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第三章 朱雀の宿命 第四十五話『青龍の葛藤』

四神の神力が一つとなり、結界は静かに京全体を包み込んでいく。


老朽化していた綻びは完全に塞がり、漂っていた瘴気も夜の闇へ溶けるように消えていった。


やがて術式は完全に結ばれ、朱色の光が静かに夜空へ溶けていく。


それと同時に、ミサの朱色の髪も毛先からゆっくりと黒へ戻り、艶やかな黒髪が夜風に揺れた。


神力は、もう残っていない。


「……終わった。」


安堵と疲労が入り混じった声が漏れ、その場へ膝をつく。


立ち上がることすらできないほど、ミサは神力を使い果たしていた。


しばらくして胸元の通信鏡が淡く光り、なぎの上の穏やかな声が響く。


『……皆、よくやったわ。結界は無事に修復されたみたいね。』


続いて、あず姫が優しく言葉を重ねる。


『四人とも、本当にお疲れさま。間もなく丑三つ時を迎えるし、今日は戻ってこなくて良いわ。』


『そうね。本日の務めは、これにて終了とします。』


通信鏡の光が静かに消え、夜風だけが朱雀門を吹き抜けた。


「……帰ろ。」


立ち上がろうとした、その時だった。


「立てるか?」


聞き慣れた低い声に、ミサはゆっくりと顔を上げる。


石段の下に立っていたのは、篤久だった。


「……篤。」


「帰ろう。」


短い一言。それだけで十分だった。


「でも……一人で帰れるよ?」


「駄目だ。今のミサを、一人にはできない。」


その言葉に、ミサは小さく笑った。


「……ありがとう。」


二人は並んで歩き始める。


朱雀地区へ続く夜道には、静かな足音だけが響いていた。


けれど、ミサはすぐに気付いた。


いつもなら、どんな時でも篤久は自然に隣へ寄り添って歩く。


なのに今日は違う。


ほんの少しだけ距離を空け、まるで触れないように歩いていた。


「篤?」


呼び掛けると、篤久は一瞬だけ振り返る。


「ん?」


「…な、なんでもない。」


「そうか。」


それだけ答え、また前を向いた。


ミサの胸に、小さな違和感が残る。


暫く歩いた、その時だった。


ふらりと視界が揺れ、ミサの身体が傾く。


「あっ……。」


次の瞬間、篤久の腕が素早く伸びた。


「危ない。」


優しく抱き留められ、身体が安定する。


けれど篤久はすぐに手を離し、何事もなかったように距離を取った。


「……。」


その反応に、ミサの胸騒ぎは強くなる。


何かがおかしい。


いつもの篤久なら、こんなふうに離れたりはしない。


ミサがその理由を知るのは、まだ少し先だった。




※ ※ ※




屋敷へ続く夜道には、いつもとは違う静けさが流れていた。


ミサは何度も隣を歩く篤久を見つめる。けれど篤久は一度もこちらを見ようとしない。


「篤。」


もう一度名前を呼ぶ。


「どうした?」


返事はいつも通りの低い声だった。


けれど、どこか遠い。


「……疲れてる?」


尋ねると、篤久は少しだけ間を置いて答えた。


「…あぁ。」


短い返事。


嘘ではない。


確かに疲れている。


けれど、それだけではなかった。


ミサには分からない。


今、篤久が何と戦っているのか。


新月の夜。


丑三つ時が近づくほど、青龍の守護者に宿る力が身体の奥で強く脈打っていた。


普段なら制御できるもの。


だが、妖魔との戦いで負った傷、神力の消耗、そして隣にいるミサの存在が、篤久の理性を少しずつ揺らしていく。


―――落ち着け。


心の中で何度も繰り返す。


昨日の夜。


ミサが気を失っていたことで、できなかった。


なぎの上とあず姫からの勅命。


だが、今の自分を制御できる自信は微塵もない。


―――俺は……。


決して、ミサを傷つける側になってはいけない。


その思いだけが、篤久を繋ぎ止めていた。


その時だった。


「あ……。」


ミサの足が止まる。


「どうした。」


篤久が振り返ると、ミサの視線は羽織へ向いていた。


夜風が吹き、隠れていた白い着物の裾が揺れる。


そこには、赤く滲んだ血の跡があった。


「……篤。」


声の温度が変わる。


篤久は一瞬だけ目を逸らした。


