第三章 朱雀の宿命 第四十一話『託された絆』
夕闇がゆっくりとヘイアン京を包み始める。
西の空を朱く染めていた夕焼けは、やがて紫紺へと変わり、昼と夜の狭間――逢魔が時が訪れようとしていた。
謁見の間に集まった守護者たちは、静かに互いの顔を見渡す。
「時間だな。」
篤久の低い声に、全員が小さく頷いた。
「通信鏡は常に繋げておきなさい。異変があれば、すぐに知らせること。」
なぎの上の言葉に、新太はいつものように笑う。
「任せろ!」
「無茶だけはしないようにね。」
本成が穏やかに微笑む。
その言葉に、新太は軽く手を振った。
「分かってるって。…あっ!」
突然、新太が声を上げる。
その声に、全員が一斉に振り返った。
「どうした?」
篤久が怪訝そうに尋ねると、新太は気まずそうに頭を掻いた。
「俺……ミサとまだ通信鏡の魔力交換してねぇ。」
その場の空気が、一瞬止まった。
「あ……。」
思い出したように声を漏らしたのはミサだった。
これまで通信鏡を使う必要がある時は、いつも篤久や本成が間に入っていた。
そのため、新太と魔力を交換する機会をすっかり逃していたのだ。
「今さら気付いたの?」
本成が呆れたように肩を竦める。
「いや、バタバタしてたじゃねぇか!」
「僕は当然、もう済ませているものだと思っていたよ。」
「俺もそう思ってた!」
思わず声を張る新太に、本成は苦笑を漏らした。
「それは忘れていた本人が言う台詞じゃないでしょ。」
「……全く。」
篤久も小さく息を吐く。
そして、ミサへ視線を向けた。
「今ならまだ間に合う。」
「……うん。」
ミサは静かに頷き、新太の前へ歩み寄った。
新太は懐から通信鏡を取り出し、少し照れくさそうに笑う。
「じゃ、よろしくな。」
「よろしく。」
二人は互いの通信鏡を受け取り、鏡に手を重ねた。
まず新太が魔力を流し込む。
すると、白虎玉を思わせる淡い翠色の光が鏡の表面を優しく包み込んだ。
続いて、ミサも魔力を送り込む。
朱色の光が重なり合い、二つの光は溶け合うように一つになる。
やがて眩い輝きは静かに収まり、通信鏡は何事もなかったかのように元の姿へ戻った。
新太は試すように通信鏡へ魔力を流す。
『……ミサ、聞こえるか?』
懐へしまおうとしていた通信鏡が淡く光り、ミサは慌てて取り出した。
「えっ……あっ、聞こえる!」
『おっ、成功だな!』
鏡越しに届いた新太の弾んだ声に、ミサも思わず笑みを零した。
「これで全員と通信できるね。」
本成が穏やかに微笑む。
篤久も小さく頷いた。
「何かあれば迷わず通信しろ。」
静かな声。
「今日だけは、一人で抱え込むな。」
その言葉に、ミサは三人の顔をゆっくりと見渡した。
頼もしく微笑む篤久。
嬉しそうに親指を立てる新太。
静かな眼差しで見つめる本成。
誰もが、自分を信じてくれている。
その想いが胸の奥へ染み込んでいく。
ミサは小さく息を吸い、力強く頷いた。
「うん。」
四人は互いに頷き合う。
「……ミサ。」
あず姫は静かにミサの前へ歩み寄る。
「はい。」
「あなたは結界へ神力を送り続けることだけを考えなさい。」
真剣な眼差しが向けられる。
「たとえ妖魔が現れても、決して手を止めては駄目。」
ミサは静かに頷いた。
「……はい。」
その返事を聞いた篤久が、一歩だけ近付く。
左耳に揺れる青龍玉へ、そっと指先を添えた。
「少しだけ動かないで。」
「えっ?」
篤久はミサの額へ右手をかざす。
「――蒼護結界」
低く紡がれた詠唱。
青龍玉が淡い蒼色の光を放つ。
その光は糸のようにほどけ、ミサの全身を包み込むと、静かに消えていった。
「……今のは?」
「護りの結界。」
篤久は小さく答える。
「本当なら、最後まで護れる術式を組むつもりだった。」
しかし。
時間が足りなかった。
守護玉への神力。
結界の準備。
迫る逢魔が時。
本来なら何刻もかける術式を、今完成させることはできなかった。
「だから、一度だけだ。」
篤久は青龍玉を外し、ミサへ託す。
「致命傷になるような一撃だけは、防いでくれる。」
「篤……。」
「本当は、こんなもの使わせたくない。」
一瞬だけ視線を伏せる。
