第三章 朱雀の宿命 第二十五話『運命への扉』
三日間。
突然与えられた自由に、ミサは戸惑っていた。
これまで宮廷で役目のない日はほとんどなく、なぎの上やあず姫の側に仕え、命じられたことをこなすのが日常だった。
けれど。
「好きに過ごしなさい。」
そう言われても、何をすれば良いのか分からない。
廊下を歩きながら、ミサは小さく首を傾げた。
――何をしよう。
考えても答えは出ない。
けれど、真っ先に浮かんだのは篤久の顔だった。
――篤……。
胸が小さく痛む。
あの日から、自分から避けていた。
返事を求められたら、どうすればいいのか分からなかったから。
好きだと言ってくれた。
五年間、想い続けてくれた。
その気持ちが嬉しくないはずがない。
むしろ、嬉しくて仕方なかった。
だからこそ怖かった。
もし会ってしまったら、この決意が揺らいでしまう気がした。
――駄目。
ミサは小さく首を振る。
今は会えない。
会ってはいけない。
そう思いながら空を見上げると、秋の気配を含んだ風が頬を撫でた。
あと三日。
その言葉だけが胸に重く残る。
朱雀の巫女として生きると決めた時、死ぬ覚悟は出来ていた。
怖くなかった。
自分の命より、守るべきものがあると思っていたから。
けれど今は違う。
篤久と再会した。
本成や新太と出会った。
なぎの上やあず姫に、大切にされた。
気付けば、失いたくないものが増えていた。
「……。」
ミサは胸元に手を添える。
――死にたくない。
そう思った自分に驚き、すぐにその気持ちを押し込めた。
違う。
そんなことを願ってはいけない。
そう思った、その時だった。
ふと、別の考えが浮かぶ。
――妖魔退治なら。
下級妖魔なら、自分でも倒せる。
余計なことを考えずに済む。
誰にも迷惑を掛けない。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
ミサは身支度を整える。
朱色の組み紐で髪を結ぶ。
神力が満ちた髪は、以前の黒色ではない。
今は朱雀の力を宿した証として、鮮やかな朱色へ変わっていた。
隠すために布を巻く。
それでも完全には隠せない。
けれど、これでいい。
そう思い、ミサは一人で宮廷を後にした。
向かった先は玄武地区だった。
理由は分からない。
ただ、気付けば足が向いていた。
篤久と歩いた道。
篤久と笑った場所。
一緒に食べ歩いた通り。
数日前のことなのに、遠い昔のようにも感じる。
――手を繋いで歩いたんだった。
思い出してしまい、慌てて視線を逸らす。
胸が苦しい。
忘れたいわけではない。
けれど今はまだ、向き合う勇気がなかった。
そんな時だった。
気持ちを落ち着かせると、自然と足は診療所へ向かっていた。
しかし、診療所の近くまで来ても妖気は感じない。
いつもなら妖魔に取り憑かれた者たちの妖気が微かに漂っているはずなのに、今日はその気配がまるでなかった。
――今日は誰もいないのかな?
診療所の前で立ち止まる。
入るべきか。
そのまま帰るべきか。
少し迷っていた、その時だった。
「あれ? ミサ?」
不意に名前を呼ばれ、ミサは顔を上げる。
「本成?」
診療所から出てきた本成が、意外そうに目を瞬かせた。
「どうしたの? こんなところで。」
「えっと……。」
どう説明しようか迷っていると、本成が何かに気付いたように笑う。
「あっ、もしかして玄武に会いに来た?」
「玄武?」
意味が分からず首を傾げる。
そんなミサを見て、本成は閉めかけていた診療所の扉を開いた。
「まあ、入って。」
「え?」
「こないだ篤久と来たんでしょ?」
「う、うん。」
「なら話は早いかな。」
そう言うと、本成はミサを中へ招き入れた。
診療所の中は、前回来た時とは別世界だった。
妖魔に取り憑かれた患者たちで溢れていた待合室は静まり返り、今は数人が順番を待っているだけだった。
「今日は平和なんだね。」
「妖魔も毎日暴れるわけじゃないからね。」
本成は肩を竦める。
「本成はどうしてここに?」
「僕?」
本成は少し笑った。
「薬の配達。」
「本成が?」
「そう。」
意外だった。
妖魔退治をする玄武の守護者としての姿は見たことがあったが、薬師としての一面は知らなかったからだ。
そんな反応を見て、本成が苦笑する。
「本当に何も聞いてないんだね。」
「ご、ごめんなさい。」
「どうして謝るの?」
本成は楽しそうに笑った。
「悪いのは説明不足の篤久だから。」
そう言うと、本成は廊下を進み、一つの扉の前で立ち止まる。
軽く扉を叩いた。
「入るよ。じいちゃん。」
「じいちゃん?」
思わず聞き返す。
すると中から年老いた声が聞こえた。
「なんじゃ? 忘れ物か?」
本成は扉を開けた。
ふわりと薬草の香りが鼻をくすぐる。
机に向かっていた老人は顔も上げず、何かを書き続けていた。
「違うよ。お客さん。」
「客?」
老人がゆっくりと顔を上げる。
その瞬間――
ミサは息を呑んだ。
――神気……?
