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第三章 朱雀の宿命 第三十六話『優しい嘘』

篤久の懐から、静かな呼び出しの音が響いた。


二人の間に流れていた穏やかな空気が、一瞬で現実へと引き戻される。


篤久は小さく息を吐くと、名残を惜しむようにミサの肩へそっと手を添えた。


そして、乱れていた単衣の襟元を丁寧に整える。


ほどけかけていた紐を結び直す指先は、先ほどまでとは違うほど優しかった。


「だ、大丈夫だから……自分でできる。」


頬を染めたまま慌てて言うミサに、篤久は少しだけ困ったように笑う。


「……ごめん。」


短くそう告げると、一歩離れる。


そして懐から通信鏡を取り出した。


魔力を流し込むと、鏡の向こうに新太の顔が映る。


『篤久、今どこだ?』


「宮廷に戻ってる。」


いつものように淡々と答えると、新太の横から本成がひょいと顔を覗かせた。


『ミサも一緒だよね?』


その声に、篤久は一瞬だけ視線を動かす。


「……ああ。」


『なら、二人とも奥まで来られる?』


「ああ。今向かう。」


短く返事をすると、通信鏡の光が消えた。


篤久が振り返る。


そこには、すでに身なりを整え終えたミサがいた。


乱れた衣を直し、朱色へ変わっていた髪を被衣で隠し、首元までしっかりと布を巻き直している。


その姿を見た瞬間。


篤久の口元が、わずかに緩んだ。


――気付いたんだ。


自分が残した、小さな痕に。


そう思うと、堪えきれず笑みが零れる。


「……どうしたの?」


不思議そうに首を傾げるミサ。


篤久は小さく首を振った。


「いや。」


少しだけ目を細める。


「可愛いなと思っただけ。」


「……へ?」


一瞬で顔を赤くするミサ。


その反応が愛おしくて、篤久は小さく笑った。


そして、そっと右手を差し出す。


「行こう。本成たちを待たせてる。」


促されるまま、ミサはその手に自分の手を重ねた。


二人は並んで部屋を後にした。




※ ※ ※




「逢魔時が近いな。」


宮廷の廊下を歩きながら、篤久はふと庭園へ視線を向けた。


西の空は茜色から群青へと移ろい始めている。


夕暮れの冷たい空気が、静かに宮廷を包み込んでいた。


出仕していた貴族たちはすでにほとんど退出しており、人の気配は少ない。


特に朝廷のない日は、残る文官も少なく、東側の廊下には二人の足音だけが響いていた。


人目がないこともあり、篤久は自然とミサの手を握ったまま歩き続ける。


ミサも、今度は振りほどこうとはしなかった。


けれど。


ふと、先ほど部屋で交わした言葉が胸によみがえる。


『そんな苦しい格好を、いつまで続けるつもりなんだ。』


あの時の篤久の表情。


怒っているようにも見えた。


けれど、それ以上に悲しんでいるように見えた。


男装を始めてから、晒を巻くことは当たり前だった。


動きやすくするため。


任務を全うするため。


そう思って疑ったことなど、一度もなかった。


だからこそ。


自分より先に、その苦しさに気付いてくれた篤久の言葉が、何度も胸の奥で響いていた。


無意識に胸元へ手を添える。


晒の締め付けは、もう慣れたはずだった。


それなのに。


今日は、どこか苦しく感じる。


――もし。


晒を巻いていなかったら。


――もし、あの時。


通信が入らなかったら。


そこまで考えた瞬間。


ミサは、はっと息を呑んだ。


自分が何を想像したのか気付き、耳まで赤くなる。


「……もう。」


誰にも聞こえないほど小さく呟く。


すると。


繋いでいた右手を、篤久が少しだけ握り直した。


「どうした?」


優しく問い掛ける声。


ミサは慌てて首を横に振った。


「ううん。なんでもない。」


そう答える。


けれど、胸の高鳴りだけは、夕暮れの冷たい風でも静まることはなかった。




※ ※ ※




篤久と別れたミサは、その足であず姫のもとへ向かった。


事情を説明すると、あず姫は静かに頷いた。


「そう……子どもたちが。」


「はい。邪気そのものは浄化できましたが、原因が消えたわけではありません。」


ミサの言葉に、あず姫はしばらく考え込む。


その間に、ミサはあず姫に向かって浄化するように術を施した。


