第三章 朱雀の宿命 第三十四話『繋いだ手の理由』
「そういえば、どうやって邪気を調べるの?」
宮廷を出てしばらく歩いたところで、ミサは隣を歩く篤久の手をそっと引いた。
当然のように繋がれた手。
以前なら、それだけで落ち着かなくなっていたはずなのに。
今は、その温もりが不思議なくらい安心できる。
不意に足を止めた篤久が振り返った。
「あ……ごめん。また説明してなかったな。」
少し困ったように笑いながら、繋いだ手を握り直す。
その仕草だけで、ミサの胸が小さく跳ねた。
「邪気に触れて最初に影響が出るのは、人の心なんだ。」
「心……?」
「ああ。」
篤久は歩きながら静かに続ける。
「最初は眠りに出る。」
「眠り?」
「悪夢を見るようになる。」
その言葉を聞いた瞬間、ミサの表情が変わった。
「悪夢……。」
「邪気は少しずつ人の精神を蝕む。最初は眠りが浅くなったり、嫌な夢を見る程度だ。でも、それが続けば心そのものが弱っていく。」
その説明を聞きながら、ミサの脳裏に昨日の少年の姿が浮かぶ。
――春太。
震える声。
怯えた瞳。
『お母さんが死ぬ夢を見た』
あの言葉が、今になって重く胸へ残った。
「あのね、篤――」
話しかけようとした、その時だった。
篤久の懐から淡い光が漏れる。
小さな呼び出しの音。
「……本成か。」
篤久は名残惜しそうにミサの手を離すと、通信鏡を取り出した。
鏡の中に、本成の姿が映る。
「何か分かったか?」
『うーん……。何人かに話を聞いてみたけど、悪夢を見続けている人はいなかったよ。』
「そうか……。」
篤久は考え込む。
『満月の結界』の綻び。
もしそれが本当なら、何かしらの兆候があるはずだった。
「なら、『満月の結界』の異常ではない可能性も――」
「篤。」
袖を引かれ、篤久はすぐにミサへ視線を向けた。
「どうした?」
「あの……関係あるか分からないんだけど。」
ミサは少し迷ってから口を開く。
「春太が昨日、お母さんが死ぬ夢を見たって言ってたの。」
「春太が?」
篤久の表情が変わる。
すぐに通信鏡へ向き直った。
「本成。誰に聞き込みをした?」
『……あ。』
本成も気付いたように声を漏らす。
『ごめん。大人ばかりだった。子どもには聞いてない。』
「やっぱりか。」
『今から子どものいる家も回ってみるよ。朱雀地区にいるから、すぐ動ける。』
「ああ、頼む。」
通信が切れる。
静かになった道で、ミサは周囲を見渡した。
子どもの姿。
不安そうな顔をしている者はいないか。
しかし、行き交う人々の中にそれらしい姿は見つからない。
やがて通信を終えた篤久が戻ってくる。
「誰かいたか?」
ミサは首を横へ振った。
「ううん。見当たらなかった。」
「そうか。」
短く答えると、篤久は再びミサの手を取った。
そのまま歩き出す。
けれど――。
考え事をしているのだろう。
少しずつ歩幅が広くなっていく。
「……篤。」
呼びかけようとして、ミサは口を閉じた。
篤久が深く考え込んでいる時、周囲の音が聞こえなくなることを知っている。
邪魔をしたくなかった。
だから。
ミサは少し小走りになりながら、その背中についていった。
体力には自信がある。
シノビとして鍛えてきた足なら、多少の距離や速度など問題ではない。
それでも――。
普段から馬術や武術で鍛えられている篤久の歩幅は、思っている以上に大きかった。
繋がれた手に引かれるような形になりながら、ミサは必死に歩調を合わせる。
「……。」
呼びかければ、きっと篤久はすぐに足を止める。
けれど今は、邪気のことや結界のことを考えているのだろう。
自分のことで思考を途切れさせたくなかった。
そんな気遣いとは裏腹に――。
ミサはようやく周囲の視線に気付く。
二人の姿は、街中でひどく目立っていた。
青龍の守護者として知られる篤久が、誰かと手を繋いで歩いている。
それだけでも珍しい。
さらに隣を歩く自分は今、白拍子の格好で、深く被衣を被ってて、隠しきれない怪しい雰囲気がある。
行き交う人々は、ちらちらと二人へ視線を向けていた。
「……。」
――やっぱり、目立ってる。
以前、篤久と街へ出た時とは違う。
あの時は神力がなく黒髪だった。
けれど今は、朱色の髪を隠すため被衣を深く被っている。
それがかえって、人目を引いてしまっていた。
しかも今の自分は、篤久に手を引かれながら小走りで歩いている。
