第一章 邂逅 第二話『夕暮れ色の瞳』
秋の空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
夜ごと瞬く星々も、日ごとに深まる秋を喜ぶように、その輝きを増している。
あの夜、屋根の上で素性も知らぬ少女と出会ってから、幾日かが過ぎていた。
元服を終えた篤久は、関白太政大臣の嫡男として宮中へ出仕する日々を送っていた。
とはいえ、まだ十一歳。
朝は宮中で文書を運び、政務の手伝いを務めるものの、重きを置かれる役目を任されることはない。
その日の務めを終えると、篤久は誰よりも早く屋敷へ戻った。
衣を改めるや否や、自室の書棚へ向かう。
壁一面に納められた書物へ次々と手を伸ばし、一冊ずつ頁を繰っては脇へ積み重ねていく。
「……違う。」
また一冊。
「これでもない。」
さらに一冊。
読み終えた書物はいつしか小さな山となり、篤久の傍らに積み上がっていた。
やがて。
「あった……。」
安堵の吐息が漏れる。
そっと取り上げたのは、幼い頃に何度も読み返した物語だった。
すべてひらがなだけで綴られた、小さな子どもでも読める一冊。
指先で表紙を撫でると、自然と頬が緩んだ。
脳裏によみがえるのは、夕暮れ色の瞳。
被衣の奥で笑う少女。
「ありがとう、篤!」
名前を最後まで覚えてもらえなかったことさえ、今となっては可笑しく思える。
篤久は小さく笑みを漏らした。
「……また会えると良いな。」
その想いは、昨夜よりも、さらに強くなっていた。
眠ろうと目を閉じても、思い浮かぶのはミサのことばかり。
夜風に揺れた被衣。
掌に灯した小さな火。
屈託なく笑う声。
そして、真っ直ぐに見つめてきた夕暮れ色の瞳。
結局、篤久は一睡もできぬまま朝を迎えた。
生まれて初めてのことだった。
幼い頃から、篤久の周りには常に人がいた。
関白太政大臣の嫡男という立場は、人を惹き寄せる。
だが、そのほとんどは篤久自身ではなく、その肩書きを見て近づく者ばかりだった。
機嫌を窺う家臣。
媚びる大人たち。
必要以上に気を遣う同年代の子どもたち。
心から笑い合える友など、一人としていなかった。
だからこそ。
誰にも明かせぬ胸の内は、毎夜、日記へ綴ってきた。
嬉しかったこと。
腹立たしかったこと。
寂しかったこと。
誰にも言えない本音だけは、墨に託して書き連ねてきた。
篤久は文机に置いた日記へ目を落とす。
頁をめくるたび、幼い自分の拙い文字が並んでいた。
勢い余ってひらがなばかりになった頁を見つけると、思わず額を押さえる。
「……あれを見られたんだよな。」
今さら羞恥が込み上げる。
呆れられただろうか。
笑われただろうか。
いや——。
確かめたい。
もう一度、あの少女に会って。
あの笑顔を、もう一度見たい。
篤久は静かに本を抱き寄せた。
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
※ ※ ※
あれから二週間――。
本に魔力を流し、自分以外の誰かが触れれば分かるよう仕掛けることにした。
毎日魔力を込め直しては、夜ごと離れの屋根へ置く。
そんな日々を、篤久は飽きることなく繰り返していた。
昼は宮中へ出仕し、雑務をこなす。
務めを終えれば都を歩き、人目を避けて屋根伝いに街を巡ることもあった。
あの夕暮れ色の瞳を、もう一度見つけられないかと。
けれど、どれだけ探してもミサの姿は見つからなかった。
「……はぁ。」
小さく息を吐く。
今思えば、またあの場所へ来てくれると考えたこと自体、都合のいい願いだったのかもしれない。
自分の秘密を知られた場所へ、わざわざ戻ってくる者などいるだろうか。
そう考えるたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
そして迎えた十五夜。
雲ひとつない夜空には、まんまるの満月が静かに輝いていた。
篤久は自室の窓辺に立ち、月を見上げる。文机の傍らには、十五夜のために供えられた月見団子が並んでいた。
本来なら家族や親しい者と月を愛でながら口にするもの。
けれど、この広い屋敷で月を眺めているのは、今夜も篤久ただ一人だった。
団子を一つ口へ運び、静かに飲み込む。
美味いはずなのに、どこか味気ない。
一人で食べることに慣れているからこそ、その寂しさを誰よりも知っていた。
ふと懐へ手を入れ、小さなお守り袋を取り出す。
紐をほどくと、掌へころんと蒼い玉が転がった。
月光を受けて淡く輝くその玉は、篤久の瞳と同じ色を宿している。
青龍玉――青龍の守護者として生まれた者だけが持つ、守護の証だった。
満月の夜は、神力が最も満ちる夜。
まだ守護紋は現れておらず、篤久は覚醒していない。それでも身体の奥底では、水の神力が日に日に強く脈打っているのを感じていた。