「何でもない。」


「何でもないわけないでしょ。」


ミサはゆっくり歩み寄る。


「見せて。」


「大丈夫だ。」


即答だった。


けれど、その声にいつもの余裕はない。


「篤。」


責めるでもなく、ただ心配するように名前を呼ばれる。


篤久はしばらく黙り込み、小さく息を吐いた。


「……浅い傷だ。」


「だったら見せて。」


真っ直ぐな瞳に押され、篤久は観念したように羽織を開く。


露わになった脇腹には、妖魔の爪が深く裂いた傷跡が残っていた。


「……っ。」


ミサの表情が曇る。


「これで浅いって言うの?」


「……もう血は止まってる。」


「そういう問題じゃないよ。」


震える指先が傷の近くで止まる。


戦っている間、篤久は一度も痛みを見せなかった。


自分を守るために、こんな傷を負っていたのだ。


「……馬鹿。」


小さく漏れた言葉に、篤久は苦笑する。


「馬鹿なんて初めて言われた。」


「…話逸らさないで。」


羽織を下ろす篤久に、ミサは詰め寄る。


「心配ない。」


「心配するに決まってるでしょ!」


その優しさに胸が揺れる。


同時に、篤久は危険を感じた。


近い。


ミサが、近すぎる。


いつもなら嬉しい距離のはずが、今だけは篤久の欲を疼かせた。


「……大丈夫だから。」


そう言って一歩下がる。


「篤!」


「帰るよ。」


それだけ告げて歩き出す背中を、ミサは黙って見つめていた。


やっぱり、おかしい。


優しいのに、必死に何かを抑えている。


しかしミサはまだ何もわからないまま、ただ篤久の後ろを追いかけた。




※ ※ ※




やがて、朱雀地区の一角にある屋敷が夜闇の向こうに姿を現した。


二人は門をくぐる。


いつもなら帰ってきたという安堵が胸を緩める場所。


けれど今夜の篤久には、その余裕はなかった。


「篤。」


後ろから呼ばれ、足を止める。


「その傷、ちゃんと手当てしないと。」


「必要ない。大丈夫だから。」


短く返す篤久に、ミサは首を横へ振った。


「でも、傷は残ってるでしょ。」


「……。」


言い返せない。


ミサの言葉は正しい。


けれど今、篤久が恐れているのは傷の痛みではなく、このままミサの近くにいることだった。


「お願い。手当てさせて。」


真っ直ぐな瞳を見つめ返したまま、篤久は小さく息を吐く。


本当なら断るべきだった。


距離を取らなければならない。


それでも拒む言葉は出てこない。


「……分かった。ただし、簡単でいい。」


「うん。」


安心したように微笑むミサを見て、篤久の胸はまた静かに揺れた。


二人は篤久の部屋へ向かう。


遣戸を開けると静かな部屋が迎え、篤久は壁際へ腰を下ろした。


「薬籠はどこ?」


「廊下の突き当たり、左の棚だ。」


「分かった。」


ミサはすぐに部屋を出ていく。


遣戸が静かに閉まり、一人になった篤久はゆっくりと目を閉じた。


深く息を吸い、静かに吐く。


それでも身体の奥から込み上げる熱は消えない。


新月。


丑三つ時。


そして、ミサの存在。


その全てが、普段なら抑え込める衝動を容赦なく刺激していた。


―――落ち着け。


拳を強く握り締める。


―――俺が、守るべきものを傷つけるわけにはいかない。


その時、遣戸が静かに開いた。


「篤、お待たせ。」


ミサが薬籠を抱えて戻ってくる。


篤久は目を開き、何事もなかったように表情を整えた。


ミサは薬籠をそっと置き、篤久の前へ座る。


「羽織、脱いで。」


一瞬だけ動きが止まる。


それでも篤久は静かに羽織を外し、脇腹の傷を露わにした。


「……やっぱり痛そう。」


曇った表情のまま、ミサは傷口を見つめる。


「問題ない。」


「そう言うと思った。」


困ったように笑うと、薬を染み込ませた布を手に取った。


「少し染みるよ。」


「……あぁ。」


布が傷口へそっと触れる。


「……っ。」


篤久の肩がわずかに震えた。


「ほら、痛いんじゃない。」


ミサは優しく微笑む。


けれど篤久は答えない。


痛いのは傷ではなかった。


近くにいるミサの温もり。


傷へ触れる細い指先。


そのたびに理性が少しずつ削られていく。