どう見ても普通の二人組には見えない。
ミサは被衣の端を少しだけ引き寄せた。
魔力で黒髪に変えても良いが、こんなところで魔力は使えない。
その時だった。
「篤……。」
意を決して声を掛けようとした瞬間。
篤久がふと足を止めた。
急に止まったため、ミサは勢いを止めきれない。
「わっ……。」
次の瞬間。
軽く身体がぶつかった。
「大丈夫?」
すぐに振り返った篤久が、心配そうにミサの顔を覗き込む。
「う、うん……。」
鼻先を押さえながら答えるミサ。
距離が近い。
あまりにも近い。
その瞬間だった。
周囲から小さな声が聞こえてくる。
「今のって……。」
「口付けした?」
その言葉が耳に入り、ミサの顔が一気に熱くなる。
「えっ……。」
慌てて周囲を見る。
そして気付いた。
繋いでいた手。
近すぎる距離。
この状況では、そう見えてしまっても仕方がない。
「あ、ご、ごめんなさい!」
反射的に、ミサは篤久の手を離した。
その瞬間。
篤久の表情が、ほんの少しだけ曇った。
けれどミサは気付かない。
恥ずかしさでいっぱいになり、一歩後ろへ下がってしまう。
「……。」
篤久は離れていった手を見つめる。
そして小さく息を吐いた。
「……こっち。」
短い言葉と共に、もう一度ミサの手を取る。
「えっ、あ、篤?」
そのまま人通りの少ない細い路地へ向かった。
建物に挟まれたその場所は、昼間でも少し薄暗い。
周囲に人の気配はない。
ようやく足を止めると、篤久は静かにミサへ向き直った。
そして。
篤久は小さく息を吐き、指先を軽く鳴らした。
澄んだ音が響く。
次の瞬間、二人の周囲を淡い水の膜のような結界が包み込んだ。
「これで、誰にも聞こえない。」
そう言ってから、篤久はミサを見つめる。
「ミサ。」
「……なに?」
「俺は、周りの目なんて気にしてない。」
穏やかな声だった。
けれど、その瞳には少しだけ寂しさが浮かんでいた。
「でも、ミサは違うだろ。」
ミサは何も言えない。
「さっきみたいに、人目を気にして手を離すくらいなら……。」
篤久は少しだけ視線を落とす。
「誰もいない場所で、手を繋いでいた方がいい。」
責められているわけではない。
ただ、自分のせいで、篤久を傷付けてしまったことに、ミサの胸が締め付けられる。
「ミサ。」
名前を呼ばれただけなのに、胸が大きく跳ねた。
「俺は……。」
少しだけ迷うように目を伏せる。
そして、静かに続けた。
「ミサが嫌がることをしたいわけじゃない。」
「ただ……。」
蒼色の瞳が、まっすぐミサを映す。
「離れていくのが、少し寂しかった。」
その言葉に、ミサの胸が痛む。
篤久はいつも自分を守ってくれる。
自分の気持ちより、ミサのことを優先してくれる。
だからこそ。
自分も少しは、この人の想いを受け止めたいと思った。
「ミサ、ひとつだけ約束して。」
「……?」
篤久は少し照れたように笑った。
「俺の前では、無理して強がらないで。」
「不安なことも、恥ずかしいことも。」
「ちゃんと言ってほしい。」
ミサは静かに頷く。
「……うん。」
その返事を聞いて、篤久は安心したように目を細めた。
「ありがとう。」
そして――。
その言葉と共に、篤久はそっとミサへ顔を近付けた。
「篤……?」
問いかける声は、わずかに震えていた。
けれど、ミサは逃げなかった。
次の瞬間。
柔らかな感触が重なった。
「…ん。」
優しく触れるだけの口づけ。
ほんの一瞬だったはずなのに、ミサにはそれがひどく長く感じられた。
唇が離れる。
それでも、二人の距離はまだ近いままだった。
篤久は少しだけ視線を落とし、困ったように笑う。
「……ごめん。」
「え?」
「噂になるくらいなら本当にしておこうと思って。」
その言葉に、ミサは目を瞬く。
この人はとっくに自分の気持ちに気付いているのではないだろうかと思うと、胸がきゅっと締め付けられる。
「ごめんなさい……。」
反射的に謝ると、篤久はすぐに首を横へ振った。
「謝らなくていい。」
「ミサが悪いわけじゃない。」
「ただ……。」
少しだけ目を伏せる。
「俺が、我慢できないのが悪いんだから。」
その言葉に、ミサは首を横へ振った。
「違う。」
「私が……。」
声が震える。
「私が、篤に我慢させてばかりだから。」
「本成にも言われたの。」
四神の欲。
その話を聞いた時のことを思い出す。
