第三章 朱雀の宿命 第三十三話『ほどける心』
「あんた、一晩中篤久と一緒にいたのに、本当に何もなかったの?」
皇宮の私室へ入るなり、なぎの上は振り返ってミサを見た。
「まぁ……! 藤原様と一晩ご一緒だったのですか?」
後ろに控えていたなほが、思わず目を丸くする。
純粋な驚きの眼差しを向けられ、ミサは観念したように頬を赤く染めた。
「……その、気付いたら朝で……抱き締められたまま眠っていました。」
「抱き締められたまま?」
「……はい。」
なほは両手で口元を押さえ、小さく頬を染める。
一方、なぎの上は大きくため息をついた。
「シノビのあんたが、人の隣で朝まで眠るなんてね。」
その声には呆れと、それ以上に安堵が滲んでいた。
「……私も驚きました。」
ミサは恥ずかしそうに俯く。
「篤の近くにいたら……安心してしまって。」
その一言を聞き、なぎの上は少しだけ目を細めた。
――そこまで心を許しているのね。
幼い頃から誰にも気を許さず、眠る時ですら僅かな物音で目を覚ましていた少女が、今では一人の男の腕の中で眠れるほど安心している。
嬉しいような、少し寂しいような。
そんな複雑な想いが胸をよぎった。
「……あの子も、本当によく我慢したわね。」
ぽつりと漏らした言葉に、ミサは首を傾げる。
「え?」
「なんでもないわ。」
小さく笑って誤魔化すと、なぎの上はなほへ視線を向けた。
「なほ、あれを。」
「はい。」
なほは棚から一冊の本を取り出し、ミサの前へ差し出した。
表紙には何も書かれていない。
「これを持っていきなさい。」
「本……ですか?」
恐る恐る開いてみる。
そこには男女が寄り添う挿絵や、夫婦として共に歩む心得が丁寧に記されていた。
思わずミサは慌てて本を閉じる。
「な、なぎの上様……!」
その反応が可笑しくて、なぎの上は袖で口元を隠しながら笑った。
「そんなに慌てなくてもいいわ。」
「で、でも……。」
「ミサ。」
柔らかな声に、ミサは姿勢を正す。
「好きな人ができることは、悪いことじゃない。」
「……。」
「でもね、好きだからって、自分の気持ちまで後回しにしてはいけないわ。」
その言葉に、ミサは静かに耳を傾ける。
「篤久は、きっとあんたを誰より大切にする。」
「はい。」
「だからこそ覚えておきなさい。」
なぎの上は優しく微笑んだ。
「嫌なことは嫌と言うこと。」
「恥ずかしいことも、不安なことも、ちゃんと口にすること。」
「本当にあんたを想っている相手なら、その言葉をちゃんと受け止めてくれる。」
その言葉は命令ではなく、母親が娘へ贈るような優しい教えだった。
「……はい。」
ミサは小さく頷く。
その返事を見て、なぎの上は満足そうに笑みを浮かべた。
「それで十分。」
なぎの上は満足そうに微笑んだ。
「さぁ、もう行きなさい。」
「はい。ありがとうございました。」
ミサは深く一礼すると、手にしていた教本へそっと視線を落とした。
少しだけ迷ったあと、静かに棚の上へ戻す。
「……これは、まだ私には早いです。」
照れくさそうに呟くと、なほが思わず小さく笑みをこぼした。
なぎの上も優しく目を細める。
「…そうね。」
「必要になった時に、また読みなさい。」
「……はい。」
ミサはもう一度頭を下げ、静かに部屋を後にした。
廊下へ出ると、誰もいない静かな空気が広がっていた。
ふと、先ほどの言葉を思い返す。
――好きな人。
その一言だけで、自然と篤久の顔が浮かぶ。
「……もう。」
耳まで熱くなった頬を両手で押さえ、ミサは小さく首を振った。
頭の中では、さっき見せられた教本の内容と、なぎの上の言葉が何度も巡っている。
このまま篤久の顔を見たら、きっと平然としていられない。
会いたい。
でも、会ったら恥ずかしくてどうしたらいいか分からない。
そんな相反する気持ちに胸をかき乱されながら、ミサは小さく息を吐いた。
「……どうしよう。」
ぽつりと漏れた独り言が、静かな廊下へ溶けていく。
優しい声。
いつも自分を気遣ってくれる眼差し。
昨日、腕の中で眠ってしまうほど安心できた温もり。
「……もう。」
ミサは熱くなった頬を両手で押さえ、小さく首を振った。
こんなことで動揺するなんて。
