第三章 朱雀の宿命 第三十八話『失われた半日』
睡眠薬によって眠りについたあず姫は、その夜も予知夢を見ることはなかった。
守護者たちも、それぞれが担当する門の前で夜通し警戒を続けたが、妖魔の気配は現れない。
新月前夜――。
張り詰めた緊張だけが静かに流れ、何事も起こらぬまま丑三つ時を過ぎた。
その後も、四人は警戒を解くことなく、夜の静寂の中で時を過ごした。
やがて東の空がわずかに白み始める。
夜明けが近づき、四人はそれぞれの持ち場を離れ、宮廷へ戻ろうとしていた。
その時だった。
『――ミサ。聞こえる?』
懐にしまっていた通信鏡が淡く光を帯び、聞き慣れた声が静かに響く。
「あっ、篤。お疲れ様。」
ミサは被衣を外しながら通信鏡を手に取り、優しく微笑んだ。
鏡の向こうでは、篤久もほっとしたように目を細める。
その穏やかな表情は、ミサにだけ見せる特別な笑みだった。
『約束、覚えてるだろう?』
「……えっ?」
『先に屋敷で待ってて。』
その一言だけで、ミサの頬はみるみる朱に染まっていく。
昼間、路地裏で交わした約束。
思い出した瞬間、胸がどくんと高鳴った。
「あっ、その……。」
言葉にならない。
そんなミサの反応が可笑しくて、篤久は小さく肩を揺らした。
『もう逃げられないから。』
少しだけ意地悪そうに笑う。
『覚悟して。』
「えっ、でも、もう夜明け……だよ?」
耳まで真っ赤になりながらも、ミサは少しの抵抗を見せる。
しかし、そんな戯言は篤久には通用しない。
『今日に備えて、少しは仮眠を取らないと駄目だろ。』
「……は、はい。」
その姿に満足したように、篤久は柔らかく笑う。
『俺もすぐ戻る。』
通信鏡の光が静かに消えた。
「はぁ……。」
ミサは大きく息を吐く。
その場へしゃがみ込み、両手で熱くなった頬を覆った。
――覚悟なんて。
できるわけ、ないよ……。
朱雀の巫女として命を懸ける覚悟なら、とっくの昔に決めている。
新月が訪れれば、自分はその役目を果たさなければならない。
迷いはない。
けれど――。
篤久と向き合う覚悟だけは、どうしても持てなかった。
抱き締められるたび。
名前を呼ばれるたび。
優しく笑いかけられるたび。
胸は苦しいほど高鳴り、何も考えられなくなる。
――逃げられるものなら。
――少しだけ、逃げたい……。
その瞬間だった。
『……その願い、頂こう。』
頭の奥へ、直接響くような声。
「……えっ?」
聞き覚えのある低い声に、ミサの身体が強張る。
次の瞬間。
視界がぐらりと揺れた。
「きゃっ……!」
立っていることさえできず、膝から力が抜ける。
抵抗する間もなく意識は暗闇へと沈み、世界が白く霞んでいく。
最後に見えたのは、夜明け前の淡い空だけだった。
※ ※ ※
気が付くと、辺り一面は白だった。
上も、下も、果てのない白。
何度も訪れた、現実とは切り離された静寂の世界。
「……朱雀!」
ミサは我に返るなり辺りを見回し、奥に立つ朱色の影へ駆け寄った。
「どうして今なんですか!?」
息を切らせながら問い掛ける。
だが、その姿を見た瞬間、足が止まった。
「……っ。」
朱雀を包む炎が、あまりにも弱々しかった。
いつもなら燃え盛るように揺らめく紅蓮の炎は、風が吹けば消えてしまいそうなほど細く、淡い。
身体から立ち上る神気も薄れ、朱色の羽根は光を失いかけていた。
命の灯火が、尽きようとしている。
それだけは、嫌というほど伝わってくる。
「朱雀……。」
思わず手を伸ばしかける。
しかし、その手は届かなかった。
『今なら、まだ半日も経っておらぬ。』
かすれた声だった。
それでも朱雀は、いつもと変わらぬ口調でそう告げる。
ミサは小さく息を呑む。
「……私。」
恐る恐る尋ねる。
「何の欲を出したんですか?」
朱雀はわずかに目を細めた。
