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第三章 朱雀の宿命 第二十七話『迫る新月』

ミサと街へ出掛けた、あの日を境に。


ぴたりと妖魔は姿を現さなくなった。


上級妖魔が出現して以来、一匹たりとも現れない。


あず姫が妖魔の出現を予知することもなく、ただ静かに日だけが過ぎていく。


夜明け前の空には、糸を引いたように細い月が淡く浮かんでいた。


明日には三十日月も姿を消す。


そして――新月は、明後日の夜。


妖魔が現れない以上、守護者が集う理由もない。


篤久は、あの日以来ミサと顔を合わせていなかった。


今日で四日。


たった四日。


それなのに、四十日にも感じられるほど長かった。


原因は、自分自身が朝堂院へ縛り付けられていることだった。


東宮へ提出した政策案が思いのほか高く評価され、帝の勅命によって連日の朝議への出仕を命じられている。


東宮は「右腕が戻ってきた」と上機嫌だった。


その一方で、篤久の機嫌は日を追うごとに悪くなっていた。


朝堂院へ入れば、日が暮れるまで外へは出られない。


当然、ミサにも会えない。


――会いたい。


その想いだけが、胸の内で静かに膨れ上がっていく。


決定的だったのは昨日だ。


本成から届いた通信鏡。


鏡の向こうには、ミサが映っていた。


本成と肩を並べ、自然に笑い合いながら街を歩く姿。


本成を疑ったわけではない。


ミサを疑ったわけでもない。


それでも、胸の奥に芽生えた得体の知れない焦燥だけは、どうしても消えなかった。


だからこそ。


なぎの上とあず姫から密かに呼び出された時、篤久は胸騒ぎを覚えた。


御簾も几帳もない。


人払いまでされている。


穏やかな話ではないことだけは、部屋へ入る前から分かっていた。


遣戸が音もなく閉じられる。


その静寂を待っていたかのように、腕を組んだあず姫が口を開いた。


「あんた、街で噂になってるわよ。」


篤久は眉一つ動かさない。


「男色家だって。」


「気にしておりません。」


迷いのない即答だった。


男装したミサと手を繋いで歩けば、周囲には男同士にしか見えない。


そんなことは最初から承知していた。


噂など、どうでもいい。


「……即答するのね。」


あず姫が呆れたように肩を竦める。


「事実ではありませんので。」


篤久は静かに答えた。


その落ち着き払った様子に、あず姫は苦笑を漏らす。


「それより。」


口元に小さく笑みを浮かべる。


「うちの大事なシノビを口説いたそうじゃない。」


篤久もまた、ふっと笑みを浮かべた。


「ええ。」


迷いなく頷く。


「最初に申し上げたはずです。口説く、と。」


「開き直るわね。」


「開き直ってなどおりません。」


篤久は穏やかな口調のまま続ける。


「実行しただけです。」


その一言に、部屋の空気が止まった。


あず姫は目を瞬かせ、なぎの上は小さく息を吐く。


「……本当に真っ直ぐね。」


感心とも呆れともつかない声だった。


篤久は何も答えない。


ただ静かな眼差しを二人へ向ける。


やがて、なぎの上は観念したように微笑んだ。


「……ミサが守護者ではないこと、知ったのね。」


「はい。」


篤久は驚きもしなかった。


「お二方は、一度たりともミサを守護者だとは仰っておりません。」


蒼色の瞳が真っ直ぐ二人を見据える。


「我々が勝手に思い込んでいただけ──そう言い切るおつもりだったのでしょう。」


なぎの上は静かに微笑む。


「鋭いわね。」


「違和感は最初からありました。」


篤久はゆっくりと言葉を続けた。


「なぎの上様は、『守護者同士』ではなく、『四神同士』と仰いました。」


その一言だけが、ずっと胸に引っ掛かっていた。


そして、朝堂院に出入りする文官だけが出入りを許される国書庫。


そこにあるはずの四神に関する書物だけが、不自然なほど綺麗に消えていた。


偶然で済ませられる話ではない。


「書物を隠したのも、お二方ですね。」


「……そう思う?」


「他に出来る方がおりません。」


短く答えると、部屋は再び静寂に包まれた。


しばしの沈黙が流れる。


やがて、なぎの上が静かに口を開いた。


「ミサは――朱雀の巫女なの。」