自分らしくない。
そう思うのに――。
胸の奥に芽生えた気持ちは、もう誤魔化せなかった。
その時。
「何をどうするんだ?」
返事が返ってくるはずのないその呟きに、不意に聞き慣れた声が重なった。
「えっ……?」
驚いて振り返る。
御簾が静かに持ち上がり、その向こうから篤久が姿を現した。
「……篤。」
いつものように気配を消して現れた篤久を、ミサは少しだけ恨めしそうに見つめる。
その視線に気付いた篤久は、ふっと口元を緩めながら歩み寄ってきた。
「なぎの上様に何か言われたのか?」
「えっ……。」
図星だった。
けれど、あの話をそのまま口にできるはずもない。
ミサは唇を結んだまま俯いてしまう。
「……俺にも言えないこと?」
一歩、また一歩と距離を縮められる。
逃げる理由もないのに、胸だけが妙に騒がしかった。
黙ったままのミサを見つめた篤久は、小さく息をつくと、その頭へそっと手を乗せる。
優しく髪を撫で、その手は頬へと滑った。
「顔、真っ赤だけど。」
「……っ!」
触れられた瞬間、自分でも分かるほど熱が増していく。
ミサは慌てて篤久の手へ自分の手を重ね、小さく視線を逸らした。
「……どうして分かったの?」
「なんとなく。」
篤久は苦笑する。
「ミサは考え込むと、すぐ顔に出る。」
その言葉に、ミサはますます恥ずかしくなってしまう。
少しだけ間を置いてから、小さく呟いた。
「……色々、教えられて。」
「そう。」
それだけで、篤久は大体察したらしい。
余計なことは聞かなかった。
問い詰めることも、からかうこともしない。
代わりに、頬へ添えていた手を後頭部へ回すと、そっと胸へ引き寄せた。
突然包み込まれ、ミサの肩が小さく震える。
「篤……?」
「難しく考えなくていい。」
低く穏やかな声が耳元で優しく響く。
「分からないことも、不安なことも、全部俺が受け止める。」
背中へ回された腕に、少しだけ力が込められる。
「だから、一人で抱え込まないで。」
その言葉は、不思議なくらい胸へすっと落ちていった。
なぎの上に言われたことも、頭の中で渦巻いていた戸惑いも、その温もりの中で少しずつほどけていく。
ミサは篤久の胸へ額を預け、小さく息を吐いた。
「……うん。」
その返事は、かすれるほど小さかった。
けれど篤久には、それだけで十分だった。
「それでいい。」
優しく髪を撫でる手は、まるで「大丈夫だ」と伝えるように、何度もゆっくりと動いていた。
※ ※ ※
広い奥の間では、落ち着いて話もできない。
二人は自然と、篤久の部屋へ向かうことになった。
宮廷の東側――文官たちが多く詰める一角へ足を踏み入れるのは、ミサにとってほとんど初めてだった。
見慣れない建物や、行き交う文官たちの姿に、思わず辺りをきょろきょろと見回してしまう。
すれ違う文官たちは篤久の姿を認めると、静かに道を譲り、一礼する。
その視線は自然と、被衣をまとったミサへも向けられていた。
青龍の守護者が、誰かを連れて歩いている。
それだけでも珍しいのだろう。
好奇心を隠しきれない視線が、何度も二人へ注がれた。
「……見られてる。」
ミサが小声で呟くと、篤久は苦笑する。
「気にしなくていい。」
短くそう答えただけだった。
やがて二人は、宮廷の最も奥まった一角へ辿り着く。
そこにある篤久の部屋もまた、邸の離れと同じように、他の文官たちの部屋から少し距離を置いて造られていた。
襖を開けると、壁一面に並ぶ本棚が目に飛び込んでくる。
相変わらずの蔵書量に、ミサの瞳はぱっと輝いた。
けれど、並んでいるのは政治、律令、歴史、陰陽、結界術――どれも専門書ばかりだ。
「残念だけど、ここにはミサが楽しめそうな本はないかな。」
本棚へ見入るミサを微笑ましそうに眺めながら、篤久は机の前に置かれていた唯一の座布団を差し出した。
自分は、そのまま畳へ胡座をかく。
「えっ? いいよ。篤が座って。」
「俺がそれに座ったら……。」
篤久は自分の膝を軽く叩いた。
「ミサは、ここに座ることになるけど。」
「へっ!?」
冗談とも本気ともつかない顔で両腕まで広げられ、ミサは慌てて首を横へ振る。
「さ、さすがにそれは遠慮します!」
逃げるように座布団へ正座し、被衣を外す。
