第三章 朱雀の宿命 第二十四話『残された三日』
三日後。
『……惜しかったな。』
頭の奥へ直接響く声に、ミサはゆっくりと目を開いた。
気付けば、そこは見慣れた朱雀の領域だった。
辺り一面何もない世界。
その中で揺らめく炎。
そして、その中心に佇む存在。
朱雀。
だが。
以前に見た時とは明らかに違っていた。
その身を包む炎は弱々しく、僅かな風でも消えてしまいそうなほど細い。
――これが……朱雀。
ミサの胸が締め付けられる。
生まれた時から自分の中に存在している神。
その命が、もう長くない。
「……私、何に欲を出したんですか?」
恐る恐る問い掛ける。
すると朱雀は、静かに目を細めた。
『まだだ。』
「え?」
『お前の欲は、まだ形になっていない。』
意味が分からず、ミサは首を傾げる。
『だが、あと一歩だった。』
その言葉に、胸が跳ねた。
『青龍の守護者との間で芽生えた感情。それをもう少し深く受け入れていれば、お前の中にも確かな欲が生まれていただろう。』
「っ……。」
途端に顔が熱くなる。
思い出したのは、三日前のこと。
篤久の唇。
抱き締められた腕。
耳元で囁かれた声。
あの時。
もし、あのまま時間が続いていたら――。
そこまで考えて、ミサは慌てて首を振った。
『その先にあるものが、お前の求める欲だ。』
「だから……人の心を読まないで下さい!」
思わず声を上げる。
だが朱雀は気にした様子もない。
『ならば問おう。』
炎が僅かに揺らめく。
『なぜ、会おうとしない?』
「……。」
答えられなかった。
会いたい。
本当は。
今すぐにでも会いたいと思っている。
けれど。
会えばどうしても揺らいでしまう。
だからこそ。
『……三日後の夜明けだ。』
突然の言葉に、ミサの身体が固まる。
「……え?」
朱雀は静かに告げた。
『余の命は、そこで尽きる。』
その瞬間。
周囲の音が消えたように感じた。
朱雀の死。
それは。
自分の死を意味する。
巫女になった時から分かっていたことだった。
覚悟していたはずだった。
なのに。
期限をはっきり告げられた途端、胸が苦しくなる。
息が浅くなる。
指先が冷たくなる。
そんなミサを見つめ、朱雀は淡々と続けた。
『その前に、最後の欲を喰わせろ。』
「……。」
言葉が出ない。
怖い。
そう思ってしまった。
死ぬことが。
ではない。
もう二度と。
篤久に会えなくなることが。
その事実に気付いた瞬間、ミサは自分自身に驚いた。
――生きたい。
そう思ってしまった。
「……三日後。」
震える声で呟く。
「新月の日……ですよね。」
『そうだ。』
「結界は……。」
自分の命より先に、そのことを確認してしまう。
「張れますよね?」
朱雀はしばらくミサを見つめた。
そして。
『それは問題ない。』
その答えに、ミサは小さく息を吐いた。
世界が滅びない。
それだけで良かった。
朱雀はゆっくりと目を閉じる。
身体を包んでいた炎が、少しずつ薄れていく。
「朱雀!」
思わず呼び止める。
だが。
返事はなかった。
次の瞬間。
視界が白く弾けた。
※ ※ ※
夜明け。
空が白み始める頃。
ミサはなぎの上とあず姫へ報告するため、奥の間を訪れていた。
「三日後……?」
あず姫の表情が曇る。
「……朱雀が、そう告げたのね。」
なぎの上の声も、いつになく静かだった。
「はい。」
ミサは深く頭を下げる。
「あと三日ですが、その間も変わらず、お二方にお仕えさせていただきます。」
そう告げた瞬間だった。
「いいわ。」
あず姫が迷いなく答えた。
思わぬ返事に、ミサは顔を上げる。
「え?」
「そうね。」
なぎの上も静かに頷いた。
「三日間、ミサの好きにしなさい。」
「……それは。」
ミサは戸惑う。
「お暇をいただく、ということでしょうか?」
すると二人は顔を見合わせた。
そして。
ふっと優しく笑った。
そこにはいつものような試すような笑みも、含みもなかった。
ただ。
ミサを想う気持ちだけがあった。
「違うわ。」
あず姫が穏やかに言う。
「私たちの側にいたいと思うなら、いていいのよ。」
「ただ。」
なぎの上が続ける。
「残された時間を、誰かのためだけに使う必要はないでしょう。」
その言葉に、ミサの胸が締め付けられた。
母を亡くした時。
何も分からず、何も持たず。
ただ使命だけを背負っていた自分を、この二人は受け入れてくれた。
守護者ではない自分を。
何者でもなかった自分を。