その一言に、さすがの篤久も目を見開いた。


「……巫女?」


「そう。」


なぎの上は静かに頷く。


「守護者とは違う存在。朱雀へ欲を与え、その力を支える役目を持つ者よ。」


「欲を……与える?」


篤久が眉を寄せると、あず姫が続けた。


「人が初めて抱く欲。それを朱雀へ渡すことで、朱雀は力を得ることができるの。」


「初めて抱く欲……。」


聞き慣れない言葉を、篤久は静かに反芻する。


「食欲、睡眠欲、性欲……人が強く抱く欲ほど、朱雀にとっては大きな力になる。」


篤久は黙って聞いていた。


脳裏に浮かんだのは、再会した時のミサだった。


五年前の記憶を失い、不安そうに自分を見つめていた少女。


共に過ごした時間も。


自分との約束も。


何も覚えていなかった。


なぜ、そこまで記憶を失っていたのか。


ずっと疑問だった。


だが、今なら分かる。


朱雀へ欲を渡した代償だったのだ。


「……欲を与えるたびに、記憶を失うのですね。」


篤久の問いに、なぎの上は静かに頷いた。


「ええ。」


短い返事だった。


「巫女は朱雀へ欲を渡す。その代償として、その欲に関わる記憶を失っていくの。」


篤久は目を伏せる。


再会した時のミサの姿が、鮮明に蘇る。


自分を知らない瞳。


けれど、どこか懐かしむように向けられた視線。


あれは、失った記憶の奥に残っていたものだったのか。


「……では。」


篤久はゆっくり顔を上げる。


「ミサは、すでにいくつかの欲を朱雀へ渡しているのですね。」


「そうよ。」


なぎの上は静かに答えた。


「だから、あの子は記憶を失った。」


篤久は拳を握る。


分かっていたつもりだった。


神の力の前では、人の想いなど簡単に奪われることを。


それでも。


自分がようやく取り戻した時間を、また失うかもしれないと思うと、胸の奥が締め付けられた。


「ですが。」


篤久は静かに問い掛ける。


「五年間眠っていた理由は、それだけではないのでしょう。」


なぎの上とあず姫が一瞬だけ視線を交わす。


その反応だけで、篤久は確信した。


「……何かしらの欲を与えることを、ミサは拒んだ。」


「あら。」


あず姫が少し驚いたように目を細める。


「やっぱり、あなたは鋭いわね。」


篤久は苦笑する。


「ミサのことですから。」


迷いのない答えだった。


「無理に奪われるくらいなら、何年眠ることになっても拒むでしょう。」


その言葉に、なぎの上は静かに頷いた。


「ええ。」


「だから、あの子は五年間眠り続けた。」


篤久は目を伏せる。


ミサは逃げていたのではない。


自分の心を守るために、抗っていたのだ。


「そして。」


あず姫が静かに続ける。


「私たちがあなたを呼んだ理由は、そこにある。」


「朱雀は、ミサに性欲を求めてる。」


二人の言葉に篤久は顔を上げた。


「……私に、その欲を引き出せと。」


「あら。」


あず姫が口元を緩める。


「話が早いじゃない。」


篤久は小さく息を吐いた。


「簡単に言わないでください。」


責める声ではない。


ただ、その重さを理解しているからこその言葉だった。


「欲を与えれば、ミサはまた記憶を失う。」


「ええ。」


即答だった。


篤久の胸に、鈍い痛みが走る。


また忘れられるかもしれない。


ようやく再会できたのに。


ようやく想いが届いたのに。


「期限は新月まで。」


「……はっ?」


唐突に、期限を設ける二人の言葉に、さすがの篤久も呆れと驚きが隠せない。


篤久は静かに二人を見る。


「なぜ、新月までなのです。」


その問いに、部屋の空気が変わった。


短く答えると、二人は沈黙した。


しばしの間が流れる。


やがて、なぎの上が静かに口を開いた。


「……朱雀が、死ぬからよ。」


「……え?」


篤久の表情が初めて崩れた。


「朱雀が……死ぬ?」


「そう。」


なぎの上は静かに頷く。


「今の朱雀は、もう長くは保たない。新月の日に、その命が尽きる。」


篤久は言葉を失った。


四神の一柱。


朱雀。


その存在に終わりが訪れるなど、考えたこともなかった。


「朱雀は……死ねば終わりなのですか。」


「いいえ。」


なぎの上は首を横に振った。


