第三章 朱雀の宿命 第三十話『夕暮れのひととき』
――ど、どうしてこんなことに……
篤久は屋敷へ入るなり、出迎えた家臣へ視線を向けた。
「用があったら呼ぶから。それまでは誰も来なくていい。」
「かしこまりました。」
恭しく一礼した家臣が下がると、篤久は振り返ってミサへ微笑む。
「こっち。」
「あ、う、うん……。」
言われるまま頭を下げたミサは、おずおずと篤久の後ろをついていく。
まさか屋敷へ連れて来られるとは思ってもいなかった。
夜中に屋根へ忍び込んだことは何度もある。
けれど、正門から堂々と入るのは初めてだった。
それだけで妙に緊張してしまう。
出迎えてくれたのは、年配の男女が二人だけ。
広い屋敷のわりに、人の気配はほとんど感じられなかった。
「あ、篤。」
「ん?」
「ここって……。」
「俺の屋敷だけど?」
「いや、そうじゃなくて……。」
ミサが言い淀むと、篤久はくすりと笑った。
「屋敷の広さの割に、人が少ないって?」
図星だった。
ミサは小さく頷く。
「今いるのは五、六人くらいかな。」
「えっ、そんなに少ないの?」
「前はもっといたけど。」
廊下を歩きながら、篤久は穏やかに続ける。
「妖魔が出始めてから、ほとんど帰らなくなって。必要ない者たちは本邸へ戻ってもらった。」
少し前を歩きながら肩を竦める。
「さっきの二人だけは別。赤ん坊の頃から世話してくれてる夫婦なんだ。」
少し照れくさそうに笑った。
「親代わりみたいなものかな。」
その言葉に、ミサは思わず篤久の横顔を見つめる。
篤久は十一歳の頃には、すでにこの屋敷で暮らしていた。
それほど幼い頃から別邸で暮らす貴族の子など聞いたことがない。しかも、関白太政大臣の嫡男ともなればなおさらだった。
「シノビでも、俺の情報は入ってこなかった?」
不思議そうな表情を見せるミサへ、篤久が笑いながら尋ねる。
ミサは頭へ巻いていた布を外し、小さく頷いた。
「だって……大臣様の息子が一人で別邸に住んでるなんて、思わないもん。」
「まあ、普通はそうだよな。」
篤久は苦笑する。
やがて屋敷の一番奥へ辿り着いた。
母屋から渡り廊下で繋がる離れ。
そこが篤久の私室だった。
遣戸を開けながら、ふと思い出したように振り返る。
「そういえば。」
「うん?」
「俺が大臣の息子だって知ってたんだな。」
「あっ……う、うん。」
今日知りました、とは言えるはずもなく、ミサはぎこちなく頷いた。
「前から、大臣様の息子と御殿医様の息子が守護者の資格を持つって聞いてたから……。」
「ああ。」
篤久は納得したように笑う。
「でも俺は跡取りを放棄してる。」
さらりと言ってのけた。
「だから、あんまり身分なんて気にしなくていい。」
その笑顔の奥に、少しだけ本音が滲む。
「貴族って肩書きは、正直鬱陶しいくらいだから。」
そんな理由で距離を置かれたら、たまったものじゃない。
そんな本音は、胸の内だけにしまい込む。
「さ、入って。」
篤久に促され、ミサは少し緊張しながら部屋へ足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「わぁ……。」
思わず声が漏れる。
壁一面を埋め尽くす本棚。
ぎっしりと並んだ本の数々に、ミサの瞳がぱっと輝いた。
その反応を見て、篤久は自然と頬を緩める。
やっぱり、こうなると思った。
「着替えてくる。」
そう言って奥の部屋を指差す。
「好きに見てて。」
「あっ、うん。」
返事だけをすると、ミサはもう本棚へ夢中になっていた。
そんな姿に小さく笑い、篤久は隣の部屋へと入っていった。
――あっ。
ふと、篤久から借りたまま、まだ読み終えていない本のことを思い出す。
手を伸ばしかけた本を、そっと元の場所へ戻した。
改めて本棚を眺める。
歴史書や医学書、術式に関する書物が整然と並ぶ中、その一角だけ場違いなほど可愛らしい絵本が数冊並んでいた。
「あ……。」
思わず一冊を抜き取る。
見覚えがある。
五年前、自分が篤久から借りて読んでいた絵本だった。
懐かしくなって、そっとページをめくる。
子ども向けの挿絵は、今見ても色鮮やかだった。