「でも、何もしないよりはいい。」
ミサは青龍玉を大切に握った。
「……ありがとう。」
篤久は小さく頷く。
「絶対に一人で無茶をするな。」
「……うん。」
その返事を聞いた篤久は、何も言わなかった。
言えば止めたくなる。
止めれば、ミサはきっと困ったように笑うだけだから。
「行こう。」
その一言で、それぞれの持ち場へ向かうため、四人は静かに歩き始めた。
新太は白虎門へ。
本成は玄武門へ。
篤久は青龍門へ。
そしてミサは、一人朱雀門へ向かった。
※ ※ ※
逢魔が時を迎えた朱雀門は、不気味なほど静まり返っていた。
昼間とは違う。
空気そのものが重い。
老朽化した結界の綻びから漏れ出した瘴気が、地を這うように漂っている。
以前、結界へ神力を送っていた時とは明らかに違っていた。
あの時は、ただ弱まり続ける結界の隙間から漏れ出した気配。
けれど今は違う。
瘴気の奥に、まるでこちらを窺うような“意志”が混じっている。
「……?」
ミサは足を止めた。
胸の奥がざわつく。
誰かに見られているような感覚。
それも、結界の内側ではなく――外側から。
「……気のせい。」
そう呟き、自分に言い聞かせるように小さく息を吐く。
今は余計なことを考えている場合ではない。
ミサは朱雀門の中央まで歩み寄ると、静かに膝をついた。
そして、胸元から小さな袋を取り出す。
中に入っているのは、四つの守護玉。
白虎玉。
玄武玉。
半ばに割れた麒麟玉。
そして――。
先ほどまで篤久の左耳で揺れていた青龍玉。
ミサはゆっくりと袋を開く。
四つの守護玉を両手で包み込んだ。
「……みんな。」
自然と言葉が漏れる。
「力を貸してね。」
その瞬間。
守護玉が淡い光を放ち始めた。
最初に反応したのは玄武玉だった。
大地のように穏やかで、温かな神力が身体へ流れ込んでくる。
次に白虎玉。
鋭く、それでいて真っ直ぐな風のような力が、全身を駆け抜ける。
そして麒麟玉。
割れてしまったはずの守護玉からも、優しく包み込むような神力が溢れ出す。
三つの力が重なり合い、ミサの中へ静かに馴染んでいく。
「……すごい。」
思わず呟く。
これが、守護者たちが背負ってきた力。
自分一人では決して届かなかった力。
そして――。
最後に残った青龍玉が、ゆっくりと輝きを増した。
「……っ。」
息を呑む。
瞬間。
圧倒的な神力が流れ込んできた。
まるで大河そのものが身体の中へ注ぎ込まれるような力。
強く。
大きく。
それでも、不思議なほど温かい。
「篤……。」
思わず名前が零れる。
これほどの力を。
篤久はずっと一人で抱えていた。
強すぎる神力を抑えながら。
誰にも見せず。
何でもないように振る舞いながら。
胸が締め付けられる。
「……ありがとう。」
青龍玉へそっと触れる。
すると、四つの守護玉から流れ込む神力が一つに重なった。
朱雀の神力へ変換され、身体の奥から熱が広がっていく。
ミサはゆっくりと立ち上がった。
そして、朱雀門へ向けて両手を差し出す。
「どうか……。」
祈るように。
願うように。
「この世界を、守って。」
次の瞬間。
朱色の神力が迸った。
朱雀の炎が夜を照らす。
門を中心に広がった光は、大地を駆け抜け、見えない結界へ吸い込まれていく。
まるで崩れかけた糸を一本ずつ繋ぎ直すように。
砕けかけた四神結界を、もう一度支えるように。
朱色の光が京全体を包み込んでいく。
その瞬間――。
ぞくり。
ミサの背筋に冷たいものが走った。
神力とは違う。
これは――瘴気。
底の見えない悪意。
ミサはゆっくりと振り返る。
朱雀門へ続く石段の先。
闇が揺れた。
一つ。
二つ。
三つ。
ゆっくりと、人影が姿を現す。
人の形をしている。
けれど。
その身体から溢れ出す瘴気は、今まで遭遇した妖魔とは明らかに違っていた。
そう、まるであの時に対峙した風魔のようだった。
「……上級妖魔?」
ミサの声が震える。
姿だけなら、中級妖魔。
しかし。
三体の妖魔はそれぞれ火、水、土の妖気を纏っている。
その威圧感だけが異常だった。
胸騒ぎが止まらない。
その時。
通信鏡が小さく震えた。
『ミサ!』
