第三章 朱雀の宿命 第三十二話『視えぬ凶兆』
「揃ったわね。」
奥の間へ足を踏み入れると、すでに本成と新太が正座して待っていた。
ミサと篤久も並んで腰を下ろす。
本成は二人の様子に何か言おうと口を開きかけたが、御簾の向こうに人の気配を感じ、その言葉を飲み込んだ。
部屋には、いつもとは違う重苦しい空気が漂っている。
やがて、なぎの上が四人を静かに見渡し、小さく息をついた。
「……何かあったのですか?」
その雰囲気を察したミサが、おそるおそる口を開く。
「……あずが予知したわ。」
その一言だけで、場の空気がさらに張り詰めた。
「最近は下級妖魔すら姿を見せてなかったのにな。」
新太が腕を組みながら肩をすくめる。
「結界を張る前に、一暴れでもする気か?」
軽口のつもりだった。
しかし、誰一人笑わない。
なぎの上の表情が、それほどまでに深刻だったからだ。
「……あず姫様は、どのような予知をされたのですか?」
篤久が静かに問い掛ける。
「それが……分からないのよ。」
「……分からない?」
思わず聞き返した篤久に、本成もミサも怪訝そうな表情を浮かべた。
予知が"分からない"とは、一体どういうことなのか。
なぎの上は、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「今まではね、いつ、どこで、どの程度の妖魔が現れるのか、大体は視えていたそうなの。」
「でも今回は違う。場所も時期も、何一つ掴めない。ただ――」
そこで一度言葉を切る。
四人は固唾を呑んだ。
「まるで結界が失われたかのように、上級妖魔が一斉に押し寄せてくる光景だけが、一瞬だけ視えたそうよ。」
「!!」
想像を遥かに超える言葉に、四人は息を呑んだ。
「ただ、その映像は酷く不鮮明で、本当に一瞬だったの。」
なぎの上は静かに視線を伏せる。
「もう一度視えないかと、あずは今も奥で力を使っているわ。」
重苦しい沈黙が部屋を包む。
その時だった。
御簾の向こうに、新たな気配が現れる。
「待たせたわね。」
「あず。」
なぎの上がすぐに声を掛ける。
「どうだった?」
短い沈黙のあと、返ってきた答えは重かった。
「……何も視えなかったわ。」
その一言で、部屋の空気はさらに沈んだ。
予知が得られなければ、先手を打つこともできない。
静寂を破ったのは篤久だった。
「……いつもとは違う視え方だった、と仰いましたよね。」
軽く顎に手を添え、考え込むように目を閉じる。
こうした行き詰まった状況で打開策を見つけるのは、いつも篤久だった。
「映像が不鮮明だったということは、近い未来ではない可能性があります。」
ゆっくりと顔を上げる。
「例えば、数十年先の出来事。」
「なるほど。」
本成が静かに頷く。
「明日結界を張れば、そう簡単には破られない。遠い未来だから映像が曖昧だった、と考えれば筋は通る。」
「確かに、その考えなら納得できるわね。」
なぎの上も小さく頷く。
しかし――。
「……違うの。」
御簾の向こうから、あず姫が静かに否定した。
「そんな感じじゃなかった。」
全員の視線が御簾へ向く。
「あの予知は……。」
少し言葉を探すように間を置き、
「誰かに未来を視るのを邪魔されているような……そんな感覚だったの。」
その一言に、部屋の空気が凍り付いた。
未来視を妨害する存在。
そんなものが本当にいるのだとしたら――。
誰一人、軽く受け止められる話ではなかった。
長い沈黙のあと、なぎの上が静かに口を開く。
「……予知を無視することはできないわ。」
四人は黙って頷く。
これまでも守護者は、起こるかどうか分からない未来に備え続けてきた。
今回だけ例外にする理由はない。
「とりあえず、今夜は予定どおり妖魔退治へ向かってちょうだい。」
「「「「……畏まりました。」」」」
四人の返事が、静かな部屋へ重なって響いた。