「好きな人なら、そういう気持ちになるのは普通だって。」
「でも私は……。」
言葉が詰まる。
「篤が私を大切にしてくれるほど、何も返せてない気がして。」
気付けば、涙が頬を伝っていた。
「ごめんなさい……。」
篤久は驚いたように目を見開く。
そして、すぐに優しくミサの頬へ手を添えた。
「ミサ。」
親指で涙をぬぐう。
「泣かせたいわけじゃない。」
「俺が、我慢しているのは…本当だ。」
その言葉に、ミサは顔を上げる。
「でも、それは誰かに強いられているわけじゃない。」
蒼色の瞳が真っ直ぐミサを見る。
「俺が決めたことだ。」
「朱雀の巫女としての役目が終わるまで。」
「ミサを守るって、決めている。」
その優しい声に、胸の奥が熱くなる。
「だから、自分を責めないで。」
ミサは唇を噛み、小さく頷いた。
「……うん。」
篤久は安心したように笑う。
「それでいい。」
少し間を置いてから、篤久は照れくさそうに続けた。
「だから。」
「今夜も、抱きしめて眠らせて。」
「えっ……。」
思わず顔を上げる。
その言葉があまりにも真っ直ぐで、ミサの顔は一気に赤くなった。
「篤……。」
「嫌?」
「……嫌じゃない。」
小さな返事。
その答えに、篤久は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。」
そして。
「あー、でも、やっぱり我慢できないかも。」
その言葉と共に、もう一度ミサを抱き寄せたかと思うと、顔を近づけた。
今度の口づけは、先ほどより少しだけ長かった。
離れたくないという気持ちが、言葉より先に伝わってくる。
それでも、篤久の腕は決して強引ではない。
ミサが嫌なら、すぐに離せる距離。
だからこそ、ミサは安心してその温もりを受け止めた。
やがて唇が離れる。
「……篤。」
小さく呼ぶと、篤久は優しく笑った。
「ん?」
「恥ずかしい。」
正直な言葉に、篤久は少し驚いたあと、ふっと笑う。
「知ってる。」
「分かっててしたの?」
「……少しだけ。」
「もう。」
頬を膨らませるミサを見て、篤久は楽しそうに目を細める。
けれど、次の瞬間。
その表情が少しだけ変わった。
「ミサ。」
「なに?」
「少しだけ、じっとして。」
「え?」
問い返す間もなく、篤久はそっとミサの首元へ顔を寄せた。
触れるだけの、優しい感触。
一瞬だけ、くすぐったさと驚きが混ざる。
「……っ。」
肩を震わせるミサを見て、篤久は小さく笑った。
「今は、これで我慢する。」
「え?」
ミサは首を傾げる。
けれど篤久は答えなかった。
ただ、乱れた被衣を整え、襟元を優しく直す。
「何でもない。」
「秘密。」
そう言って眼鏡を押し上げる姿は、少しだけ悪戯が成功した子どものようだった。
ミサは不思議そうに見つめる。
何をしたのか分からない。
ただ、篤久の表情がどこか嬉しそうだった。
結界が少しずつ薄れていくと、篤久は手を差し出した。
「行こう。」
ミサは、その手を見つめる。
いつもなら、少しだけ迷っていたかもしれない。
期待させてはいけない。
これ以上、篤久に未来を見せてはいけない。
朱雀の巫女としての役目が終わった時、自分がどうなるのか分からないのだから。
幸せな未来を約束するようなことは、してはいけない。
そう思っているはずなのに――。
気付けば、ミサの指先はゆっくりと伸びていた。
篤久の手に触れる。
その温もりを感じた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
「……ごめんね。」
小さな声が漏れる。
篤久は不思議そうにミサを見る。
「何が?」
ミサは首を横へ振った。
「……何でもない。」
本当は分かっている。
この温もりを手放したくないと思ってしまったこと。
篤久の隣にいる時間を、幸せだと思ってしまったこと。
それでも――。
今だけは。
今だけは、この気持ちを許してもいいのかもしれない。
そう思いながら、ミサはそっとその手を握った。
篤久は何も言わなかった。
ただ、優しく握り返した。
その手の温もりが、いつか失われるかもしれない未来を知らないまま。
二人は並んで歩き出した。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
10/31まで毎日20時に更新です。




