしていた。


さらり、と。


指先が朱色の髪へ触れる。


絹糸のようになめらかな感触が指先を滑る。


「……綺麗な色だな。」


その一言に、ミサの肩がびくりと震えた。


夕暮れ色の瞳が揺れる。


驚きと戸惑い、そして焦りが入り混じったような表情で篤久を見つめる。


やがて唇をきゅっと結ぶと、拾った被衣を抱きしめる腕に力を込めた。


次の瞬間、ミサは踵を返す。


「ミサ!」


篤久の呼びかけにも、ミサは振り返らなかった。


朱色の髪を夜風になびかせながら、その姿は雪降る夜の闇へ溶けるように遠ざかっていく。


やがて、その姿が見えなくなった、その時。


――チリン。


静まり返った夜に、小さな鈴の音だけが響いた。


篤久は、その音の消えた方角を、いつまでも見つめ続けていた。




※ ※ ※




あの日以来。


篤久は、新月の夜も満月の夜も、何度もあの屋根へ足を運んだ。


もしかしたら、また来てくれるかもしれない。


そんな淡い期待を抱きながら。


しかし、どれだけ待ち続けても、ミサが姿を現すことはなかった。


季節は巡る。


雪は解け、花が咲き、木々の葉は色を変える。


それでも、篤久の中から消えることのないものがあった。


本を抱え、嬉しそうに笑う顔。


何気ない言葉で、自分の心を揺らす声。


誰も信じられなかった自分に、初めて「また逢いたい」と思わせた存在。


なぜ、これほどまでに逢いたいのか。


なぜ、いないことがこんなにも苦しいのか。


篤久は、ようやくその答えに辿り着いた。


――好きだ。


ミサのことが、好きなのだ。


そう気付いた時には、もう伝える相手はいなかった。


「次に逢えたら……。」


篤久は夜空を見上げる。


「今度こそ、伝えよう。」


そう決めた想いが届くことはないまま。


五年という歳月だけが、静かに流れていった――。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。