その瞬間、ミサと篤久の束の間の暇も終わりを告げる。
「よしっ! じゃあ作戦会議といこうか!」
重苦しい空気を振り払うように、新太が勢いよく立ち上がり、腕まくりをする。白虎の守護紋が半分ほど覗いた。
「……いや、それは夕刻にしてくれ。」
考え込むように呟いた篤久の言葉に、御簾の向こうからあず姫も静かに頷いた。
「そうね。私も、それまで予知ができないか、もう少し粘ってみるわ。」
そう言い残すと、あず姫は再び奥へと姿を消した。
それを見送ったなぎの上も、話は終わりだと言わんばかりに扇を閉じ、静かに立ち上がる。
去り際、不意にミサへ視線を向けた。
「……ミサ、話があるわ。奥へ来なさい。」
「はい。」
ミサは篤久の隣から立ち上がると、一度も振り返ることなく奥へ向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、篤久は胸の奥に小さな寂しさを覚えた。
つい先ほどまで、ずっと隣にいたからだろう。
しかし、その感情をすぐ胸の奥へしまい込むと、本成へ視線を向けた。
「本成。さっき、あず姫様が言っていた――」
「"邪魔されている"って話?」
言葉の続きを察した本成は、小さく眉を寄せる。
「僕も、それが引っ掛かってた。」
一方、話についていけていない新太は、二人を交互に見比べた。
「なんだよ。何かあるのか?」
篤久は小さく息を吐き、本成が代わりに口を開く。
「思っている以上に、結界の状況が深刻かもしれないってことだよ。」
「ん? だから明日、四人で結界を張るんだろ?」
「そんな単純な話じゃない。」
篤久が呆れたように答えると、新太は少しだけ不機嫌そうに眉をひそめた。
その空気を和らげるように、本成が穏やかに続ける。
「新太。それぞれの結界が、何のために張られているかは分かるよね?」
「当たり前だろ。この世界を護る『満月の結界』と、妖魔を封じる『新月の結界』だ。」
「そう。」
本成は静かに頷く。
「じゃあ、どうして『新月の結界』だけじゃなく、『満月の結界』まで必要なのかは知ってる?」
「……いや。」
新太は素直に首を振った。
守護者として覚醒するまで平民として暮らしていた新太にとって、四神や結界の歴史は二人ほど詳しくない。
それは当然のことだった。
本成は静かに話し始める。
「妖魔は、本来なら昼も夜も関係なく、この世界に存在できたんだ。」
その昔――。
世界は妖魔と邪気に覆われていた。
空は黒い霧に閉ざされ、太陽は姿を見せない。
人々は邪気に心を蝕まれ、疫病が蔓延し、生きる気力さえ失っていた。
初代守護者たちは『新月の結界』によって大半の妖魔を封印した。
しかし、それだけでは邪気は消えなかった。
そこで初代守護者は、世界に満ちていた邪気そのものを『満月の結界』によってヘイアン京の地下深くへ封印したのだ。
邪気を失った妖魔は、人に取り憑かない限り丑三つ時を越えて存在できなくなり、残った妖魔も守護者によって討ち滅ぼされた。
それが今の平安の世の始まりだった。
「つまり――。」
本成の説明を引き継ぐように、篤久が口を開く。
「『満月の結界』は、『新月の結界』を土台にして張られている。」
「『新月の結界』に神力を複雑に絡ませて完成するのが、『満月の結界』なんだ。」
新太は腕を組んだまま首を傾げた。
その様子に、篤久は額へ手を当て、小さくため息をつく。
そこに本成が思い付いたように説明する。
「……卵かけご飯で例えると、『新月の結界』がご飯、『満月の結界』が卵だとする。」
「ご飯があるから卵かけご飯になる。」
「ご飯がなければ、ただの生卵でしょ。」
「なるほど!」
新太が勢いよく頷く。
「生卵だけでも美味いけどな!」
「……なんで、それで理解できるんだ。」
篤久は呆れたように肩を落とした。
本成は思わず吹き出しそうになりながら、話を戻す。
