第一章 邂逅 第一話『夜に響く鈴』
夜更けも過ぎた頃。
新月の夜は月明かりを失い、満天の星々だけが天を埋め尽くしていた。
屋敷の門や渡り廊下には、道を示すように灯籠の灯が静かに揺れている。
虫の声だけが響く夜。
その静寂を縫うように、一人の少年が屋根へと軽やかに飛び上がった。
藤原篤久。
つい先日、元服を迎えたばかりの少年である。
足音一つ立てることなく瓦へ降り立った篤久は、夜目を利かせながら屋敷を見渡した。
すると、屋敷の一角にある離れの屋根で、小さな灯がぽうっと揺れているのが目に入る。
蝋燭にしては頼りなく、それでいて風に消える気配もない、不思議な灯だった。
「……あそこは。」
篤久は小さく呟く。
つい先日、自分が一人で過ごしていた場所。
そして――。
「まさか……。」
胸がざわつく。
うっかり置き忘れてしまった日記。
誰にも見られたくない、大切な本。
嫌な予感が胸をよぎり、篤久は目を凝らした。
灯の傍らには、一人の人影がうずくまっている。
頭から被衣を深く被り、全身を黒い衣で包んだ、小柄な人物。
夜の闇へ溶け込むようなその姿は、どう見ても屋敷の者ではなかった。
――盗人か?
篤久は気配を消し、ゆっくりと屋根伝いに近づいていく。
瓦一枚すら鳴らさぬよう慎重に。
あと数歩。
そう思った、その時だった。
「――!」
人影がぴくりと顔を上げた。
同時に、手の中で揺れていた小さな灯が、音もなく消える。
夜が、一気に深くなった。
暗闇の中。
被衣の奥から覗く大きな瞳が、真っ直ぐに篤久を捉える。
その瞳を見た瞬間。
篤久は思わず息を呑んだ。
――女の子?
予想もしなかった答えに、頭が真っ白になる。
こんな夜更けに。
しかも、自分が結界を張った屋敷の中に。
少女は驚いた様子もなく、一冊の本をそっと差し出した。
「……これ、あんたの?」
篤久は差し出された本を見て、肩を震わせる。
それは間違いなく、自分の日記だった。
「あ、あぁ……。」
思わず受け取った日記を胸に抱き寄せる。
鼓動がやけに速い。
見られた。
その考えが頭を埋め尽くす。
「……見た、よな?」
恐る恐る問いかけると、少女は少しだけ首を傾げ、素直にこくりと頷いた。
その仕草だけで、篤久はがっくりと肩を落とす。
「……最悪だ。」
ぽつりと漏れた声に、少女は不思議そうに瞬きをした。
「でも、読んでないよ?」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「中は見た。でも漢字が読めないから、何が書いてあるか分からないし。」
あまりにもあっさりした答えだった。
その瞳には嘘も悪意もない。
篤久はしばらく少女を見つめたあと、大きく息を吐いた。
「ああ……そういうことか。」
胸につかえていたものが、一気にほどけていく。
この少女は貴族ではない。
少なくとも、幼い頃から文字を学ぶような家柄ではないのだろう。
そう思うと、不思議なくらい安心した。
「……良かった。」
少女が首を傾げる。
その仕草がどこか愛らしくて、篤久は慌てて視線を逸らした。
「いや、何でもない。」
「ふーん?」
くすり、と少女が笑う。
その笑い声は、夜風に溶けるように柔らかかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
――いや、違う。
篤久は小さく頭を振る。
落ち着け。
相手は正体も分からない少女だ。
この屋敷には、自分が結界を張っている。
『悪意ある者、入るべからず。』
そう定めた結界だ。
つまり、この少女に敵意はない。
だが、それだけだ。
正体も、目的も、何ひとつ分からない。
篤久が考え込んでいると、少女は何気ない仕草で右手を差し出した。
その小さな掌に、ぽうっと柔らかな灯がともる。
篤久は目を見開いた。
「……火属性!?」
「え?」
少女はきょとんと目を丸くする。
「そうだけど?」
あまりにも当然だと言わんばかりの返事だった。
篤久は思わず掌の灯を見つめる。
火属性。
今では極めて希少とされる力。
赤い瞳を持って生まれたとしても、その力に目覚める者はごくわずかしかいない。
それなのに。
目の前の少女は、まるで息をするように火を灯している。
篤久はようやく気付いた。
先ほど屋根の上で見えた灯は、蝋燭ではなかったのだ。
少女自身の魔力だったのである。
「……あんた、さっき私の手を見て驚いたんじゃないの?」
少女は首を傾げながら、自分の掌を見つめる。
「えっ?」
篤久は我に返った。
「……いや、俺はこれを見られたと思って。」
抱えていた日記をそっと持ち上げて見せる。
その瞬間だった。
「……へっ?」
今度は少女の頬がみるみる赤く染まっていく。
手の中の灯に照らされ、夕暮れ色の瞳がわずかに揺れた。
