第三章 朱雀の宿命 第三十七話『諦めない約束』
部屋を後にしたミサは、静かな廊下を一人歩いていた。
先ほど、なぎの上に問われた言葉が何度も胸の中で繰り返される。
――篤久に、自分の本当の気持ちを伝えたいと思わない?
答えは、もう分かっていた。
篤久のそばにいたい。
もっと一緒にいたい。
抱きしめられる温もりを、ずっと感じていたい。
そう願ってしまう自分がいる。
けれど。
その願いを叶えてはいけない。
自分は朱雀の巫女。
いつか来るその時には、この身を捧げなければならない。
だからこそ。
篤久には、幸せでいてほしい。
自分がいなくなった後も、笑っていてほしい。
そう思えば思うほど、胸の奥が締め付けられた。
「……」
小さく息を吐いた、その時だった。
「ミサ? どうしたの、そんなところで立ち止まって。」
聞き慣れた穏やかな声に顔を上げる。
そこには、本成と美乃香がこちらへ歩いてきていた。
「本成……それに、美乃香も。」
後宮は、帝と東宮を除く成人男子の立ち入りが禁じられている。
しかし、医師である本成の父と兄、そして薬師である本成だけは、女房や侍女が同行することを条件に、特別に出入りを許されていた。
「何かあった?」
本成はミサの表情を覗き込み、少し首を傾げる。
「なんだか、すごく考え込んでる顔をしてたから。」
「えっ? あ、ううん!」
ミサは慌てて笑顔を作る。
「ちょっと、お腹空いたなぁって思ってただけ!」
あまりにも分かりやすい誤魔化し方に、本成は思わず苦笑した。
――これは聞いても、話してくれないな。
そう悟ると、本成は袖口から一つの薬包を取り出した。
「美乃香。この薬を、あず姫様へお願いできる?」
「かしこまりました。」
美乃香は丁寧に一礼すると、そのまま奥へ向かって歩いていく。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、本成は改めてミサへ向き直った。
「そういえば、ミサの部屋ってどこにあるの?」
「え?」
「少し話がしたいんだ。」
真剣な眼差しに、ミサは静かに頷いた。
「……こっち。」
しばらく歩いた先。
何度も通ったことがあるはずの廊下の一角で、ミサは足を止めた。
「ここ。」
「えっ!?」
本成は思わず目を丸くする。
「ここに部屋があったの!?何度も前を通ってるのに、全然気付かなかった……。」
周囲に人の気配がないことを確かめると、二人は部屋へ入った。
室内は、驚くほど質素だった。
机が一つ。
最低限の生活道具。
それ以外には、余計なものは何もない。
本成は部屋を見渡し、思わず小さく笑った。
「……本当に、ミサらしい部屋だね。」
「ご、ごめんね……座るものも何もなくて。」
申し訳なさそうに言うミサに、本成は首を横に振る。
「気にしないよ。」
そう言うと、本成はそのまま畳へ腰を下ろし、向かいへ座るよう促した。
ミサも静かに腰を下ろす。
けれど、座った瞬間から気になっていたことがあった。
「ねぇ、本成。」
「ん?」
「さっきの薬……あず姫様のお身体、どこか悪いの?」
ミサの問いに、本成は少しだけ視線を落とした。
「悪いというより……必要なんだと思う。」
「必要?」
「あず姫様は、予知夢を見るために眠りたいんだ。あれは睡眠薬だよ。」
「睡眠薬……。」
ミサは小さく息を飲む。
未来を見ることができる力。
それがどれほど危険で、どれほど苦しいものなのか。
ミサには想像することしかできなかった。
「きっと、あず姫様も最後まで諦めたくないんだよ。」
本成の言葉に、ミサは黙って俯いた。
しばらく静かな時間が流れる。
やがて本成は、ふと思い出したように袖へ手を入れた。
「……ミサ。」
「なに?」
差し出された小さな薬包に、ミサは首を傾げる。
「これを預かってほしい。」
「え……?」
突然の申し出に、ミサは戸惑う。
「これは?」
「睡眠薬。」
「睡眠薬……?」
本成は頷いた。
「でも、あず姫様に渡したものとは違う。」
「違うの?」
「試作品なんだ。」
少し困ったように笑う。
「眠りを深くするために調合したものだけど、まだ調整中でね。効き方にも個人差がある。」
「じゃあ、どうして私に?」
ミサの問いに、本成はすぐには答えなかった。
そして、静かにミサを見つめる。
「……ミサ。」
「?」
「僕に約束してほしい。」
真剣な声だった。
「必ず、これを返しに来て。」
ミサの指が止まる。
「返しに……?」