その様子を見ていた篤久は肩を震わせた。
「もう!からかって楽しんでるでしょ!」
「オレはいつでも本気だけど。」
さらりと言われ、蒼色の瞳と目が合う。
先ほどまでの冗談めいた表情とは違う。
真っ直ぐな眼差しに、ミサの胸が小さく跳ねた。
耐え切れず視線を逸らすと、篤久はくすりと笑い、話題を変える。
「ミサ。本成と新太は街へ向かった。」
「街に?どうして?」
篤久は、ミサが席を外している間に話し合われた内容を静かに説明した。
『満月の結界』にも綻びが生じている可能性があること。
そして、あず姫の予知は、それを示しているのかもしれないということ。
話を聞くほどに、ミサの表情は曇っていく。
「……でも、なぎの上様もあず姫様も、そんなこと一言も……。」
「邪気は妖魔みたいには感じ取れない。それに『満月の結界』は『新月の結界』より複雑だから、小さな異変ほど分かりにくい。」
「……?」
難しい説明にミサはさっきの新太のように、小さく首を傾げた。
篤久は少し考えると、机から紙と筆を取り出す。
さらさらと、紙へ縦横に線を引いた。
「織物って、縦糸と横糸でできてるだろ。」
「うん。」
「これが『新月の結界』だとする。」
紙を見せながら続ける。
「このままだと、大きなものは防げても、水や空気は通り抜ける。」
「……うん。」
今度は、その線の上を丁寧に塗り重ねていく。
白かった紙は、少しずつ黒く塗りつぶされていった。
「これが『満月の結界』。」
紙を持ち上げる。
「さらに細かく補強されているから、水も空気も簡単には通れない。」
ミサは何度も頷く。
すると篤久は、その紙の中央へ指先で小さな穴を開けた。
「そして、これが綻び。」
「あっ……。」
「実際はもっと複雑だけど、イメージはこんな感じだ。」
篤久は紙を机へ戻す。
「本来なら、満月と新月のたびに神力を送り込んで、小さな綻びは修復される。」
そこで言葉を切った。
ミサは静かに俯く。
「……朱雀の神力が、足りないから。」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
その瞬間――。
ふわりと視界が揺れる。
気付けば、篤久の腕がそっとミサを包み込んでいた。
「篤……?」
耳元で穏やかな声が響く。
「ミサが責任を感じることじゃない。」
「でも……。」
「朱雀の守護者は昔から出現数が少ない。結界の均衡は、とっくの昔から少しずつ崩れ始めていたはずなんだ。」
ミサはゆっくりと顔を上げる。
すぐ目の前に、篤久の優しい眼差しがあった。
「だから、自分を責めるな。」
責めることなく、ただ寄り添うような言葉だった。
「……うん。」
小さく頷き、そっと身体を離そうとする。
けれど、篤久の腕はまだ離れない。
「あの……篤。」
「ん?」
「もう、離してもらえると……。」
篤久は不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
逃がすつもりはないと言わんばかりに、腕へ少しだけ力が込められる。
さらに距離が縮まり、互いの体温がはっきりと伝わった。
「ミサって、いつもいい香りがするよな。」
そう呟くと、篤久は首筋へ顔を寄せ、ゆっくりと息を吸い込む。
そのくすぐったさに、ミサの身体がぴくりと震えた。
背筋を甘い電流が走ったような感覚に、思わず肩をすくめる。
「な、何言ってるの!?篤の方がよっぽどいい香りがするよ!」
慌てて言い返すと、篤久は少しだけ首を傾げた。
「俺は香は好きじゃないから持ち歩かないよ。家臣が防虫代わりに、畳んだ服へ香袋を挟んでくれてるくらい。」
「えっ?」
「だから不思議なんだ。ミサは何の香を使ってる?」
「わ、私はシノビだから、香なんて使わないよ。」
ミサはぶんぶんと首を横へ振る。
「でも……いつもなぎの上様やあず姫様と一緒にいるから、その香りが移ったのかも……。」
二人とも違う香を使っている。
だから、きっとその香りが混ざったのだろう。
そう考えたミサの言葉を聞き、篤久は優しく目を細めた。
「そうかな。」
短く呟くと、篤久は再びミサを抱き寄せる。
確かめるように、ゆっくりと息を吸い込む。
けれど、やはり違う。