頭から被った被衣に隠れ、顔全体は見えない。
それでも、慌てていることだけははっきりと分かった。
「あっ……。」
篤久もようやく状況を理解する。
互いに、まったく違うことで驚いていたのだ。
次の瞬間。
「ややこしい驚き方しないでよ!」
少女は勢いよく立ち上がった。
「バレたと思って、すっごく焦ったのに!」
両手をぶんぶん振り回しながら抗議する姿は、どこか子どもらしくて思わず笑ってしまいそうになる。
「開き直って損したぁ……。」
そう言うと、少女はその場にしゃがみ込み、膝を抱えた。
掌の灯も、しゅんと気持ちを映すように小さく揺れ、やがて静かに消えていく。
「あぁ……どうしよう。」
ぽつり、と漏れる声。
「バレたって分かったら、きっと怒られる……。」
その一言だけで十分だった。
火属性であることは秘密。
誰かとの約束なのか、それとも守らなければならない掟なのか。
理由は分からない。
けれど、この少女が本気で困っていることだけは伝わってきた。
篤久は少しだけ視線を落とす。
自分が余計な反応をしてしまったせいだ。
そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……別に。」
少女が顔を上げる。
「誰にも言わないけど。」
その言葉に、少女はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「……ほんと?」
「ああ。」
少し照れくさくなって視線を逸らしながら頷く。
その瞬間。
「ほんとに!?」
ぱっと花が咲いたような笑顔が、夜の闇を明るく照らした。
「よかったぁ!」
嬉しそうに笑う少女を見て、篤久は思わず息を呑む。
――可愛い。
気づけば、そんな言葉が胸に浮かんでいた。
「ありがとう! あんた、良い奴!」
屈託のない笑顔。
何の飾り気もない、その一言。
なのに、胸がどくんと大きく鳴る。
篤久は慌てて咳払いをした。
「……あんたじゃない。」
「?」
「篤久だ。」
「……あつ?」
「違う。あ・つ・ひ・さ。」
少女は真剣な顔で何度か口を動かす。
「……あつ……ひ……。」
少し考え込んだあと。
にこっと笑って言った。
「ありがとう、篤!」
「だから違うって……。」
「えへへ。」
悪びれる様子もなく笑う少女に、篤久は肩の力を抜いて笑ってしまう。
もう訂正する気にもなれなかった。
名前を最後まで覚えてもらえなかったことよりも。
被衣に隠れたまま、その笑顔をちゃんと見ることができないことの方が、ずっと残念だった。
「……君は?」
篤久が尋ねると、少女は少しだけ目を丸くした。
自分のことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
やがて小さく笑う。
「私?」
そう言って、自分の胸に手を当てる。
「私はミサ。」
その名を聞いた瞬間、不思議と胸にすっと馴染んだ。
――ミサ。
心の中でそっと繰り返してみる。
短く、それでいてどこか柔らかな響きだった。
「どうしてここにいる?」
その問いに。
ミサの表情が、ぴたりと止まった。
先ほどまで笑っていた空気が、少しだけ揺らぐ。
「…………。」
答えない。
答えられない。
そんな沈黙だった。
被衣の下で困ったように眉を下げ、小さく唇を結ぶ。
その姿を見た瞬間、篤久は自分の失言に気付いた。
――しまった。
聞くべきじゃなかった。
この少女には、話せない事情がある。
それくらいは、今の表情だけで十分に伝わってきた。
「あ……悪い。」
篤久は軽く片手を上げる。
「言いたくないなら、言わなくていい。」
その一言に、ミサはゆっくりと顔を上げた。
夕暮れ色の瞳が、少しだけ驚いたように揺れる。
「……ありがとう。」
その声は小さく、それでもどこか嬉しそうだった。
篤久は照れ隠しをするように屋根へ腰を下ろす。
瓦は思った以上にひんやりとしている。
膝を立て、その上へ頬杖をつく。
「立ったままじゃ疲れるだろ。」
何気なくそう言うと、ミサは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「うん。」
少しだけ距離を空けて、隣へ腰を下ろす。
二人の間を、夜風が静かに吹き抜けた。
ミサはそっと掌を開く。
ぽうっと、小さな灯が生まれる。
炎というより、淡く揺れる灯火。
優しい光が二人を包み込み、瓦を淡く照らした。
その灯を眺めながら、篤久はもう一度ミサを横目で見る。
やはり被衣に隠れた顔は見えない。
見えるのは、灯に照らされた夕暮れ色の瞳だけ。
――顔を隠している時点で怪しいはずなのに。
どうして。
どうして、怪しいと思えないんだ。
それどころか。
もっと、この子のことを知りたいと思ってしまう。
二人は並んで街を見下ろした。