目の前の老人から微かに感じる神気。
普通の人間ではない。
そう直感した。
「じいちゃん。さっき話した朱雀の……。」
「ああ。」
老人は静かにミサを見つめる。
「朱雀の巫女か。」
ミサの身体が固まる。
――どうして。
なぜ知っているのか。
混乱するミサを見て、本成が吹き出した。
「やっぱり、その反応するよね。」
「も、本成!?」
「ミサ。」
本成は楽しそうに言った。
「僕の祖父で、元玄武の守護者だ。」
「えぇぇぇぇぇぇぇ!!」
両手で口を押さえ、目を丸くするミサ。
その反応を見た本成は、堪えきれず吹き出した。
――やっぱり何も聞いてない。
篤久に心の中で感謝する。
説明不足のおかげで、こんなにも素直な反応が見られるのだから。
「あははっ。本当に何も聞いてないんだね。」
笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら言うと、ミサはこくこくと頷くことしかできなかった。
元守護者。
だから、あの神気だったのか。
ようやく納得した、その時だった。
本成がにやりと笑う。
「ちなみに、今日ここにいるのは祖父だけど――」
嫌な予感がした。
「この前ミサが会ったのは、祖父の身体を借りた玄武だよ。」
「……へ?」
思考が止まる。
数拍遅れて意味を理解したミサは、固まったまま瞬きだけを繰り返した。
そのあまりにも見事な反応に、本成は再び腹を抱えて笑い出す。
「あははははっ! だめだ、本当に面白い!」
「本成、お前の悪い癖が出とるぞい。」
本成の祖父が呆れたように笑う。
「だって、こんなに驚いてくれるんだよ? 見てて飽きないよ、ほんと。」
「もう……。」
笑われている理由すら分からず、ミサは困ったように視線を泳がせた。
本成の祖父はゆっくり立ち上がると、ミサの前まで歩み寄る。
「この前はワシの意思はなかったが、玄武を通して見ておった。改めて名乗ろう。」
穏やかに笑い、胸に手を当てる。
「九条元宝院じゃ。九条家で医師をしとったが、今はここで町医者をしておる。」
ミサは慌てて被衣を整え、深く頭を下げた。
「先日はご挨拶もできず申し訳ありませんでした。初めまして、ミサと申します。」
「気にせんでよい。あの日は青龍の坊が慌ただしく帰っていったからの。」
髭を撫でながら、元宝院はふぉっふぉっと笑う。
その笑い方が、どこか本成によく似ていた。
――本成がおじいさんになったら、こんな感じなのかな。
そう思って二人の顔を見比べる。
……でも。
視線は、つるりとした頭へ。
――そこだけは似ませんように……。
心の中でそっと祈った。
「ミサ。」
本成がにやりと笑う。
「僕は母君によく似てるって言われるから、大丈夫じゃないかな。」
「えっ!?」
ミサは勢いよく顔を上げる。
「なんで分かったの!?」
「顔に全部書いてあるから。」
本成は肩を震わせながら笑う。
――また読まれた。
篤も。
なぎの上も。
本成まで。
この人たちは本当に人の心が読めるんじゃないだろうか。
もちろん違う。
ただ、ミサは思っていることがそのまま表情に出る。
本人だけが、そのことに気付いていなかった。
元宝院はそんな二人を見比べ、目を細める。
「ほれ、本成。診療の時間じゃ。」
「はーい。」
名残惜しそうに返事をした本成は、ミサへ向き直った。
「じゃあ、続きは外で話そうか。」
「う、うん。」
二人は元宝院へ一礼すると、診療所を後にした。
穏やかな陽射しが二人を優しく包み込む。
このあと本成の口から語られる話が、ミサの運命をさらに大きく動かすことになるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
10/31まで毎日20時に更新です。