なぎの上やあず姫の纏う香りとは違う。
もっと柔らかくて、もっと自然で。
不思議と心が落ち着く香りだった。
「……やっぱり違う。」
「え?」
ミサが顔を上げる。
篤久は少し困ったように笑った。
「なぎの上様やあず姫様の香りが嫌なわけじゃない。ただ……。」
一度言葉を止める。
そして、真っ直ぐミサを見る。
「ミサの香りだけは、安心する。」
その一言に、ミサの胸が大きく跳ねた。
「安心……?」
「ああ。」
篤久は小さく頷く。
「たぶん、香の匂いじゃないんだと思う。」
「……。」
「ミサ自身の匂いなんじゃないかな。」
あまりにも真っ直ぐ言われ、ミサの顔は一気に熱くなる。
「そ、そういうこと……普通に言うの、ずるい。」
小さく呟くと、篤久は不思議そうに首を傾げた。
「本当のこと言っただけだけど。」
「そういうところ……。」
ミサは頬を膨らませる。
その反応が可笑しくて、篤久は小さく笑った。
「やっぱり、ミサは分かりやすい。」
「もう……。」
少しだけ拗ねたような声。
けれど、その表情には以前のような警戒心はなかった。
篤久はそんなミサを見つめながら、ふっと表情を和らげる。
五年前。
初めて出会った時のミサは、誰にも頼ろうとしなかった。
傷付いても、苦しくても、全部一人で抱え込もうとしていた。
それが今は――。
自分の前で笑っている。
少し照れて、少し怒って、素直な感情を見せてくれている。
それだけのことが、篤久には何より嬉しかった。
「ミサ。」
「ん?」
「もう、無理して強がらなくていいから。」
突然の言葉に、ミサは目を瞬かせる。
「……。」
「俺の前では。」
穏やかな声だった。
「ちゃんと弱いところを見せてほしい。」
その言葉に、ミサの胸が締め付けられる。
弱いところ。
そんなものを見せる資格なんて、自分にはないと思っていた。
朱雀の巫女として。
シノビとして。
守る側でいなければならないと思っていた。
けれど――。
篤久の前では、なぜか頑張り続けることができなかった。
「……篤は、ずるい。」
ぽつりと呟く。
「どうして?」
「そんなこと言われたら……甘えたくなる。」
その言葉に、篤久は優しく笑った。
「それでいい。」
「ミサが頼ってくれるなら、俺は嬉しい。」
静かな部屋に、その言葉だけが響く。
ミサは返事の代わりに、そっと篤久の胸へ額を預けた。
今までなら、絶対にしなかったこと。
誰かに自分から寄り掛かるなんて、考えもしなかったこと。
それでも今は――。
この温もりから離れたくなかった。
篤久は何も言わず、ただ優しくミサの髪を撫でる。
その手の温かさに、ミサはゆっくりと目を閉じた。
「……篤。」
「ん?」
「ありがとう。」
小さな声。
けれど、その一言には今まで言えなかった想いが込められていた。
篤久は少し驚いたように目を細める。
そして、優しく答えた。
「こちらこそ。」
「ミサが、俺の隣にいてくれること。」
その言葉に、ミサの胸がまた熱くなる。
二人の間に流れる時間は、以前とは違っていた。
守護者だからでもない。
使命があるからでもない。
ただ、一人の人間として。
互いを大切に想う時間だった。
やがて篤久は、ゆっくりと身体を離す。
「……そろそろ行こうか。」
「うん。」
そう言って差し出された手。
ミサは一瞬迷う。
けれど――。
今度は、迷いながらもその手を取った。
その小さな変化に、篤久は嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、宮廷を出たら。」
「……手、繋ぐんだよね。」
ミサが先に言うと、篤久は少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「覚えてたんだ。」
「忘れるわけないでしょ。」
少しだけ頬を膨らませるミサ。
その姿に、篤久はまた笑う。
「じゃあ、約束。」
「うん。」
二人は並んで部屋を後にした。
まだ人の目が多い宮廷の中。
けれど、さっきまで感じていた視線は、もう少しだけ気にならなくなっていた。
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