「まだ置いてあるんだ……。」
小さく呟いた、その時だった。
「懐かしい?」
すぐ後ろから声が降ってきた。
「ひゃっ!?」
肩が大きく跳ねる。
驚いて振り向こうとした瞬間、篤久の手が伸びる。
ミサの手から本をそっと受け取り、丁寧に本棚へ戻した。
少しだけ飛び出していた背表紙まで、きちんと揃える。
右手袋を外した手の甲には、青龍の守護紋が静かに浮かんでいた。
「け、気配消すなんて反則!」
思わず抗議すると、篤久は肩を揺らして笑う。
「シノビなのに気付かない方が問題じゃない?」
「うっ……。」
痛いところを突かれた。
何も言い返せず俯く。
その隙に、篤久は一歩だけ距離を詰めた。
本を戻した腕は、そのままミサのすぐ横で止まる。
振り返れば、すぐそこに篤久がいた。
近い。
近すぎる。
鼓動が一気に速くなる。
逃げようにも、本棚が背中にあって動けない。
そんなミサを見つめながら、篤久は静かに微笑んだ。
「ミサ。」
低く優しい声が耳元で響く。
「……さっきの話の続きをしようか。」
そう言うと、篤久はゆっくりと身体を離した。
「こっち。」
穏やかに微笑み、そのまま縁側へ歩いていく。
手にしていた盆を静かに置き、腰を下ろすと、夕暮れに染まり始めた空を見上げた。
西の空は茜色に染まり、流れる雲までも淡く朱に染め上げている。
どこか遠くで鳥が鳴き、庭木を渡る風が葉を優しく揺らした。
「おいで。」
篤久が隣を軽く叩く。
ミサは少しためらったあと、小さく頷き、その隣へ腰を下ろした。
肩が触れそうで触れない、ほんのわずかな距離。
その距離さえ、今の二人にはどこかくすぐったかった。
しばらくは、誰も口を開かなかった。
風の音だけが、静かな時間をゆっくりと運んでいく。
やがて、その静寂を破ったのはミサだった。
「……朱雀のこと、何を聞いたの?」
篤久は盆に置かれていた湯呑みを一つ手に取り、ミサへ差し出す。
「ありがとう……。」
ミサが両手で受け取るのを見届けると、篤久も自分の湯呑みを手に取り、一口だけ白湯を含んだ。
喉を潤してから、静かに口を開く。
「なぎの上様とあず姫様から聞いた。」
「ミサが朱雀の巫女だということ。」
「そして、朱雀の神力を受け継いでいること。」
ミサは小さく頷いた。
「……うん。」
「それから。」
篤久は少しだけ視線を落とす。
「朱雀に残された時間が長くないことも。」
その言葉に、ミサの指先がわずかに震えた。
自分と朱雀の命が繋がっていることまでは、まだ知られていない。
それだけが、唯一の救いだった。
けれど、その救いが胸を締めつける。
いつか必ず知られる日が来る。
その時、この人はどんな顔をするのだろう。
そう思うだけで苦しかった。
湯呑みを包む手に、自然と力が入る。
その小さな変化を、篤久は見逃さなかった。
けれど問い詰めることはしない。
話せない理由があるのなら、無理に聞くつもりはなかった。
代わりに、自分が聞いたことだけを静かに話す。
「巫女の役目についても聞いた。」
「朱雀に欲を捧げ、その代償として大切な記憶を失うことがある、と。」
「……うん。」
消え入りそうな返事だった。
篤久は真っ直ぐミサを見つめる。
「辛かっただろ。」
その一言だけで、ミサの胸はいっぱいになった。
慰めでも励ましでもない。
ただ、自分の苦しさを分かろうとしてくれる。
その優しさが、何より嬉しかった。
「……大丈夫。」
そう答えた声は、自分でも驚くほど弱かった。
篤久は困ったように微笑む。
「大丈夫って言う時のミサは、大体大丈夫じゃない。」
思わずミサは顔を上げた。
篤久は優しく笑っていた。
責めるでもなく、無理に聞き出そうとするでもない。
ただ、隣にいてくれる。
その温もりが、涙を誘いそうになる。
「ミサ。」
名前を呼ばれ、ゆっくりと視線を合わせる。
夕日に照らされた篤久の瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
「俺は、ミサに無理をしてほしくない。」
「巫女だからとか、使命だからとか、そういう理由で一人きりにならないでくれ。」