「……よりによって、青龍か」
四神の守護者には、それぞれ神力の代償がある。
白虎は食欲
玄武は睡眠欲
そして青龍は――性欲。
神力を使う代償として、その欲が強くなる。
さらに青龍の守護者は、子を残すことができない。
その宿命を知った瞬間、皇族から藤原家へ降嫁した母は絶望した。
跡継ぎを産むという重責の末に授かった男子が、家の血を繋げられない存在だったのだから。
幼い篤久は、抱き締めてもらえない理由も、笑いかけても目を逸らされる理由も分からなかった。
だからこそ、人の温もりを知らずに育った。
篤久は青龍玉を握り締め、静かに目を伏せる。
満月は美しい。
けれど篤久にとっては、青龍という宿命を最も憎く思い知らされる夜だった。
篤久は自嘲するように小さく笑った。
人との関わりを避けてきた自分が。
誰かを求める宿命を背負うなど、なんとも皮肉な話だった。
青龍玉を袋へ戻そうとして、その手が止まる。
脳裏に浮かんだのは、一人の少女。
被衣に隠れた素顔。
夕暮れ色の瞳。
そして、無邪気な笑顔。
『ありがとう、篤。』
最後まで名前を覚えてもらえなかった。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その声を思い出すだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……会いたい。」
思わず漏れたその一言に、篤久自身が目を見開いた。
誰かに会いたいなどと思ったことは、一度もなかった。
なのに今は。
もう一度あの笑顔を見たい。
ただ、それだけを願っている自分がいた。
篤久は苦笑しながら青龍玉をお守り袋へ戻し、静かに息を吐いた。
その時――。
「……!」
不意に、篤久は顔を上げる。
離れの屋根へ置いてきた一冊の本。
そこへ込めていた水属性の魔力が、微かに揺らいだ。
誰かが、本に触れたのだ。
篤久の心臓が大きく跳ねる。
まさか――。
期待と不安が一度に胸を駆け巡る。
考えるよりも先に身体が動いていた。
篤久は遣戸を勢いよく開くと、縁へ飛び出す。
夜風が衣をはためかせる。
柱へ手を添え、軽く踏み切る。
次の瞬間、その身は音もなく屋根の上へ舞い上がっていた。
目指す先はただ一つ。
二週間前、あの少女と出会った離れの屋根。
月明かりに照らされたその場所へ辿り着いた篤久は、思わず息を呑む。
「……!」
そこには、一冊の本を大切そうに抱えた少女が立っていた。
被衣に隠れた素顔。
月光を映す夕暮れ色の瞳。
二週間もの間、会いたいと願い続けた少女――ミサが、静かに篤久を見つめていた。
「……また忘れたの?」
屋根へ降り立った篤久を見るなり、ミサは抱えていた本を少し持ち上げた。
どこか呆れたような声色だったが、その奥にはわずかな笑みが滲んでいる。
篤久は息を整えながら首を横に振った。
「それは忘れ物じゃない。」
「そうなの?」
「ああ。ミサに読んでもらおうと思って置いておいた。」
「……私に?」
篤久は静かに頷く。
「全部ひらがなで書いてある。」
その一言に、ミサは慌てて本を開いた。
頁をぱらぱらとめくるたび、夕暮れ色の瞳が少しずつ輝いていく。
「ほんとだ……!」
嬉しそうに文字を追う姿を見て、篤久は思わず口元を緩めた。
どうやら思った通りだった。
ミサは本が好きなのだ。
「面白そう……。」
ぽつりと漏れた一言に、篤久は胸をなで下ろす。
選んだ本は間違っていなかったらしい。
「持っていって良いよ。」
ミサは驚いたように顔を上げる。
「えっ、本当に?」
「ああ。」
けれど、すぐにその表情は曇った。
「……でも、返せるか分からないよ?」
篤久は少しだけ笑う。
「返せなくても良いから。」
本当は返しに来てほしい。
もう一度会う理由がほしい。
そんな本音は胸の奥へしまい込んだまま。
「ありがとう、篤!」
「……だから違うって。」
苦笑しながら返す。
以前なら、もっと真面目に訂正していただろう。
けれど今は、それ以上言い返す気になれなかった。
名前を間違えられているはずなのに、不思議と嫌ではない。
ミサは大事そうに本を胸へ抱くと、少し照れくさそうに笑う。
「でもね。」
ミサは大事そうに本を抱えたまま、少し困ったように笑う。
「まだ、ひらがな読むの遅いんだ。」
「そうなのか?」
「最近やっと読めるようになったばっかりだから。」
「あー……。」
篤久は一瞬返事に困る。
だが、何かを思いついたようにふっと笑った。
「だったら読み聞かせてやるよ。」
「え?」
篤久はミサへ一歩近づき、そっと本を手に取る。
その時だった。
月明かりに照らされた夕暮れ色の瞳が、真っ直ぐ自分を見つめ返していた。
こうして向かい合って立ってみて、初めて気づいた。
――少し、背が高い……?