『逃避欲だ。』
短い答えだった。
『美味くもないが……喰わぬよりはましだな。』
そう言って、小さく息を吐く。
その仕草だけでさえ苦しそうだった。
「逃避欲……。」
ミサは俯く。
確かに、ほんの一瞬だけ思ってしまった。
逃げたい、と。
篤久からではない。
運命から。
朱雀の巫女として迎える、新月から。
『人の心とは面白いものだ。』
朱雀は静かに笑う。
『命を捨てる覚悟はあるというのに、たった一人の男と向き合う覚悟は持てぬ。』
「……。」
図星だった。
返す言葉もない。
『……ほら。』
朱雀はゆっくりと翼を広げた。
『時間がないのだろう。』
掠れた声には、もう以前のような力強さはない。
『さっさと済ませろ。』
「……はい。」
ミサは静かに頷き、朱雀の前へ歩み寄る。
その瞬間――。
朱雀が静かに嘴を開いた。
紅蓮の炎が渦を巻き、一瞬でミサの身体を包み込む。
熱いはずなのに、不思議と苦しさはなかった。
まるで身体も心も炎へ溶けていくような、不思議な感覚だけが全身を満たしていく。
『……逃避欲、確かに喰った。』
炎の奥から、朱雀の静かな声が響いた。
『これで、もうしばらくは保つ。』
やがて炎は静かに消え、ミサの姿が再び白い世界へ戻る。
朱雀は小さく息を吐いた。
その姿は、先ほどよりもわずかに炎を取り戻したようにも見えたが、命の灯火が尽きかけていることに変わりはなかった。
『……まだ足りぬな。』
掠れた声が静寂に溶ける。
『次に会う時まで……この命が保てばよいが。』
「朱雀……。」
呼び止めようと手を伸ばした、その瞬間。
白い世界が音もなく崩れ始める。
視界が眩い光に包まれ、ミサの意識はゆっくりと現実へ引き戻されていった。
※ ※ ※
次に目を開けた時、視界いっぱいに映ったのは、心配そうに自分を覗き込む篤久の顔だった。
「ミサ!」
「……篤。」
掠れた声で名前を呼ぶ。
気づけば、篤久の腕の中へしっかりと抱き留められていた。
伝わってくる体温に、張り詰めていた心が少しだけほどけていく。
「良かった……。」
篤久は安堵したように息を吐く。
その表情を見て、ミサはゆっくりと記憶を辿った。
朱雀門を離れようとして。
篤久と通信鏡で話して。
そのあと――。
「……。」
そこで記憶が途切れていた。
その先が、まるで霧に包まれたように思い出せない。
「……今は、いつ?」
恐る恐る尋ねると、篤久は静かに答えた。
「逢魔が時まで、あと半刻ほどだ。」
「えっ……。」
ミサは思わず息を呑む。
朱雀と話していた時間は、ほんのわずかだったはずだ。
それなのに、こちらでは半日近くが過ぎている。
改めて、現実とあの世界の時間の流れがまるで違うことを思い知らされた。
「ミサ、大丈夫?」
聞こえてきたのは、本成の穏やかな声だった。
顔を上げると、見慣れた奥の間の天井が目に映る。
篤久のすぐ傍には本成と新太。
少し離れた場所では、なぎの上とあず姫も安堵したような表情でこちらを見守っていた。
「どこまで覚えてる?」
本成の問い掛けに、ミサはゆっくり考える。
「……昨日のことまでは、ちゃんと…。」
それ以上先を思い出そうとしても、どうしても思い出せない。
まるで、その部分だけが誰かに切り取られてしまったようだった。
その時になってようやく、自分が篤久に抱き支えられたままだということに気付く。
「ご、ごめん……。」
慌てて身体を起こそうとする。
だが、篤久の腕は少しも緩まなかった。
「篤……?」
不思議そうに見上げても、篤久は首を横へ振るだけだった。
「まだ駄目だ。」
その一言に、部屋にいた全員が顔を見合わせる。
やがて、その沈黙を破るようになぎの上が小さく笑った。
「今さら照れても遅いわよ。」
なぎの上が呆れたように笑う。
「ずっとミサを心配して離さなかったんだから。」