「俺も守護者だ。」
「だから、ミサの荷も一緒に背負いたい。」
その言葉に、ミサは唇をぎゅっと噛み締めた。
――そんなことを言われたら。
――もっと好きになってしまう。
胸の奥へ押し込めてきた想いが、今にも溢れそうになる。
けれど、それを伝えることだけはできなかった。
自分には、その資格がないと思っていたから。
沈黙が二人を包む。
庭を渡る風が、さらりと木々を揺らした。
篤久は静かに息をつく。
「もう一つだけ。」
少し照れくさそうに笑いながら続けた。
「これは守護者としてじゃない。」
「……篤?」
篤久はそっと手を伸ばす。
ミサの膝の上に置かれた手へ、自分の手を重ねた。
驚いて肩を震わせるミサ。
それでも篤久は、その手を強く握ることはしなかった。
逃げ道を残すように、優しく包み込む。
「好きだよ。」
その一言だけだった。
二度目の告白も、飾る言葉は何もない。
けれど、その一言には、五年間積み重ねてきた想いのすべてが込められていた。
ミサの瞳が大きく揺れる。
言葉が出ない。
やっぱり嬉しい。
やっぱり苦しい。
幸せ。
悲しい。
いくつもの感情が胸の中で絡み合い、何も言えなくなる。
ようやく絞り出せたのは、かすれた声だった。
「……ごめん、篤。」
篤久は静かに首を横へ振る。
「謝らなくていい。」
「返事を急がせるつもりはない。」
「ただ、知っていてほしかった。」
「俺は、ミサが好きだ。」
その言葉に、ミサの目尻へ小さな涙が滲む。
その涙を見た篤久は、慌てて拭おうとはしなかった。
ただ、その手を包む温もりだけは離さない。
「泣かせるつもりじゃなかったんだけどな。」
困ったように笑うと、ミサも涙を浮かべたまま、小さく笑った。
「……篤は、ずるい。」
「そうかな。」
「そんなこと言われたら……困るよ。」
震える声に、篤久は静かに頷く。
「困らせたいわけじゃない。」
「ただ、伝えないまま後悔したくなかった。」
夕風が二人の間を吹き抜ける。
庭木がさらさらと葉を揺らし、どこからか花の香りが運ばれてきた。
「返事は待つよ。」
篤久は穏やかな笑みを浮かべる。
「明日でも、一年後でも。」
「ミサが話したいと思えた時でいい。」
その優しさが、胸を締めつける。
――そんな未来は、きっと来ない。
心の中だけで呟き、ミサは唇を噛んだ。
「……ありがとう。」
それしか言えなかった。
篤久はそれ以上何も求めず、小さく頷いた。
しばらく、穏やかな沈黙が続いた。
茜色だった空は少しずつ群青へと色を変え、庭先には涼しい風が吹き抜ける。
「ところで。」
ふと、篤久が思い出したように口を開いた。
「通信鏡。」
「あっ。」
ミサも同時に声を上げる。
「忘れてた。」
思わず顔を見合わせ、二人で小さく笑った。
さっきまでの重たい空気が、少しだけ和らぐ。
篤久は懐から通信鏡を取り出し、ミサへ差し出した。
「魔力は流してある。」
「これで、いつでも話せる。」
「……うん。」
ミサは両手で大切そうに受け取る。
しばらく鏡を見つめた。
生まれてから今まで、通信鏡で連絡を取れる相手は、なぎの上とあず姫だけだった。
そこへ、もう一人。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ミサ?」
「あっ、ごめん。」
我に返ったミサは、自分の懐から篤久の通信鏡を取り出した。
掌へそっと乗せ、静かに目を閉じる。
淡い朱色の魔力が鏡へ流れ込み、小さな炎がふわりと灯る。
揺らめいた炎は一瞬で鏡の中へ溶け込み、静かに消えた。
「……はい。」
篤久は差し出された通信鏡を受け取り、静かに見つめる。
「火の魔力って、やっぱり綺麗だな。」
その素直な言葉に、ミサは少し照れくさそうに笑った。
「見慣れてないだけだよ。」
「そうかもしれない。」
篤久も穏やかに笑う。
通信鏡を懐へしまうと、もう一度ミサへ視線を向けた。
「でも。」
「……ん?」
「無理だけはしないで。」
静かな声だった。
「約束。」
ミサは少し驚いたように篤久を見つめ、それから小さく微笑む。
「……約束。」
その返事を聞き、篤久もようやく安心したように微笑んだ。
