第三章 朱雀の宿命 第三十五話『隠せない想い』
午後の陽光がゆっくりと西へ傾くにつれ、街には冷たい風が吹き始めていた。
宮廷から箝口令が敷かれているせいか、人通りはまばらで、行き交う人々も皆どこか不安を抱えたように、うつむき加減で足早に通り過ぎていく。
篤久は空を見上げ、小さく息を吐いた。
「今夜は冷えそうだな。」
そう言って、繋いでいたミサの手を少しだけ強く握る。
その温もりが、先ほどまでの穏やかな時間を思い出させる。
けれど、その表情はすぐに険しくなった。
春太をはじめ、何人もの子どもたちが悪夢を見ていた。
ミサが邪気を浄化したことで、一時的には落ち着くだろう。
それでも、原因そのものを断たなければ、同じことは繰り返される。
「篤……。」
ミサが不安そうに名前を呼ぶ。
「ああ。」
篤久は静かに頷いた。
「確証はまだない。でも、『満月の結界』まで綻び始めている可能性は高い。」
その言葉に、ミサの足が止まった。
繋いだ手に、無意識に力が入る。
篤久も立ち止まり、真正面からミサを見つめた。
「そんな顔をするな。」
優しく微笑み、安心させるように続ける。
「まだ本当に初期段階だ。明日の『新月の結界』を張り直せれば、『満月の結界』も立て直せる可能性は十分ある。」
その落ち着いた声に、ミサはようやく小さく息を吐いた。
「……うん。」
再び歩き始める二人。
長屋近くにいた子どもたちの邪気は払うことができた。
けれど、ヘイアン京にはまだ数え切れないほどの子どもたちがいる。
その子たちも悪夢に苦しんでいるのかもしれない。
そう思うと、ミサの胸は痛んだ。
同時に、先ほど別れたばかりの子どもたちとのやり取りが脳裏に浮かぶ。
春太の家を出て、次の家へ向かおうとした、その時だった。
「……あれ?」
春太が不思議そうにミサを見上げる。
「どうした?」
「ミサ兄ちゃん。」
春太は首を傾げたまま、ミサの首元を指差した。
「首、赤いよ?」
「えっ?」
思わずミサは自分の首筋へ手を当てる。
「ほんとだー!」
近くにいた子どもたちも集まってきて、口々に声を上げる。
「虫に刺されたの?」
「痛くない?」
「赤くなってる!」
次々と向けられる視線に、ミサは慌てて被衣を首元まで引き上げた。
「だ、大丈夫! なんでもないから!」
笑って誤魔化そうとした、その瞬間。
耳元で囁かれた、あの低く優しい声が脳裏によみがえる。
――今はこれで我慢しとく。
そう言って、篤久が首筋へ触れた感触まで、鮮明に蘇った。
「……あ。」
心臓が大きく跳ねる。
さらに、忘れかけていた記憶が重なった。
目覚めて間もない頃。
東宮が帰られたあと、なぎの上の首元にも同じような赤い痕が残っていた。
『なぎの上様、それ……虫に刺されたんですか?』
心配して尋ねた自分に、なぎの上はくすりと笑った。
『これはね。たくさん愛された痕なのよ。』
「…………。」
「…………え。」
まさか。
まさか、あれって――。
「~~~~っ!」
一気に顔が熱くなる。
耳まで真っ赤になったミサは、被衣をさらにぎゅっと首元へ引き寄せた。
その様子を少し離れた場所から見ていた篤久は、きょとんとした表情で首を傾げる。
「ミサ?」
「な、なんでもない!」
勢いよく首を振るミサに、篤久は理由が分からないまま苦笑した。
「そうか?」
「ほ、本当に、なんでもないから!」
その慌てぶりに、春太たちは顔を見合わせ、不思議そうに笑う。
ミサだけが、首元を押さえたまま、しばらく顔を上げることができなかった。
※ ※ ※
やがて宮廷前の広場が見えてくる。
門番の姿が視界に入ると、どちらからともなく繋いでいた手を離した。
温もりを失った右手を、ミサはそっと握りしめる。
胸に残る名残惜しさを隠すように、小さく呟いた。
「……でも、どうして子どもだけなんだろう。」
独り言のつもりだった。
けれど、隣からすぐに答えが返ってくる。
「それが、まだ初期段階だという証拠なんだ。」
「え?」
ミサが見上げると、篤久は前を向いたまま説明を続けた。
「子どもは大人より心が柔らかい。だから、ごく僅かな邪気にも影響を受けやすい。」
少し間を置き、篤久は続ける。
「それに、聖女と呼ばれるような――」
