第三章 朱雀の宿命 第四十六話『鈴の鳴らない夜』
夜風が頬を掠める。
その冷たさは、先ほどまで触れていた温もりの残像を少しずつ奪っていった。
一歩踏み出すたび、身体の奥に残る熱だけが置き去りにされていく。
―――まだ、残ってる。
それが何なのか、もう考えたくなかった。
けれど胸の奥では、篤久の声も、触れた手も、「側にいてくれ」と願ったあの表情も、消えることなく疼いている。
「……駄目。」
立ち止まれば、戻りたくなってしまう。
朱雀の巫女ではなく、一人のミサとして残ってしまう前に、前へ進まなければならない。
涙が一粒、頬を伝った。
止めようとしても次から次へと溢れ、朱色の瞳に映る夜空は滲んでいく。
屋根を伝ると、やがて静まり返った京の姿が見えてきた。
つい先ほどまで死と隣り合わせの戦いがあったとは思えないほど、美しく穏やかな夜だった。
―――綺麗だな。
そう思った瞬間、胸が痛む。
この景色が好きだった。
なぎの上とあず姫と過ごした日々。
新太や本成と笑い合った時間。
そして、篤久との何気ない日常。
何も変わらない明日が、ずっと続くと信じていた。
けれど、朱雀の宿命はその願いを許してはくれなかった。
ミサは屋根から静かに降り、後宮へ続く道を歩く。
夜はすでに丑三つ刻を過ぎ、本来なら誰もが眠りについている時間。
それでも奥の一室だけは、静かに明かりが灯っていた。
ミサは足を止める。
ここへ来るのも、きっと最後だ。
深く息を吸い、髪を整え、いつものミサの笑顔を作る。
そして静かに御簾を上げた。
「……よくやったわ。」
「本当に、最後までご苦労だったわね。」
優しい声を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられる。
ミサは静かに頭を下げた。
「長い間、お世話に――」
「言わなくていい!」
なぎの上の声が部屋に響く。
強い言葉だった。
けれど、その奥にある悲しみは隠しきれない。
あず姫も扇の奥へ顔を伏せ、瞳には涙が滲んでいた。
―――泣かないでよ。
自分まで泣いてしまえば、もう笑えなくなる。
だからミサは、いつものように微笑んだ。
「お二方。こんな時間まで起きてたら、美容に悪いですよ。」
「ほら、早く寝てください。」
明るく笑うミサを見て、二人はそれが無理に作った笑顔だと気付いていた。
「ミサ……。」
あず姫が名を呼ぶ。
けれどミサは首を横に振る。
「駄目です。今日はもう終わりです。」
珍しく強い声でそう言い、二人を女房たちの元へ送り出した。
なほと美乃香の潤んだ瞳にも、気付かないふりをする。
そして最後に振り返り、小さく微笑んだ。
「お二方。どうか……お元気で。」
それは別れの言葉ではなかった。
心からの祈りだった。
次の瞬間、朱色の光が静かに揺らぎ、ミサの姿は夜の中へ溶けるように消えていく。
「―――ミサ!」
なぎの上の叫びだけが響き、返事はもうなかった。
その夜を最後に、朱雀の巫女・ミサはこの世界から姿を消した。
残されたのは静まり返った部屋と、眠る篤久の手の中にある朱色の組み紐、そして母の形見である小さな鈴。
心が大きく動いた時だけ鳴るその鈴の意味を、ミサ自身はまだ知らない。
それでも、一番大切な人へ託した。
穏やかな寝息だけが部屋に響き、いつもなら鳴るはずの鈴は、一度も音を立てることはなかった。
まるで離れてしまった二人の距離を映すように、静かな夜は何も告げることなく過ぎていった。
――第三章 朱雀の宿命・了――
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