夜空いっぱいに散りばめられた星。
屋敷の灯。
遠くで聞こえる川のせせらぎ。
誰も言葉を発さない。
それでも、その沈黙は少しも苦しくなかった。
まるで、ずっと前からこうして並んでいたような、不思議な心地よさがそこにはあった。
しばらくの間、二人は並んで街を眺めていた。
夜風が吹き抜け、瓦を撫でていく。
掌に灯る小さな火だけが、静かに二人の横顔を照らしていた。
その穏やかな静寂を破ったのは、ミサだった。
「篤は、ここで日記書いてたの?」
「……えっ?」
篤久は頬杖をついていた肘を滑らせ、危うく屋根から転げ落ちそうになる。
慌てて体勢を立て直すと、ミサは声を殺して肩を震わせていた。
「……読んだだろ?」
じとっと睨みつける。
するとミサは、悪びれる様子もなくにこりと笑った。
「ところどころ。ひらがなのところだけー。」
「嘘つけ。」
即座に返す。
「漢字は飛ばしたもん。」
「それで内容が分かるわけないだろ。」
「うーん……何となく?」
「ほら、やっぱり!」
篤久は思わず身を乗り出した。
ミサは「わっ」と小さく笑いながら少しだけ後ろへ逃げる。
「見ただけだもーん。」
「見た時点で同じだ!」
「えへへ。」
その笑顔に、怒る気が少しずつ削がれていく。
――絶対、分かってる。
この子、絶対に内容を理解してる。
篤久は深いため息をつき、再び空を見上げた。
「……もういい。」
「怒った?」
「怒ってない。」
「怒ってる顔だけど?」
「気のせい。」
「ふーん?」
くすくすと笑う声が耳に心地いい。
悔しい。
悔しいのに、嫌じゃない。
むしろ、その笑い声をもっと聞いていたいとさえ思ってしまう。
そんな自分が少しだけ情けなかった。
「ねぇ。」
ふいに、ミサが笑うのをやめた。
篤久が振り向く。
掌の灯に照らされた夕暮れ色の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
「私も。」
「?」
「誰にも言わない。」
その言葉に、篤久は息を止めた。
「日記のこと。」
優しい声だった。
からかうでもなく、冗談でもない。
ただ真っ直ぐに、約束を伝える声。
「秘密は守る。」
その一言だけで十分だった。
胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどけていく。
篤久は思わず小さく笑った。
「……ありがとう。」
その言葉に、ミサもふわりと笑みを浮かべる。
被衣に隠れて顔は見えない。
それでも。
その笑顔だけは、不思議なくらいはっきりと伝わってきた。
夜風が二人の間を静かに吹き抜ける。
誰も言葉を交わさない。
それでも、この沈黙はもう気まずくはなかった。
互いに秘密を知り、互いに秘密を預け合った。
そんな静かな時間が、二人の間に流れていた。
やがてミサは、小さく息をついて立ち上がった。
「そろそろ帰らないと。」
両手を頭上で組み、ぐっと背筋を伸ばす。
夜風が被衣をふわりと揺らした。
「じゃあね、篤。また――」
言いかけて、ミサは小さく首を振る。
「……ううん。じゃあね。」
そのわずかな言い直しに、篤久は気づくことはなかった。
ミサは一歩、屋根の端へ歩み寄る。
「えっ、ちょっと待っ――」
言葉を最後まで紡ぐよりも早く。
ミサは瓦を軽く蹴った。
ふわり、と夜風へ身を躍らせる。
月のない夜空に、小さな影が舞った。
まるで鳥のように。
いや、それ以上に軽やかに。
くるり、と空中で一回転すると、そのまま屋敷を囲む高い塀を難なく飛び越えていく。
「……っ!」
篤久は慌てて立ち上がり、屋根の端まで駆け寄った。
「ミサ!」
夜道へ目を凝らす。
塀の向こう。
木立の間。
どこかに姿があるはずだと探す。
けれど。
どこにもいない。
夜は何事もなかったかのように静まり返り、虫の声だけが耳に届く。
「……速すぎるだろ。」
篤久は苦笑しながら息を吐いた。
それにしても――。
あの高さを、ためらいもなく飛び越えた。
あれほどの身体能力は、並の者では到底あり得ない。
火属性。
そして、人離れした身のこなし。
「……本当に、一体何者なんだ。」
ぽつりと漏れた声は、夜風にさらわれていく。
もう姿はない。
もう声も聞こえない。
それなのに。
掌に灯る優しい火。
夜風に揺れた被衣。
屈託なく笑う声。
そして――夕暮れ色の瞳だけが、胸の奥へ深く焼き付いて離れなかった。
篤久は無意識に、手の中の日記をぎゅっと握りしめる。
胸の鼓動は、まだ静まらない。
また会えるだろうか。
名前しか知らない、あの不思議な少女に。
いや――。
会いたい。
その想いが芽生えた理由を、篤久自身もまだ知らなかった。
遠くで、澄んだ鈴の音がひとつ。
――チリン。
夜風に乗ったその音は、誰にも気づかれることなく、静かに星空へ溶けていった。