「ありがとう、ミサ。」


その言葉と共に、あず姫は再び奥の間へと姿を消していった。


部屋に残されたのは、ミサとなぎの上だけだった。


「……『満月の結界』まで綻び始めるなんて。」


なぎの上は額へ手を添え、静かに呟く。


その横顔には、普段の余裕はなく、疲れの色が滲んでいた。


ミサも俯く。


結界の異変。


子どもたちの悪夢。


そして、その先にあるかもしれない大きな災い。


不安がないと言えば嘘になる。


けれど。


先ほど篤久が言ってくれた言葉を思い出す。


『まだ本当に初期段階だ。』


『明日の新月の結界を張り直せれば、満月の結界も立て直せる可能性は十分ある。』


その落ち着いた声が、今も胸に残っていた。


「結界のことは……私たちより、篤の方が詳しいです。」


ミサはゆっくり顔を上げる。


「篤が大丈夫だと言うなら、きっとまだ間に合います。」


なぎの上は、そんなミサを見つめた。


そして、少しだけ目を細める。


「……そうね。」


短い返事。


けれど、その声にはどこか寂しさが混じっていた。


しばらく沈黙が流れる。


やがて。


なぎの上の視線が、ゆっくりとミサの首元へ向いた。


「ところで。」


「はい?」


ミサが顔を上げる。


なぎの上は扇を口元へ当て、柔らかく微笑んだ。


「今日は随分と隠しているのね。」


その一言に。


ミサの肩がびくりと震える。


普段なら宮中では被衣を外している。


それなのに今日は、朱色の髪だけではなく、首元までしっかりと隠していた。


「それ、外してみて。」


扇の先で首元を示され、ミサは慌てて布を握る。


「え、あの……これは……。」


「命令よ。」


穏やかな声音。


けれど、逆らえない響きがあった。


ミサは観念したように、小さく息を吐く。


そして、ゆっくりと被衣をほどいた。


白い首筋が露わになった瞬間。


「あら。」


なぎの上の口元に、楽しそうな笑みが浮かぶ。


「やっぱり。」


扇の先で、首元をそっと示す。


「隠していたのは、これね。」


ミサの顔が一気に赤くなる。


「な、なぎの上様……。」


「ふふ。」


その反応だけで、すべて察したようだった。


篤久が残した小さな痕。


そして、それを隠そうとしているミサ。


なぎの上は、どこか嬉しそうに目を細めた。


「本当に……あの子は。」


小さく呟く。


「ミサ。」


「…篤久に、自分の本当の気持ちを伝えたいと思わない?」


ミサは何も言えず、ただ俯いた。


その言葉が。


胸の奥へ静かに刺さった。


自分の心に正直になる。


それが、どれほど怖いことなのか。


ミサには分かっていた。


本当は。


篤久の隣にいたい。


もっと一緒にいたい。


触れられる温もりを、何度でも感じていたい。


そう願ってしまう自分がいる。


けれど。


その先に待つ未来を、ミサは知っている。


朱雀の巫女として選ばれた自分が。


最後には、この国を守るために犠牲になることを。


だからこそ。


篤久から向けられる優しさが、嬉しいほど苦しかった。


大切にされるほど。


愛されていると感じるほど。


離れなければならないと思ってしまう。


「……でも。」


ミサは小さく息を吐いた。


「私は、篤に期待させたくないんです。」


なぎの上は静かにミサを見つめる。


「……私には。」


ミサは一度、言葉を飲み込んだ。


それでも。


胸の奥に隠していた想いが、少しずつ溢れていく。


「ずっと一緒にいるって、約束できないから。」


その一言に。


なぎの上の表情がわずかに揺れた。


ミサは自分の首元へ手を添える。


そこには、篤久が残した小さな痕がある。


本当なら嬉しいはずのもの。


愛されている証。


それなのに。


思うたびに胸が締め付けられる。


「篤は……優しいから。」


ミサは小さく笑った。


「きっと、私がいなくなった後も……ずっと苦しむと思うんです。」


声が震える。


「だから……これ以上、私のことを大切に思ってほしくない。」


なぎの上は何も言えなかった。


それがミサなりの、篤久への愛情だと分かっていたから。


「ミサ。」


優しく名前を呼ぶ。


「あなたは、篤久を傷つけたくないのね。」