篤久の声。
「……篤。」
『妖魔か?』
「うん。」
短く答える。
『数は?』
ミサは目の前の三体を見つめた。
「……三体。」
その瞬間。
三体の妖魔が、同時に口元を歪めた。
――ギィィィ……。
耳障りな笑い声。
そして。
三体の視線が、一斉にミサへ向く。
そこにあるのは、獣のような飢えでもない。
妖魔特有の狂気でもない。
ただ一つ。
命じられた目的だけを果たそうとする、冷たい執着。
「……私を、狙ってる…?」
呟きが夜の朱雀門へ消える。
妖魔はゆっくりと歩みを進める。
結界でもない。
朱雀門でもない。
ただ一人。
朱雀の巫女だけを見据えながら。
三体の妖魔が、ゆっくりと歩みを進める。
ミサは両手を前へ差し出したまま、動かない。
動けない。
今ここで神力の流れを止めれば、ようやく繋ぎ止めた結界が再び崩れ始める。
ここまで守護者たちが託してくれた力を、無駄にするわけにはいかなかった。
「……っ。」
迫り来る妖魔を見つめながら、ミサは唇を噛む。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど。
今、自分がやるべきことは分かっている。
戦うことではない。
守ること。
その時だった。
『ミサ!』
通信鏡から本成の声が響く。
『そのまま結界を維持して! 絶対に神力を止めないで!』
「……でも!」
『大丈夫。』
迷いのない声だった。
『僕たちが時間を稼ぐ。』
次の瞬間。
玄武門から琥珀色の神力が大地を駆け抜ける。
『――沈静!』
琥珀色の光が朱雀門へ向かって広がり、三体の妖魔の足元へ絡みつく。
まるで大地そのものが意思を持ったかのように。
地面が盛り上がり、妖魔たちの動きを縛り付けた。
ギィィィッ!!
三体の妖魔が一斉にもがく。
「長くは保たない……!」
本成が歯を食いしばる。
その一瞬を逃さず。
白虎門から風を裂く神力が放たれた。
『――標的!』
翠色の神力が一本の矢となり、一直線に妖魔の核へ向かう。
だが――。
三体は同時に動いた。
火を纏う妖魔の前へ、水を纏う妖魔が滑り込む。
その動きを補うように、土を纏う妖魔が死角を塞ぐ。
ズンッ――。
神力の矢が、水を纏う妖魔の肩を貫いた。
しかし。
核には届かない。
『……嘘だろ。』
新太の声が漏れる。
妖魔が…互いを庇った。
それだけではない。
まるで最初から、そう動くことを決めていたかのように。
『篤久……。』
通信鏡越しの本成の声が低くなる。
『やっぱり、おかしい。核が中級妖魔なのか上級妖魔なのかが区別がつかない。』
『ああ。』
篤久も短く答える。
青龍門から朱雀門を見据えながら、静かに目を細める。
『これは……ただの妖魔じゃない。』
三体の動き。
互いを補う位置取り。
そして、何より――。
朱雀の巫女だけを狙う執着。
『何かがいる。』
篤久の呟きに、本成は息を呑む。
『……何かって?』
しかし、その答えを出すより早く。
三体の妖魔が再び動いた。
拘束を力任せに引き千切り、土煙を巻き上げながら散開する。
火を纏う妖魔は朱雀門へ。
水を纏う妖魔はその後を追うように。
土を纏う妖魔は二体の動きを守る位置へ。
「……!」
篤久の表情が変わる。
狙いは変わっていない。
ミサだ。
結界でもない。
神力でもない。
ただ一人。
朱雀の巫女だけを狙っている。
「……!」
ミサは動かない。
いや――動けない。
ここで神力を止めれば、今まで繋ぎ止めてきた結界が崩れる。
だから。
ただ真っ直ぐ前を見つめ、送り続ける。
妖魔の鋭い爪が、ミサへ振り下ろされる――。
カァァン――。
金属がぶつかり合ったような澄んだ音が、夜の朱雀門へ響き渡った。
ミサを包み込むように、蒼い半球状の結界が展開される。
「……!」
篤久が施した、一度きりの護り。
蒼護結界。
妖魔の爪は蒼い光に阻まれ、あと一歩のところでミサへ届かない。
だが。
結界には一筋の亀裂が走った。
それはまるで。
残された時間が、もう僅かしかないことを告げるようだった。
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