「……ずっとではありません。」
篤久は静かに首を横へ振った。
「ここへ運んできてからです。」
その律儀な訂正に、部屋の空気が一瞬止まる。
「そこは訂正するんだな。」
新太が思わず苦笑すると、本成も肩を揺らした。
「ははっ。本当に篤久らしいね。」
二人につられるように、なぎの上も小さく笑みを零す。
そんな中、一人だけミサは恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた。
自分が今もなお篤久の腕の中にいることを思い出し、居たたまれなくなる。
それでも篤久は、腕を緩めようとはしなかった。
ミサは視線を泳がせたあと、慌てて話題を変える。
「け、結界は……?」
その一言で、部屋の空気が再び引き締まった。
「あなたが眠っている間に方針は決まったわ。」
なぎの上は表情を改め、静かに頷く。
「詳しい話は篤久から聞いて。」
そう言い残すと、あず姫へ視線を送った。
あず姫も小さく頷き、二人は御簾の向こうへ姿を消していく。
「じゃあ、僕たちも準備しよう。」
本成が立ち上がる。
「そうだな。」
新太もそれに続き、二人は静かに部屋を後にした。
襖が閉まり、足音が遠ざかる。
奥の間には、篤久とミサだけが残された。
静寂が訪れる。
その静けさの中で、ミサは恐る恐る篤久を見上げた。
「……降ろしてもらっても、いい?」
小さな声でそう尋ねる。
篤久はミサを見つめたまま、ゆっくりと首を横へ振ると、少しだけ抱く腕の力を強めた。
「もう少しだけ。」
抱く腕の力と相反して、その声は、先ほどまでとは違ってどこか弱々しかった。
「またミサが目の前からいなくなるんじゃないかって……本当に怖かった。」
その震えるような声に、ミサの胸は締め付けられる。
そっと篤久の背へ腕を回し、小さく微笑んだ。
「……ごめんね。」
その一言に、篤久はようやく安堵したように、小さく息を吐いた。
それでも腕を解くことはなく、ミサを抱き寄せたまま静かに語り始める。
「朱雀門へ迎えに行ったんだ。」
「え……?」
「屋敷へ戻っても、ミサがいなかった。」
篤久は少しだけ目を伏せる。
「通信鏡も繋がらない。」
その時の胸騒ぎを思い出したのか、抱き締める腕にわずかに力が入った。
「嫌な予感がして、朱雀門まで戻った。」
静かな声だった。
だが、その奥には今も消えない恐怖が滲んでいる。
「そこで、倒れてるミサを見つけた。」
「……。」
ミサは息を呑んだ。
自分には、その記憶だけがぽっかりと抜け落ちている。
「何の欲を喰われたのか、思い出せないの。」
小さく呟く。
「朱雀に呼ばれたところまでは覚えてる。でも、その先だけ何も……。」
篤久は静かに頷いた。
「欲を喰われると、その欲に関する記憶も曖昧になる。」
「うん……。」
「だから思い出せないんだろう。」
ミサは小さく俯いた。
「……ごめんね。」
「謝るな。」
篤久は優しく言葉を遮る。
「ミサは何も悪くない。」
そのまま、そっと額を合わせた。
「人は誰だって、迷う。」
穏やかな声が耳元で響く。
「逃げたくなることだってある。」
「……。」
「だから、一人で抱え込まなくていい。」
篤久はミサの手を包み込むように握る。
「これからは、一緒に悩めばいい。」
その言葉に、ミサの瞳がゆっくりと潤んだ。
「……うん。」
小さく頷く。
一人ではない。
その温もりが、張り詰めていた心を少しずつ溶かしていく。
だが、穏やかな時間は長くは続かなかった。
外から低く響く法螺貝の音が、静寂を切り裂く。
新月まで、残された時間はわずか。
いよいよ、運命の時が近づいていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
10/31まで毎日20時に更新です。