ミサは静かに頷いた。


「……はい。」


「自分が傷つくことよりも?」


その問いに。


ミサは少しだけ迷って。


そして、小さく答えた。


「……はい。」


なぎの上は目を伏せる。


やはり。


この子は昔から変わらない。


誰かを守るためなら。


自分の幸せさえ、諦めようとしてしまう。


なぎの上は、静かにミサを見つめた。


「でもね、ミサ。」


「はい。」


「もし篤久が、あなたと同じことを考えていたら?」


突然の問いに、ミサは顔を上げる。


「え?」


「もし篤久が…」


なぎの上は静かに続ける。


「自分はいつか、いなくなるかもしれないから、最初から距離を置こうと思っていたら。」


ミサの表情が固まった。


想像しただけで。


胸が痛んだ。


「……嫌です。」


思わず零れた言葉。


なぎの上は優しく微笑む。


「そうでしょう?」


「篤が……そんなことを考えていたら。」


ミサは俯く。


「きっと、私は悲しいです。」


「なら。」


なぎの上は静かに言った。


「篤久も同じではないかしら。」


ミサは息を呑んだ。


「あなたが自分を守るために離れようとしていることを知ったら。」


「それはきっと、篤久にとっても傷になる。」


返す言葉がなかった。


分かっている。


分かっているからこそ。


怖い。


「……でも。」


ミサは小さく首を振る。


「私には、覚悟があります。」


その瞳には迷いがなかった。


「朱雀の巫女として。」


「最後まで役目を果たす覚悟が。」


なぎの上は、悲しそうに目を細めた。


「その覚悟があるから、あなたは一人で背負おうとするのね。」


ミサは答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


その時。


閉ざされていた襖の向こうから、静かな声が響いた。


「……やっぱり、そう考えていたのね。」


ミサが振り返る。


そこには、いつの間にか戻っていたあず姫が立っていた。


「……あず姫様。」


あず姫はゆっくり部屋へ入る。


その表情はいつものように冷静だった。


けれど。


朱色の瞳の奥には、隠しきれない痛みが浮かんでいた。


「ミサ。」


「はい。」


「あんたは、自分が犠牲になることを……本当に受け入れているの?」


ミサは少しだけ目を伏せる。


「はい。」


迷いのない返事。


あず姫は静かに息を吐いた。


「……そう。」


短い言葉。


けれど。


そこには悲しみが滲んでいた。


「なら、なおさら言わなければならないことがあるわ。」


ミサが顔を上げる。


あず姫は静かに続けた。


「あなたが思っているほど、篤久は弱くない。」


「そして。」


一瞬だけ言葉を止める。


「あなたが思っているほど、篤久は簡単に諦める人でもない。」


その言葉に。


ミサの胸が大きく揺れた。


「それは本当に、篤久のためになっているのかしら。」


篤久が、簡単に諦める人ではない。


それは、分かっている。


五年前からずっと。


どれほど遠ざけても。


どれほど拒んでも。


篤は変わらなかった。


「……でも。」


ミサは小さく呟く。


「だからこそ、なんです。」


あず姫の眉がわずかに動く。


「篤は優しいから。」


ミサは俯いたまま続ける。


「きっと……私が本当のことを話しても、絶対に離れてくれない。」


その声には、悲しみが混じっていた。


「朱雀の巫女としての役目を果たすなら。」


「私は、最後には篤を置いていくことになる。」


「そんな未来を知っていて……それでも隣にいてほしいなんて。」


ミサは唇を噛む。


「言えるわけありません。」


部屋に静寂が落ちた。


なぎの上は目を伏せる。


あず姫も、すぐには言葉を返さなかった。


やがて。


「……ミサ。」


静かな声が響く。


「あなたは、篤久の気持ちを決めつけすぎているわ。」


ミサが顔を上げる。


「あず姫様……?」


「あいつは。」


あず姫は遠くを見るように目を細めた。


「自分が傷つくことより、大切な人が一人で苦しむことを嫌う人よ。」


「だから……。」


一度言葉を止める。


「あなたが一人で運命を背負おうとしていることを知ったら。」