そこで言葉が止まった。
自分でも口調が強くなったことに気付いたのだろう。
ミサは静かに尋ねる。
「あず姫様も……夢見に影響を受けてるってこと?」
篤久は苦笑しながら肩をすくめた。
「確信はない。でも、聖女みたいに純粋な存在は……たとえ性格に少し難があっても、影響は受けやすいのかもしれない。」
その一言に、ミサはぴくりと眉を寄せた。
「篤。」
「ん?」
「もしかして……あず姫様と仲悪いの?」
責めるような声音だった。
篤久は思わず苦笑する。
「ああ。昔から、あの従兄妹二人には振り回されっぱなしだったからな。特に――あずには……」
言葉が途切れた。
しまった、と気付いた瞬間には、篤久の表情がわずかに固まっていた。
足も止まる。
「篤……今。」
ミサの視線が揺れる。
「今、あず姫様のこと……。」
「ミサ。」
篤久は片手を軽く上げ、言葉を制した。
一度だけ深く息を吐く。
そして、観念したように苦笑した。
「……ごめん。完全に失言だった。」
昔からの癖だった。
気を許している相手だからこそ、無意識に昔の呼び方が出てしまった。
けれど、それが今のミサを傷つけたことに、篤久はすぐ気付いていた。
「……普段は、そうやって呼んでるんだ。」
小さな呟き。
責めるような声ではなかった。
だからこそ、篤久の胸に重く響いた。
「え?」
「そう、ですよね。」
ミサは笑おうとした。
けれど、その表情はどこか寂しげだった。
「従兄妹ですもんね。東宮様から婚約のお話が出るくらいなんだから……仲が良いのは当たり前ですよね。」
穏やかな言葉。
けれど、その声には明らかな距離があった。
まるで、自分から一歩下がろうとしているようだった。
ミサは篤久の横をすり抜けるように歩き出す。
そのまま振り返ることなく、宮廷へ向かっていく。
「ミサ?」
呼びかけても、返事はない。
少しだけ速くなる歩幅。
その背中を見つめながら、篤久は小さく息を吐いた。
――しまった。
完全に踏み込んではいけないところに触れてしまった。
慌てて追いかける。
数歩で隣へ並ぶと、篤久はミサの手を取った。
「離してください。」
ミサは掴まれた手を、そっと引いた。
けれど。
篤久は離さなかった。
「なんで急に、そんな他人行儀なんだ。」
静かな声。
けれど、その奥には抑え込んだ感情が滲んでいた。
「……考えてみれば、おかしかったんです。」
ミサは俯いたまま、言葉を続ける。
「あず姫様の従兄弟様なのに、私が近付きすぎていました。」
「ミサ。」
「私はただのシノビです。身分も違うのに――」
「それ以上言うな。」
低く、はっきりとした声だった。
ミサが息を呑む。
「俺は、そんなことを聞きたいんじゃない。」
篤久は握った手を離さないまま、歩き出した。
まるで、このまま離してしまえばミサが遠くへ行ってしまうような気がした。
普段より速い歩調。
ミサは少し小走りになりながら、その背中についていく。
宮廷の廊下を進む篤久の張り詰めた空気に、すれ違う者たちも思わず道を譲った。
篤久は一度も振り返らない。
ただ、繋いだ手だけが、決して離さないという意思を伝えていた。
やがて自室へ辿り着くと、篤久は周囲を一度見回した。
人の気配がないことを確認すると、静かに襖を閉める。
部屋に入った瞬間、ようやく篤久はミサの手を離した。
離れた温もりに、ミサの指先がわずかに動く。
けれど、何も言わずに俯いた。
そんなミサを見つめ、篤久は小さく息を吐く。
「……悪かった。」
その一言に、ミサが顔を上げる。
「感情的になったのは、俺だ。」
「篤……。」
篤久は苦笑しながら眼鏡を外した。
「昔のことを思い出して、つい口が滑った。」
一瞬、視線を落とす。
「しかも……ミサを傷つけた。」
部屋の中に静かな沈黙が流れた。
やがて篤久は、少し困ったように笑う。
「最初は、あず姫様のことを悪く言ったから怒ってるんだと思った。」
「……違う。」
ミサは小さく首を振る。
「うん。」
篤久は頷いた。
「途中で気付いた。」
蒼色の瞳が、まっすぐミサを見る。
「怒ってた理由は、そこじゃなかった。」
少しだけ間を置く。
そして、優しく問いかけた。
「……あず姫様を『あず』って呼んだことが気になったんだろ。」