「もう少しだから。」


穏やかな声が耳に届く。


その瞬間、篤久は自分の呼吸が乱れていることに気付いた。


―――駄目だ。


これ以上、この距離は危ない。


そう思うほど、ミサから目を離せなかった。


「篤?」


ミサが不思議そうに顔を上げる。


目が合った、その瞬間だった。


篤久の理性が大きく揺らぐ。


「……ミサ。」


掠れた声で名前を呼ぶ。


「なに?」


何も疑わず見つめ返す瞳。


その無防備な優しさに、張り詰めていた糸が切れた。


気付けば、篤久はミサをそっと抱き寄せていた。


「……っ。」


ミサが小さく息を呑む。


強く抱き締めたわけではない。


それでも、今の篤久にとっては近すぎる距離だった。


「篤……?」


戸惑う声を聞いた瞬間、篤久は我に返る。


違う。


こんなふうに触れたいわけじゃない。


「……悪い。」


離れようとする。


けれど、その前に頬へ手を添え、確かめるように優しく触れてしまう。


「篤……。」


名前を呼ばれ、最後の理性が揺らいだ。


唇がそっと重なる。


触れるだけの、短い口付け。


それでも篤久は堪えきれず、啄むようにもう一度だけ唇を重ねた。


「んっ……。」


思わず零れた吐息に、篤久ははっとして唇を離す。


ほんの一瞬。


それだけだったのに、誰よりも篤久自身が驚いていた。


「……駄目だ。」


自分へ言い聞かせるように、小さく呟く。


「篤?」


髪色が朱色に戻ったミサが、不安そうに見つめる。


その瞳を見るほど、もう一度触れたいという衝動が胸を焼いた。


篤久は強く目を閉じ、震える拳を握り締める。


―――駄目だ。


―――これ以上は……。


「……ミサ。」


苦しげに名前を呼ぶ。


「ごめん。……近づかないで。」


「え……。」


戸惑うミサに、篤久は視線を逸らした。


「頼む。これ以上、俺が抑えられなくなる前に。」


その言葉に、ミサは息を呑む。


いつもの篤久ではない。


けれど怖いとは思わなかった。


そこにあるのは、自分を傷つけたくないという必死な苦しさだけだった。


「篤……。」


名前を呼ぶと、篤久は拳をさらに強く握る。


「……頼む。」


掠れた声で絞り出された願いに、ミサは袖の中の小さな薬包をそっと握り締めた。


――眠気がかなり強い薬だからね。


本成の言葉が脳裏をよぎる。


「篤。」


「……何だ。」


「こっち向いて。」


何も疑わず顔を上げた篤久の頬へ、ミサはそっと手を添えた。


そして。


ミサは口に丸薬を含むと、そっと篤久へ唇を重ねた。


「……!」


突然の口付けに、篤久の瞳が大きく見開かれる。


驚いて息を呑んだ、その一瞬。


ミサは口に含んでいた薬をそっと篤久の口の中へ渡した。


思わず飲み込んでしまい、唇がゆっくりと離れる。


静寂が落ちた。


「……ミサ、何を飲ませた?」


呆然と見つめる篤久に、ミサは申し訳なさそうに微笑む。


「ごめん。本成から預かってた、眠り薬。」


「……っ。」


篤久はすぐに喉へ手を当て、吐き出そうとする。


けれど、もう遅かった。


薬はすでに喉の奥へ落ちている。


「なんで……。」


低く漏れた声は、怒りではなく悔しさに震えていた。


「篤が苦しそうだったから。」


その一言に、篤久は言葉を失う。


「…はは。そうか。」


乾いた笑いと同時に、じわりと瞼が重くなり、意識がゆっくりと沈み始めた。


―――おかしい。


「…俺には、普通の睡眠薬は効かないはずなのに。」


「眠りが強くなる試作品だって、本成が…」


まるで、こうなることが分かっていて本成はミサに睡眠薬を託したのだろうか。


まんまと睡眠薬を飲まされてしまった篤久は、小さく息を吐く。


「……本当に、困った巫女だ。」


小さく漏れた声に、ミサは少しだけ笑った。


「何それ。」


その笑顔を見た瞬間、篤久の張り詰めていた心がほんの少し緩む。


「ちょうど良いかも、な。」


「篤?」


眠気に抗うように、篤久はミサを身体ごと引き寄せ、焦るように唇を重ねた。


触れるだけの口付けは、徐々に熱を帯びていき、篤久は軽く唇を吸うように音を立て、舌で上唇をなぞった。


「あ…」