いつしか茜色だった空は群青へと移り変わり、庭先では魔光石を灯した提灯が、一つ、また一つと柔らかな明かりをともしていく。
夕暮れは静かに夜へと溶け始めていた。
縁側へ流れ込む夜風は昼間の熱をさらい、心地よい涼しさを運んでいた。
二人はしばらく並んで夜庭を眺めていた。
言葉はなくとも、不思議と沈黙は苦にならない。
むしろ、この静かな時間が愛おしかった。
その時、不意に風が少し強く吹き抜ける。
縁側の端に置かれていた湯呑みが、かたり、と小さく揺れた。
「あっ。」
同時に二人が身を乗り出す。
転がりかけた湯呑みへ、ほぼ同時に手を伸ばした。
指先が、そっと触れ合う。
「ご、ごめん。」
反射的に手を引こうとしたミサだったが、その手を篤久は優しく包み込んだ。
驚いて顔を上げるミサ。
篤久は困ったように笑う。
「そんなに慌てなくても、取ったりしない。」
その穏やかな笑顔に、ミサは照れくさそうに視線を伏せた。
「……最近の篤、少し意地悪。」
「そう見える?」
「うん。」
頬を少しだけ膨らませる。
その表情があまりにも懐かしくて、篤久は思わず笑みを零した。
「その顔、久しぶりに見た。」
「もう……。」
恥ずかしさをごまかすように顔を背けるミサ。
その横顔を見つめながら、篤久は心の中で静かに願う。
――この時間が、少しでも長く続いてくれますように。
やがて、篤久はゆっくりと立ち上がった。
「ミサ、明日も暇を貰ったんだろ?」
「…もう少しここにいてくれないか。」
突然の言葉に、ミサは驚いたように瞬きを繰り返す。
「……え?」
「もちろん、無理にとは言わない。」
篤久は苦笑を浮かべた。
「明後日は新月だ。」
その一言だけで、穏やかだった空気が少しだけ引き締まる。
ミサも静かに頷いた。
「……うん。」
「だからこそ、今のうちに話せることは話しておきたい。」
「朱雀のことも。」
「結界のことも。」
「そして――」
篤久は真っ直ぐミサを見つめる。
「ミサが、一人で全部背負わなくて済む方法を、一緒に考えたい。」
胸の奥が熱くなる。
こんなにも自分を気に掛けてくれる人がいる。
それだけで、涙が込み上げそうになる。
けれど、その想いを知られてはいけない。
知られれば、この人はきっと自分以上に苦しむ。
だからミサは、小さく微笑むことしかできなかった。
その笑顔を見た篤久は、それ以上踏み込むことはせず、ふっと表情を和らげる。
「……そういえば。」
空気を変えるように笑う。
「炊き出しで動き回ってたけど、ちゃんと食べたか?」
「あ……。」
そう言われて初めて思い出す。
昼からほとんど何も口にしていなかったことを。
その途端、ぐぅ……と小さくお腹が鳴った。
「あっ……。」
恥ずかしさに顔を真っ赤にするミサ。
篤久は堪えきれず吹き出した。
「安心した。」
「えっ?」
「ちゃんとお腹は空くらしい。」
「もう、篤!」
照れながら軽く睨むミサに、篤久は楽しそうに笑う。
「夕餉を頼んでくる。」
「今日は難しいことは少し休みにして。」
「まずは、温かいものを食べよう。」
そう言い残すと、篤久は静かに部屋の中へ姿を消した。
残されたミサは、夜風に髪を揺らしながら、小さく空を見上げる。
星がひとつ、またひとつと夜空に輝き始めていた。
――こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
胸に浮かんだ願いを、誰にも聞かれないよう、そっと心の奥へしまい込んだ。
夕餉を共にし、たわいもない話を交わす。
そんな何気ない時間さえ、ミサにはどこか夢のように感じられた。
食事を終えると、篤久は湯浴みを勧めた。
「先に入ってきなよ。」
「でも……屋敷の主より先に頂くわけにはいかないから!」
ミサは頑なに首を横へ振る。
困ったように笑った篤久は、少しだけ考える素振りを見せる。
「じゃあ、一緒に入る?」
「む、無理っ!」
ミサは真っ赤になって首をぶんぶんと振った。
その反応がおかしくて、篤久は肩を揺らして笑う。
「……冗談。」
「もう、篤!」