自分とそう変わらないと思っていたのに、ミサの方がほんの少しだけ目線が高い。
その事実が、なぜだか少し悔しい。
篤久は何事もなかったような顔で、その場へ腰を下ろした。
「ほら。」
ぽんぽん、と隣の瓦を軽く叩く。
ミサは小さく笑うと、言われるがまま篤久の隣へ腰を下ろした。
肩が触れそうで触れない距離。
篤久は本を開き、ふと顔を上げる。
「……灯り、お願い。」
「篤も魔力あるよね?」
「ああ。でも俺は水属性だから、灯りは灯せない。」
「魔光石に明かりは灯せるでしょ。」
魔光石。
魔力を流し込むことで光を放つ、貴重な石。
高価なため、貴族の屋敷以外で目にすることはほとんどない。
「生憎、今は手持ちがないんだ。」
部屋へ戻ればいくらでもある。
けれど、今は取りに戻る一瞬さえ惜しかった。
「へぇ?」
ミサはくすりと笑うと、右手をそっと開く。
次の瞬間、小さな朱色の灯が掌にふわりと灯った。
その柔らかな灯は夜風にも揺らぐことなく、本の頁を優しく照らし出す。
篤久は思わず、その灯へ目を向けた。
火属性の魔力を扱える者は少ない。
それだけではない。
まるで呼吸をするように自然に魔力を操るその姿に、篤久はしばらく見入ってしまう。
「……どうしたの?」
ミサが不思議そうに首を傾げる。
「……いや。」
篤久は我に返り、小さく首を振った。
誤魔化すように本を開き、最初の一文字を指でなぞる。
「むかしむかし――。」
篤久はゆっくりと物語を読み始めた。
満月の光と、ミサの掌に灯る朱色の灯。
二つの光が重なり、本の頁を優しく照らしている。
篤久は一文字ずつ指先でなぞりながら、穏やかな声で読み進めた。
その動きに合わせるように、ミサも真剣な眼差しで文字を追っていく。
読める文字は小さく口の中で繰り返し、分からない文字になると、篤久の指先へそっと視線を移した。
夢中になって物語を追いかけるその姿に、篤久は思わず口元を緩める。
誰かに本を読んで聞かせるのは初めてだった。
まして、隣でこんなにも楽しそうに聞いてくれる者など、今まで一人もいない。
不思議だった。
ただ本を読んでいるだけなのに、こんなにも心が満たされるなんて。
夜風が静かに吹き抜ける。
頁がふわりと揺れ、そのたびにミサは灯が消えないよう、そっと掌で包み込んだ。
その何気ない仕草に、篤久はまた視線を奪われる。
朱色の灯に照らされた横顔は、どこか幻想的で。
自分でも気づかないうちに、読み進める声は少しだけ柔らかくなっていた。
どれほど時が過ぎただろう。
物語がちょうど盛り上がりを見せ始めた、その時だった。
「……あ。」
ミサが小さく夜空を見上げる。
つられるように篤久も空を仰いだ。
満月は、いつの間にか二人の真上まで昇っている。
「もう帰らないと……。」
その声は、どこか名残惜しそうだった。
篤久は開いた頁へ目を落とす。
あと少し読めば、この場面はきっと一区切り。
けれど、それでは今夜で終わってしまう。
「……今日は、ここまでだな。」
本をそっと閉じる。
ミサは閉じられた表紙を見つめ、小さく肩を落とした。
「続き、気になる……。」
思わず零れたようなその一言に、篤久は少しだけ笑みを浮かべる。
「持っていって良いよ。」
篤久は本をミサへ差し出した。
「えっ? 良いの?」
ミサは本と篤久の顔を何度も見比べる。
「……うーん。」
少し考え込むように本を見つめると、小さく呟いた。
「新月までに読めるかなぁ。」
「新月?」
篤久は思わず聞き返す。
「次お外に出られるのは新月だから。」
篤久は思わず笑みを浮かべた。
「急がなくていい。」
そう言って本をミサの方へそっと押し出す。
「返せなくても良いから。」
その一言に、ミサは驚いたように目を丸くした。
「……でも。」
「読み終わるまで、大事にしてくれたら、それで十分だ。」
しばらく本を見つめていたミサは、やがて大切そうに胸へ抱き寄せる。
「……ありがとう。」
その笑顔に、篤久も小さく頷く。
「もう、本当に帰らないと。」
名残惜しそうに呟くと、ミサは屋根の端まで歩いていく。
「じゃあね、篤。」
篤久はもう、その呼び方を訂正しなかった。
「……またな。」
その一言に、ミサは嬉しそうに微笑む。
次の瞬間、屋根を軽く蹴ると、その身体はふわりと夜空へ舞い上がった。
満月を背に一度だけ身を翻し、そのまま築地塀の向こうへ姿を消す。
篤久はしばらく、その場から動けなかった。
手元には、もう本はない。
それでも、不思議と胸は満たされていた。
「……次は、新月か。」
夜空に浮かぶ満月を見上げ、篤久は小さく呟く。
その声は夜風に溶け、静かに消えていった。