図星だった。
ミサは何も言えず、視線を逸らす。
頬が少しずつ熱を持っていく。
「……違うって言えない?」
少しいたずらっぽく笑う篤久。
その表情に、ミサはますます顔を赤くした。
「だ、だって……。」
小さな声で呟く。
「従兄妹なんだから、昔からそう呼ぶのが普通なんでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間。
篤久は思わず吹き出した。
「やっぱり、そこだったか。」
「……。」
ミサは恥ずかしそうに視線を落とす。
自分でも子どもっぽいと思う。
けれど、篤久が自分以外の女性を特別な呼び方で呼ぶことが、どうしても胸に引っかかった。
そんなミサの様子が愛おしくて、篤久はふっと笑う。
「そんなことで嫉妬してくれるなんて、思ってもなかった。」
「嫉妬なんて……。」
否定しようとした。
けれど、言葉は続かなかった。
篤久の前では、もう隠しきれない。
「……でも。」
その一言で、篤久の表情が少しだけ真剣になる。
「お願いだから、自分を卑下するようなことだけは言わないで。」
「え……?」
「シノビだからとか、身分が違うとか。」
篤久はゆっくりと言葉を選ぶ。
「そんな理由で、ミサが自分を遠ざけるのは嫌だ。」
その言葉に、ミサの瞳が揺れた。
自分でも気付かないほど、胸の奥にあった不安。
朱雀の巫女としてではなく。
シノビとしてでもなく。
ただの一人の少女として、隣にいていいのか。
ずっと答えを出せずにいた。
その時だった。
腰元に下げた小さな鈴が、かすかに揺れる。
――チリン。
母から受け継いだ、たった一つの形見。
幼い頃から、どんな時も共にあった音。
その音は、まるで閉ざしていたミサの心が、ほんの少しだけほどけたことを知らせるようだった。
「……。」
篤久は、その鈴の音に気付いたように静かに目を細める。
けれど、何も聞かなかった。
ただ、目の前のミサを真っ直ぐ見つめる。
「ミサ。」
優しい声だった。
「俺は、ミサが朱雀だから隣にいてほしいんじゃない。」
「シノビだからでもない。」
一歩近付き、静かに続ける。
「ミサだから、隣にいてほしいんだ。」
その言葉に、ミサの胸が大きく震えた。
次の瞬間。
篤久はそっとミサを引き寄せる。
「……篤。」
「……もしかしたら、これも邪気にあてられたのかもな。」
「あっ……。」
冗談めかした言葉。
けれど、その腕に込められた力は本気だった。
不安も、迷いも。
すべて包み込むように、篤久はミサを抱き締める。
息が詰まりそうなほど近い距離。
その温もりに、ミサは目を見開いた。
けれど、しばらくして。
篤久はふと違和感に気付く。
抱きしめた腕をわずかに緩め、ミサを見る。
「……ミサ。」
「ん?」
「苦しくない?」
「え?」
篤久の視線が、ミサの胸元へ向く。
抱きしめた拍子に単衣が少し乱れ、胸に巻かれた晒が見えていた。
「そんな苦しい格好……いつもしてるのか?」
責める声ではなかった。
ただ、心配している声だった。
篤久は晒へ視線を落とす。
男装そのものを否定しているわけではない。
シノビとして生きるミサにとって、それが必要なものだということは理解している。
それでも。
自分の身体を押し込めるように巻かれた晒を見ると、胸が痛んだ。
「う、動くのには必要だから。」
ミサは小さく答える。
「……もう慣れたし。」
「慣れたかどうかの話じゃない。」
篤久は静かに首を振った。
「役目が終われば、もうそんな無理をする必要はないだろ。」
その言葉に。
ミサは答えられなかった。
役目が終わった先。
その未来を、自分はまだ考えることができない。
視線を落としたミサを見つめ、篤久は小さく息を吐いた。
「……ごめん。」
そう呟くと、今度は先ほどよりも優しくミサを抱き寄せる。
欲に任せた抱擁ではない。
壊れ物を扱うような優しさ。
それでも、決して離したくないという想いだけは伝わってくる。
ミサは抵抗しなかった。
ただ静かに、その胸へ額を預ける。
――その時だった。
篤久の懐から、静かな呼び出し音が響いた。
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