頬を膨らませるミサを見て、篤久は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、先に入ってくる。」
「うん。」
それから程なくして、今度はミサが湯浴みを済ませる。
寝間着にと与えられた服は、昔篤久が使っていたものだった。
恐る恐る部屋へ戻ると、篤久は机に向かい、眼鏡を掛けて筆を走らせていた。
机の上には、書物と紙が何枚も広げられている。
邪魔をしないよう静かに部屋へ入ったミサは、寝所へ目を向けた。
敷かれていた布団は、一組だけだった。
「……あれ?」
思わず小さく呟く。
すると篤久が顔を上げた。
昔、自分が使っていた寝間着を着たミサを見て、篤久の胸に得体の知れない独占欲が満ちていく。
「…あぁ、俺はほとんど寝ないから。」
「ミサが使って。」
青龍の守護者は、睡眠をほとんど必要としない。
そんな話を聞いたことがあった。
シノビであるミサも任務が続けば数日眠らないことは珍しくない。
それでも、眠れる時には眠っておきたいと思うのが本音だった。
「本当にいいの?」
「うん。」
篤久は頷く。
本当は家臣が客間に布団を用意していた。けれど、篤久はそのことをミサに伝えなかった。
「俺はもう少し調べものをしてるから。」
机に広げられた書物へ視線を向ける。
朱雀。
巫女。
結界。
今夜も、その答えを探すつもりなのだろう。
「……無理しないでね。」
「それはミサも。」
ふっと笑い合う。
その穏やかな空気に、昼間まで張り詰めていた緊張が、少しずつほどけていった。
「その前に。」
篤久が眼鏡を外し、軽く手招きをする。
「髪、乾かそう。」
「え?」
「まだ濡れてる。」
言われて初めて、自分の髪から雫が落ちていることに気付いた。
「ここ。」
篤久が自分の前を指差す。
ミサは少しだけためらいながら、その前へ腰を下ろした。
すると篤久は、そっと手をかざした。
途端に、身体の周囲がほんのりと温かさに包まれる。
「……魔力?」
「うん。湯冷めしないように、自分の周りを温めてるの。これくらいなら、今でも問題ない。」
ミサは穏やかに頷いた。
なるほど、と篤久は一人納得すると、ミサの濡れた髪へそっと手を添える。
指先が優しく髪をすくうたび、水滴は吸い上げられるように消え、しっとりとした艶だけを残して乾いていった。
「すごい……。」
思わず自分の髪へ触れる。
「こんなことまでできるんだ。」
「水属性ならでは、かな。」
「でも、誰でもできるわけじゃないよね?」
「まあ、それなりに慣れは必要だけど。」
何でもないことのように答える篤久に、ミサは改めて感心したように目を丸くする。
風属性であるなほが、なぎの上の髪を風で乾かしているのは見たことある。
じゃあ地属性の――
「本成なら、どうするんだろう。」
その一言に、篤久は苦笑すると、そっとミサの頬を指先で軽くつまんだ。
「ひゃっ。」
「俺の前で、他の男の話。」
「えぇ?」
「……ちょっと妬ける。」
照れ隠しのように視線を逸らす篤久を見て、ミサは思わず吹き出した。
「笑うな。」
「だって篤、分かりやすすぎる。」
「……否定できない。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
そんな何気ないやり取りさえ、心地よかった。
やがて篤久は机へ戻ると、眼鏡を掛け直し、筆を手に取った。
紙へ文字を綴る音だけが、静かな部屋に心地よく響いていく。
「篤。」
「ん?」
「……なんでもない。」
呼んでみたかっただけ。
そんな言葉は胸の奥へしまい込み、ミサはそっと篤久の背中へ身体を預けた。
「ミサ?」
「……篤の背中、温かい。」
篤久は筆を止め、小さく笑う。
「……俺は、ミサがいるから温かい。」
照れくさそうなその声に、ミサの頬がふわりと熱を帯びた。
返事の代わりに、小さく微笑む。
安心する。
隣にいるだけで、こんなにも心が落ち着くなんて。
昼間まで張り詰めていた気持ちが、少しずつほどけていく。
筆が紙を滑る音は、まるで子守歌のようだった。
重くなった瞼が、ゆっくりと閉じていく。
身体から力が抜け、穏やかな眠りへと誘われていった。