「うん。」
本成は優しく微笑んだ。
「新月が終わったら。」
その言葉が、胸に刺さる。
新月の結界。
その先に待つものを、ミサは知っている。
朱雀の巫女としての役目。
自分がどうなるのか。
分かっているからこそ、その約束は苦しかった。
「本成……。」
「僕はね。」
本成は穏やかに続ける。
「ミサが『役目を終えたら消える』なんて、そんな未来を受け入れてない。」
「……。」
「だから、この薬は預けるんじゃない。」
小さく笑う。
「ミサが戻ってくるための約束。」
その言葉に、ミサの胸が締め付けられた。
「……分かった。」
震えそうになる声を抑えて、ミサは薬包を受け取る。
「ちゃんと返すね。」
「うん。」
本成は満足そうに頷いた。
「絶対に。」
その一言に、ミサは小さく笑った。
薬包を大切そうに懐へしまったミサを見届けると、本成は安堵したように息を吐いた。
けれど、その表情はすぐに静かなものへと変わる。
部屋に、穏やかな沈黙が落ちた。
「……本当は。」
本成がぽつりと口を開く。
「今日は、それを渡すために来たんじゃないんだ。」
「え?」
ミサが顔を上げる。
本成は一度だけ目を閉じ、小さく息を吸った。
「話したいことがあった。」
その声音は、先ほどまでとは違っていた。
冗談も笑顔もない。
薬師でも、守護者でもなく、一人の人間としてミサに向き合おうとしている声だった。
「……本題なんだけど。」
本成は真っ直ぐミサを見つめる。
そして、ゆっくりと畳へ両手をついた。
「謝りたかった。」
深く頭を下げる。
「えっ!?」
突然のことに、ミサは思わず身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待って!なんで本成が謝るの!?」
「僕は……。」
本成は拳を握り締める。
「朱雀の巫女として役目を終えたあと、ミサが生き残る方法を見つけられなかった。」
その一言で、部屋の空気が重く沈んだ。
「何冊文献を読んでも、何度古い記録を調べても……。」
悔しさを押し殺すように、本成は言葉を紡ぐ。
「何一つ、見つけられなかった。」
長い沈黙。
やがて、本成は再び静かに頭を下げた。
「だから……ごめん。」
その謝罪は、自分の無力さを責めるものだった。
ミサは胸が締め付けられるような思いで、その姿を見つめる。
「違うよ。」
静かな声だった。
本成がゆっくり顔を上げる。
「これは、本成が謝ることじゃない。」
ミサは小さく首を横へ振った。
「私は、生まれた時から朱雀の巫女になるって決まってた。」
そう言い聞かせるように微笑む。
「だから、本成が自分を責める必要なんてないよ。」
その笑顔が、あまりにも優しくて。
あまりにも痛々しくて。
本成は何も返せなかった。
目の前で微笑むミサは、泣きそうな顔などしていない。
いつものように穏やかで、優しい笑顔だった。
だからこそ、その笑顔が胸を締め付ける。
しばらくの沈黙のあと、ミサは静かに言葉を続けた。
「私がいなくなっても、篤には本成や新太がいる。」
その一言に、本成の表情が曇る。
「だから……安心して役目を果たせる。」
そう言って姿勢を正すと、ミサは畳へ両手をつき、深く頭を下げた。
「篤のこと……よろしくお願いします。」
その姿を見つめたまま、本成はゆっくりと目を閉じる。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
この子は、自分がいなくなったあとの話ばかりしている。
まるで、それが決まった未来であるかのように。
やがて本成は、小さく息を吐いて顔を上げた。
「……ごめん。」
ぽつりと零した声に、ミサが顔を上げる。
本成は困ったように笑った。
「僕ね。」
その笑顔はどこか照れくさそうで、それでいて真っ直ぐだった。
「昔から諦めが悪いんだ。」
「え……?」
「最後の最後まで、何か方法がないか探すつもりだから。」
迷いのない瞳だった。
薬師として。
そして、大切な仲間として。
「運命なんて言葉だけで、終わらせたくない。」
その一言には、本成の覚悟が込められていた。
「時間が残り一日でも、一刻でも、半刻でも。」
静かに、しかし力強く続ける。
「その最後まで、僕は探し続けるよ。」
ミサは何も返せなかった。
胸の奥がじんわりと熱くなり、目頭が少しだけ滲む。
こんなにも、自分のために諦めずにいてくれる人がいる。
その事実だけで、十分すぎるほど救われた。