「朱雀は死と再生を繰り返す神。」


「再生……。」


「条件を満たせば、再び蘇ることができる。」


篤久は静かに息を吐く。


「そのために……ミサが必要なのですね。」


なぎの上は頷いた。


「ええ。」


「朱雀が死を迎える前に、十分な力を渡さなければならない。」


「だから、新月までに性欲が必要なの。」


ようやく理解した。


急がなければならない理由。


二人が自分を呼び出した理由。


すべては、朱雀の命が尽きる前に――。


篤久は静かに息を吐いた。


そして、ゆっくりと二人へ向き直る。


「……分かりました。」


「……ですが。」


篤久は静かに問い掛けた。


「朱雀が死ねば、ミサはどうなるのです。」


その問いに、なぎの上とあず姫は一瞬だけ黙った。


やがて、なぎの上が静かに口を開く。


「巫女ではなくなるわ。」


「……それだけですか。」


篤久の声が低くなる。


「私が聞いているのは、役目のことではありません。」


蒼色の瞳が二人を真っ直ぐ見据える。


「ミサ自身が、どうなるのかを聞いています。」


しばしの沈黙。


やがて、なぎの上が静かに口を開いた。


「……今は、話せないわ。」


短い言葉だった。


けれど、それ以上を尋ねることを許さない響きがあった。


篤久は黙って二人を見る。


何かを隠している。


それだけは確信していた。


だが、なぎの上とあず姫が話さないと決めた以上、無理に聞き出すことはできない。


篤久は静かに息を吐く。


ならば今、自分にできることをするしかない。


篤久が退室しようとした時だった。


「ああ、そうそう。」


あず姫が思い出したように声を掛ける。


「ミサには、新月の日まで暇を言い渡してあるわ。」


その言葉に、篤久の足が止まった。


「……新月の日まで。」


「あら、聞こえなかった?」


あず姫は悪戯っぽく笑う。


「新月まで好きに過ごしていいってことよ。」


篤久は僅かに目を細める。


「では。」


静かに振り返る。


「私にも暇を頂けるということですね。」


あまりにも迷いのない言葉に、なぎの上は呆れたように息を吐いた。


「……朝廷はどうするの?」


「昨日から、議論は滞っております。」


篤久は平然と答える。


「いつ終わることやら、私には想像もつきません。」


その答えに、あず姫は思わず笑った。


「本成の言っていた通りね。」


「ええ。」


なぎの上も小さく苦笑する。


「朝堂院に閉じ込めておいても、結局仕事が進まないわけね。」


篤久は何も答えない。


否定もしない。


その態度が、何よりの答えだった。


昨日、朝議の休廷中に本成から通信鏡が届いて以来。


篤久は、あえて発言を控えていた。


いつもなら即座にまとまるはずの議論も、篤久が沈黙すれば進まない。


東宮が頭を抱えているという話も、すでに耳に入っていた。


「……あなた、本当に分かりやすいわね。」


なぎの上がため息をつく。


「わざとでしょう。」


「さあ、どうでしょう。」


篤久は僅かに口元を緩める。


否定はしなかった。


「……仕方ないわね。」


なぎの上は観念したように息を吐く。


「新月の日まで許可します。」


「ありがとうございます。」


篤久は深く一礼した。


ようやく、胸の奥にあった焦りが少しだけ薄れる。


ミサに会える。


その事実だけで、張り詰めていたものが僅かに緩んだ。


篤久は二人へ再び頭を下げると、部屋を後にした。


閉じられた遣戸の向こうへ、その姿が消える。


残された二人は、しばらく無言でその方向を見つめていた。


やがて、あず姫が小さく息を吐く。


「……本当に一直線ね。」


「そうね。」


なぎの上も静かに頷く。


「だからこそ、ミサも心を動かされたのでしょうね。」


しかし、その表情はすぐに曇った。


「……どうか。」


小さく呟く。


「間に合って。」


その願いが誰に向けられたものなのか。


答える者は、誰もいなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


10/31まで毎日20時に更新です。

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