やがて、篤久の背中にもたれていたミサの身体から、ふっと力が抜けた。
背中に預けられていた温もりがゆっくりと傾き、そのままずり落ちていく。
「……ミサ?」
篤久は慌てて筆を置き、静かに振り返った。
そこには、身体を丸めるように横たわり、穏やかな寝息を立てるミサの姿があった。
「……寝たのか。」
思わず頬が緩む。
あれほど緊張していたはずなのに、自分のそばでは何の警戒もなく眠ってしまう。
「……反則だろ、それ。」
小さく漏れた呟きには、困ったような笑みが滲んでいた。
無防備な寝顔を見つめているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんなにも誰かを愛おしいと思ったことは、一度もなかった。
「本当に、人を信用しすぎなんだよ。」
そう呟きながらも、その声はどこまでも優しい。
起こさないよう静かに抱き上げるが、ミサは目を覚ますことなく、小さく身じろぎしただけだった。
篤久は寝所へ運び、布団へそっと寝かせる。
掛け布団を肩まで優しく掛けると、乱れた前髪を指先でそっと整える。
あどけない寝顔を見つめているうちに、胸の奥から愛おしさが込み上げてくる。
「……困ったな。」
小さく苦笑しながら、その想いを抑えきれず、そっと顔を近づけた。
その瞬間。
耳元で揺れた青龍玉が、ミサの頬へ静かに触れる。
かすかに、蒼い光が揺らめいた。
「……?」
篤久は思わず動きを止める。
守護玉から、ごく僅かな神力が流れ込んだような感覚。
だが、それは一瞬で消え去り、青龍玉も何事もなかったように静まり返る。
「気のせい……か。」
そう呟くと、篤久はそっとミサから顔を離し、優しく微笑んだ。
明日になれば、また避けられない現実が待っている。
だからこそ、今夜だけは。
何も考えず、穏やかに眠っていてほしかった。
「……ゆっくり休め。」
そう呟き、静かに立ち上がろうとした、その時だった。
くいっ――。
袖が小さく引かれる。
「……嘘だろ。」
思わず苦笑が漏れた。
眠っているはずのミサが、子どものように篤久の袖をぎゅっと握り締めたまま離そうとしない。
そっと指をほどこうとしても、そのたびに、まるで引き止めるように握る力が強くなる。
「そんなに安心しきって……。」
困ったように笑いながら、もう一度ミサの寝顔へ目を向けた。
守護者でもない。
藤原家の嫡男でもない。
今はただ、一人の男として、心をかき乱されていた。
「起きてるなら反則だぞ。」
もちろん返事はない。
聞こえてくるのは、規則正しい寝息だけ。
篤久は観念したように息を吐くと、布団の傍らへ静かに腰を下ろした。
「……今日は、捗りそうにないな。」
机の上には書きかけの紙と筆。
まだ調べたいことも、まとめなければならないことも山ほど残っている。
それでも、袖を握られたままでは立ち上がることすらできなかった。
「本当に困った人だ。」
そう言いながらも、その声音には優しさしか滲んでいない。
蔀戸から差し込む月明かりが、眠るミサの横顔を淡く照らしていた。
昼間、人々の前で見せる笑顔とは違う。
何の力も入っていない、年相応の穏やかな寝顔。
その表情を見ているだけで、不思議と胸の奥の張り詰めていたものがほどけていく。
「……少しくらい、頼ってくれてもいいのにな。」
誰に聞かせるでもない独り言が、静かな部屋へ溶けていく。
昼間から感じていた違和感。
笑っていても、その笑顔の奥に何かを隠しているような気がしてならなかった。
自分にはまだ話せないことがある。
そのことだけは、痛いほど伝わってくる。
「全部、一人で抱え込むなよ。」
返事の代わりに、ミサの指先がぴくりと小さく動く。
それでも袖を握る手は、少しも緩まなかった。
篤久は思わず笑みを零す。
「……仕方ないか。」
書きかけの紙は明日でも書ける。
朝廷のことも。
朱雀のことも。
全部、明日考えればいい。
今夜くらいは――。
この穏やかな時間を、誰にも邪魔されたくなかった。
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