「……ありがとう、本成。」
ようやく絞り出したその言葉に、本成は穏やかに微笑み返した。
「お礼を言われるようなことじゃないよ。」
そう言って肩をすくめると、部屋の空気は少しだけ和らいだ。
そして本成は、ふっと思い出したように笑う。
「それにね。」
「?」
「僕や新太でも、ミサが現れるまで篤久の笑った顔なんて、ほとんど見たことがなかったんだ。」
本成は穏やかに笑いながら続ける。
「昔から、必要以上に誰かと関わろうとしないし、感情を表に出すことも滅多になかった。」
ミサは静かに耳を傾ける。
今の篤久は、不器用ながらもよく笑い、照れ、時には拗ねる。
そんな姿しか知らないミサには、どこか信じられなかった。
「正直、驚いてるんだ。」
本成は優しく目を細める。
「ミサといる時の篤久は、本当に自然なんだよ。」
その言葉に、ミサは少しだけ照れくさそうに俯いた。
「だからね、ミサ。」
本成は真っ直ぐミサを見つめる。
「前にも言ったけど、篤久にはミサが必要なんだ。だから、諦めることだけはしないで。」
「……それは……。」
言葉が続かない。
本成の願いを受け止めたい。
そう思う一方で、自分には朱雀の巫女として果たさなければならない宿命がある。
返事ができずにいるミサを見て、本成はそれ以上答えを求めなかった。
ふと机へ目を向ける。
「あれ。」
視線の先には、二冊の本が並んで置かれていた。
本成はそのうちの一冊を手に取ると、懐かしそうに頁をめくる。
「この物語、ここら辺から面白くなってくるんだよね。」
その一言に、ミサは思わず笑みを零した。
「篤も……貸してくれた時に、同じこと言ってた。」
「そうなんだ。」
本成は少し嬉しそうに笑う。
「好みは昔から変わらないみたいだね。」
本をそっと閉じ、ミサへ返す。
「でも、その本を誰かに貸すなんて珍しいよ。」
「え?」
「篤久は、大事なものほど自分の傍から離したがらない性格だから。」
その言葉に、ミサは本を抱きしめるように胸へ寄せた。
少し照れくさそうに、この二冊を差し出してくれた篤久の姿が脳裏によみがえる。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
――その時だった。
ミサの懐から、通信鏡が小さく震えた。
「あっ、篤だ。」
懐から通信鏡を取り出し、そっと魔力を流し込む。
淡い光が鏡面に広がり、やがて篤久の姿が映し出された。
『ミサ。』
穏やかな声に、自然と頬が緩む。
「篤。」
篤久もミサの顔を見ると、ほんの少しだけ表情を和らげた。
『話は終わったか?』
「うん。今からそっちへ──」
そこへ、本成がひょいとミサの後ろから顔を覗かせた。
「篤久、もう終わるから安心して。」
その姿が鏡に映った瞬間だった。
篤久の表情がぴたりと止まる。
『……どうして本成がそこにいる。』
低く抑えた声だった。
「ミサと少し話をしてただけだよ。」
本成は悪びれる様子もなく笑う。
「も、本成!」
ミサは慌てて通信鏡を抱き寄せた。
篤久は小さく息を吐く。
『……ミサ。』
「は、はい。」
『奥の間で待ってる。』
短くそれだけ告げると、通信は静かに途切れた。
「あっ……切れちゃった。」
困ったように通信鏡を見つめるミサの隣で、本成が肩を震わせる。
「ははっ。」
「本成……。」
恨めしそうな視線を向けられても、本成は笑いを堪えきれなかった。
「篤久があんなに分かりやすく不機嫌になるなんて、珍しいものを見たよ。」
「もう……。」
ミサは小さく頬を膨らませる。
その反応まで可笑しくて、本成はひとしきり笑うと、ようやく懐から通信鏡を取り出した。
「そうだ。」
ミサの通信鏡を受け取り、自分の魔力を流し込む。
続いて自分の通信鏡をミサへ差し出した。
ミサは慣れた手つきで魔力を流し込む。
宮廷では魔力がほとんど使えないため、鏡は炎に包まれることもなく、淡い光を一度だけ宿した。
やがて光が静かに収まると、本成は通信鏡を受け取り、満足そうに頷く。
「これで、いつでも連絡が取れる。」
「うん。」
ミサも小さく微笑み返した。
「じゃあ行こうか。これ以上篤久を待たせると、本当に拗ねそうだから。」
その言葉にミサは思わず吹き出す。
「ふふっ、そうかも。」
二人は顔を見合わせて笑うと、並んで奥の間へ向かった。
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