「つまり、もし『新月の結界』に綻びができれば、『満月の結界』にも影響が及ぶ可能性があるってこと。」
その言葉に、新太の表情もようやく引き締まる。
「もし『満月の結界』まで綻び始めているなら、最初に影響を受けるのは――夢だ。」
「夢?」
「ああ。」
今度は篤久が説明を引き継ぐ。
「邪気に触れれば、夢見が悪くなる。」
「さっき、あず姫様が『視るのを邪魔されているようだった』と言っていただろ。」
「……ああ。」
「まだ推測に過ぎない。でも、邪気の影響を受けている可能性はある。」
本成も静かに頷く。
「邪気は微弱だと、下級妖魔の妖力みたいには感知できないからね。」
「しかも厄介なのは、悪夢くらいじゃ誰も守護者を頼らないってことだ。」
「だから、異変に気付いた時には手遅れ……なんてこともあり得る。」
三人の間に重い沈黙が落ちる。
しかし、その空気を破ったのは新太だった。
「だったら次の満月に、また四人で結界を張ればいいじゃねぇか!」
勢いよく言い切る新太に、篤久と本成は顔を見合わせた。
そうだった。
まだ新太には、朱雀の死期を話していない。
本成は静かに口を開く。
「新太……実は、そのことなんだけど。」
そして、朱雀の巫女の宿命、朱雀の寿命が尽きようとしていること、そして次の満月にはミサが神力を使えなくなることを、ゆっくりと説明した。
話を聞き終えた新太の顔から、笑みが消える。
「……じゃあ、どうするんだ。」
「もし本当に『満月の結界』まで綻んでたら。」
篤久は腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……まだ予測の段階だけど。」
静かに口を開く。
「『新月の結界』さえ張り直せば、『満月の結界』も立て直せる可能性はある。」
「どういうことだ?」
新太が首を傾げる。
「『満月の結界』は、『新月の結界』を基盤にしている。」
「だから土台である『新月の結界』を正常な状態へ戻せば、『満月の結界』も引き戻されるかもしれない。」
新太は難しい顔のまま固まった。
それを見た本成が苦笑する。
「ほら、さっきの卵かけご飯。」
「卵が多すぎても、ご飯を足せばちょうど良くなるでしょ?」
「ああ! そういうことか!」
「……やっぱり、それで分かるのか。」
篤久は呆れながら天井を仰いだ。
その時だった。
「よし!」
勢いよく立ち上がった新太が腕をまくる。
「俺、ひとっ走り街を見てくる!」
止める間もなく、そのまま部屋を飛び出していった。
勢いだけを残して去っていく新太を見送り、二人は思わず苦笑する。
「相変わらず行動が早いね。」
本成が小さく笑いながら立ち上がった。
「僕は祖父のところへ行ってくるよ。」
「何か手掛かりがあるかもしれない。」
そう言って篤久へ視線を向ける。
「篤久は?」
「……ミサを待つ。」
短く答えたあと、続けた。
「そのあと街へ向かう。」
「ははっ。」
予想どおりの返事だった。
本成は笑みを浮かべながら軽く手を上げる。
「じゃあ、また夕刻に。」
背を向け歩き出した、その時――。
「本成。」
呼び止められ、本成は足を止めて振り返る。
「どうした?」
篤久は真っ直ぐ本成を見つめていた。
「……頼みがある。」
その真剣な眼差しに、本成からも笑みが消える。
「珍しいね。」
一歩近付き、静かに耳を傾けた。
篤久は誰にも聞こえないほど小さな声で、本成へ何かを告げる。
話を聞き終えた本成は、一瞬だけ目を丸くしたあと、何も問わず静かに頷いた。
「分かった。」
ただその一言だけを返し、本成は部屋を後にする。
一人残された篤久も、自室へ戻るため静かに立ち上がった。
部屋を出ると、空高く昇った太陽は、ちょうど天頂を過ぎようとしていた。
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