「きっと、怒るでしょうね。」


その言葉に、ミサは少しだけ目を見開いた。


怒る。


篤久なら。


確かに。


「……でも。」


ミサは小さく笑う。


「それでも、最後には私を守ろうとすると思います。」


「そうね。」


あず姫は否定しなかった。


「だから問題なのよ。」


「え?」


「あなたたちは、どちらも相手を守ろうとして。」


「自分の気持ちを後回しにしている。」


その言葉が、ミサの胸に刺さる。


「……。」


「ミサ。」


あず姫は静かに近付いた。


「はい。」


「私たちは、あなたに後悔してほしくないの。」


突然の言葉に、ミサは顔を上げた。


「あず姫様……?」


「たまには素直になりなさい。」


一瞬、寂しげな表情を見せたあず姫は、直ぐ様いつも通りの表情に戻ると


「さぁ、篤久が心配してるでしょう。戻りなさい。」


と、言った。


その名前を聞いた瞬間。


ミサの胸が小さく揺れた。


きっと今も。


あの優しい蒼色の瞳で、自分のことを案じている。


そう思うだけで、胸が温かくなる。


けれど。


その温もりを、いつか失うことになるかもしれない。


そう考えると、胸の奥が締め付けられた。


「……失礼します。」


ミサは深く頭を下げる。


そして、なぎの上とあず姫を残し、静かに部屋を出ていった。


遣戸が静かに閉じられる。


二人きりになった部屋に、しばらく沈黙が流れた。


やがて。


「……あんた。」


あず姫が静かに口を開く。


「本当に、何も伝えないつもり?」


なぎの上は答えなかった。


ただ扇を握ったまま、目を伏せる。


「何のことかしら。」


「あの子の運命よ。」


その言葉に。


なぎの上の表情が僅かに曇った。


「……朱雀の巫女として迎え入れた意味。」


「あの子が最後に背負うもの。」


あず姫の声は静かだった。


けれど、その一言一言は重かった。


「……言えるわけないでしょう。」


なぎの上は小さく呟く。


「あの子は……。」


言葉が詰まる。


「やっと、幸せを知ったのよ。」


「篤久と出会って。」


「誰かを大切に思う気持ちを知って。」


「誰かに大切にされる喜びも知った。」


扇を握る指先に力が入る。


「それなのに。」


「その先に待っているものを、私たちの口から告げるなんて……。」


「できるわけないでしょう。」


静かな部屋に、なぎの上の声だけが響いた。


あず姫はゆっくりと息を吐く。


「……巫女の資格を失わせればいい、と考えた?」


その言葉に。


なぎの上は顔を上げた。


「そんなことをすれば、この国は終わるわ。」


即座に返したものの。


その声音には迷いが滲んでいた。


「ただ……。」


なぎの上は目を伏せる。


「この世の運命を、あの子一人に背負わせるなんて。」


「……あまりにも残酷だと思っただけ。」


しばらく、誰も言葉を発しなかった。


やがて。


あず姫は静かに目を閉じる。


「それでも。」


金色の瞳が、真っ直ぐなぎの上を見つめた。


「私たちは、あの日誓ったでしょう。」


「……。」


「ミサを朱雀の巫女として迎え入れた、その日から。」


なぎの上の瞳が揺れる。


「あの子を守ると。」


「あの子がどんな運命を背負うことになっても。」


「最後まで、味方でいると。」


静かな沈黙が落ちる。


けれど。


二人とも分かっていた。


それが、どれほど残酷な約束なのか。


「……二人で、その罪を背負って生きていくって。」


なぎの上は小さく息を吐いた。


「ええ。」


あず姫は閉じられた遣戸へ視線を向ける。


その向こうには。


何も知らずに。


それでも誰かを想い、必死に生きようとしている少女がいる。


「……夜が来るわ。」


あず姫は静かに立ち上がった。


「備えましょう。」


奥へ向かうその背中を見送りながら。


なぎの上は一人、誰にも気づかれないように涙をひと粒だけ零した。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


10/31まで毎日20時に更新です。

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