それに反応するようにミサの口が少し開くと、そのままミサの舌先に自分の舌を少しずつ絡めていく。


初めての深い口付けにミサは一瞬躊躇するが、髪を掬うように頭を支えられ逃げることが叶わなかった。


「ん…」


お互いの唇の隙間から、熱い吐息が漏れると、ミサは身体の奥底がじんと熱くなるのを感じた。


その初めての感覚に酔いしれそうになる。


「あ、篤…」


吐息が溢れるように呼ばれたその声と、目の前に朱色の瞳を潤ませて頬を赤く染め、やけに艶かしい表情をしたミサに、篤久は更に欲情してしまう。


眠気でとっくに理性の箍は外れていた。


ミサの単衣の襟元を強引に開けると、ほんのり赤く色づいたミサの首元が露になる。


そのまま篤久は首筋に舌を這わせた。


「あっ」


その動作に驚いて、ミサの身体がびくんと反応したかと思うと、首筋が痺れる感覚を覚えた。


前の時よりもはっきりとした痛みに、ミサは慌てて篤久の胸を押し返そうとするが、その動きも虚しくされるがまま、その感覚に慣れた頃、篤久が唇を離すと、最後に惜しむようにもう一度、ミサの唇に軽く触れるだけの口付けを落とした。


「……駄目だ。」


唇が離れると同時に、篤久の頭がミサの肩に寄りかかる。


眠ってはいけない。そう思えば思うほど、身体から力が抜けていく。


「くっ……。」


必死に首を振って眠気を追い払おうとするが、身体はもういうことを聞かなかった。


「篤…」


ミサが慌てて支える。


苦しそうに笑い、自嘲するように呟いた。


「眠るわけには……いかないのに。」


「大丈夫。」


「大丈夫じゃない……。」


震える手でミサの袖を掴む。


「目を閉じたら……目が覚めた時、ミサがいなかったら……。」


途切れた言葉を飲み込むように、薬はさらに深く意識を沈めていく。


「篤。」


ミサは両手でその手を包み込み、優しく微笑んだ。


「私はいる。」


「……嘘だ。」


「嘘じゃない。」


篤久は薄く目を開ける。


焦点の合わない蒼色の瞳は、ただミサだけを映していた。


「側に……いてくれ。」


青龍の守護者ではなく、ただ一人の青年として零れた願いだった。


ミサは涙を堪えながら頷く。


「うん。ずっと側にいるよ。」


その返事を聞いた瞬間、張り詰めていた篤久の身体から静かに力が抜けた。


新月の夜、長い戦いの果て。


青龍の守護者は初めて、誰かに守られながら眠りについた。


けれど――。


ミサの胸の奥には、別の覚悟が生まれていた。


このままではいけない。


朱雀の宿命から、もう逃げることはできないのだから。


ミサは穏やかな寝息を立てる篤久を静かに見つめる。


「……篤。」


返事はない。


規則正しい寝息だけが、静かな部屋に響いていた。


ミサはそっと自分の首元へ手を添える。


そこに残る淡い痕。


先ほどまで感じていた唇の温もりと、苦しげに「側にいてくれ」と願った篤久の表情が鮮明に蘇る。


「……ごめんね。」


小さく呟く。


本当は、このまま朝まで隣にいたかった。


何も言わず、ただ眠る篤久の手を握っていたかった。


けれど、行かなければならない。


ミサは静かに目を伏せた。


「私ね……本当は、ずっと怖かった。」


戦いでも、死ぬことでもない。


一番怖かったのは、大切な人を残していなくなることだった。


そっと髪を結ぶ朱色の組み紐を解き、母の形見である鈴を優しく握り締める。


「……嘘、ついてごめんね。」


震える声が静かな部屋に溶けた。


「本当は……ここには、もう帰れないと思う。」


それでもミサは微笑む。


眠る篤久の手に、組み紐と鈴をそっと託しながら。


「ごめん…篤。本当にごめんね。」


涙が一粒、頬を伝う。


「今まで本当にありがとう。」


「……行ってくるね。」


最後にそっと額へ口付けを落とし、優しく微笑んだ。


「ありがとう、篤。」


静かに立ち上がると、ミサはもう一度だけ愛しい寝顔を見つめ、音を立てないよう遣戸を開けて部屋を後にした。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


もう1話、30分後に更新です。

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