それでも傍に置いてくれた。
「……ありがとうございます。」
声が震える。
「本当に……ありがとうございます。」
頭を下げる。
涙を見せないように。
けれど。
「泣いてもいいのよ。」
あず姫の優しい声が響いた。
ミサは顔を上げる。
「え……。」
「ずっと我慢してきたでしょう?」
その言葉に。
とうとう堪えていた涙が零れた。
「っ……。」
声を出さないように唇を噛む。
それでも涙は止まらなかった。
あず姫は静かに近付き、ミサを抱き寄せる。
「少しくらい、甘えたっていいのよ。」
温かな声だった。
ミサは一瞬、どうしていいか分からなかった。
誰かにこんな風に抱き締められた記憶など、ほとんどない。
けれど。
背中を優しく撫でられた瞬間。
張り詰めていたものが崩れた。
「……。」
声にならない涙が落ちる。
あず姫は何も言わなかった。
ただ静かに抱き締め続けた。
なぎの上も、何も言わず見守っていた。
やがて。
少し落ち着きを取り戻したミサは、慌てて身体を離す。
「も、申し訳ありません……。」
「あら。」
なぎの上が少し笑う。
「そこはありがとうで良いのよ。」
「……。」
ミサは小さく頷いた。
「……ありがとうございます。」
その言葉に、二人は優しく微笑んだ。
「たまには頼りなさい。」
あず姫が言う。
「ミサは、いつも一人で抱え込み過ぎるから。」
否定できなかった。
ミサは苦笑する。
「……気を付けます。」
「本当に?」
なぎの上が疑うように目を細める。
「はい。」
「なら、三日間くらいは素直になりなさい。」
「……。」
その言葉に、ミサは少し困ったように笑った。
「善処します。」
「そこは素直に頷くところでしょう。」
久しぶりに聞く、いつものやり取り。
その温かさが、余計に胸へ染みた。
「では……失礼します。」
最後にもう一度、深く頭を下げる。
御簾の向こうへ向かう足取りは。
来た時よりも少しだけ軽かった。
※ ※ ※
ミサの気配が遠ざかる。
静かに戸が閉じられる。
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
「三日……。」
あず姫が小さく呟く。
「ええ。」
なぎの上も頷く。
残された時間は、あまりにも短い。
「朱雀に与える欲が大きいほど、生まれ変わる時期も早まる。」
「けれど。」
なぎの上は目を伏せる。
「五年間眠っていたミサが得たものは、あまりにも少ない。」
沈黙が落ちる。
そして。
あず姫が静かに口を開いた。
「……最後に必要なのは。」
一瞬、言葉を選ぶ。
「ミサ自身の願いなのかもしれないわね。」
なぎの上は黙って窓の外を見る。
欲とは。
誰かに命じられて生まれるものではない。
ましてミサは。
自分より他人を優先して生きてきた。
自分が何を望んでいるのか。
それすら、きっと後回しにしてきた。
「運命というものは…本当に意地が悪いわ。」
※ ※ ※
その頃。
ミサは一人、廊下を歩いていた。
三日後。
その言葉だけが頭の中を巡る。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも。
朱雀の巫女だと告げられた時から覚悟したことだった。
ただ――。
今は少しだけ、生きたいと思ってしまった。
「……篤。」
自然と名前が零れる。
その瞬間。
腰元に結ばれた小さな鈴が、かすかに揺れた。
――チリン。
静かな廊下に、小さな音が響く。
ミサは足を止める。
母から貰った、いつもの鈴。
ただの飾りだと思っていた。
けれど。
なぜか今だけは。
その音が、自分の奥にある本当の想いを知らせているような気がした。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
会わないようにしていたはずなのに。
忘れようとしていたはずなのに。
残された時間を知らされた瞬間。
真っ先に浮かんだのは、彼だった。
「……駄目だよ。」
誰に言うでもなく呟く。
想いを伝えない。
期待を持たせない。
それが自分にできる最後の優しさだと思っていた。
けれど。
本当にそれでいいのだろうか。
答えは出ない。
ただ―――
廊下を抜ける風が、静かに袖を揺らした。
夏の熱を少しだけ残しながら。
どこか秋の気配を含んだ風だった。
ミサは足を止め、空を見上げる。
高く澄んだ空が広がっていた。
その美しさが。
今日は少しだけ切なかった。




